狭山事件: 脅迫状が差し込まれていた場所


東京タイムズ昭和38年5月4日付


「(被害者宅)のうら口、台所の窓口に手紙(引用注:脅迫状)がおいてあった」

正月早々に、伊吹隼人さんから「狭山事件に関する東京タイムズの当時の報道が面白い」ということでコピーを送っていただきました。ありがとうございます。読んでみると確かに興味深い記事が多いため、これから何回かに分けてご紹介していきたいと思います。

本日引用したのは、5月4日付の狭山事件発生を報じた第一報です。

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狭山事件: 証拠開示14件

報道によると、再審請求の中で石川さんの弁護団が請求していた証拠開示に対して、12月14日に検察が14件の証拠を開示したとのことです。

14件の証拠の中身が報道では今一つわかりにくい状況です。上でリンクした埼玉新聞や朝日新聞の報道を総合すると、

  • 開示された証拠
    • 万年筆などに関わる証拠
    • 「犯行現場」の特定に関わる捜査書類
    • 万年筆やカバン、腕時計に関する捜査報告書や、供述調書
  • 「不見当」とされた証拠
    • スコップの指紋検査報告書
    • 「犯行現場」を特定するための捜査書類
    • 万年筆の置き場所の図面

という感じで、結局「犯行現場を特定するための捜査書類」は開示されたのか開示されなかったのか、どっちなんだよと言いたくなります。

「真犯人推理」という観点からは正直なところそれほど重要なものはなさそうです。ただ、弁護団も戦略があるのでなんでもかんでも情報開示するわけにもいかないという事情もあるでしょうし、今後の続報を待ちたいと思います。
石川さんの冤罪を証明する上では強力な証拠になりそうなものは多いので、そちらの面での進展は期待できるのではないかと思います。


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狭山事件: 「未解決事件捜査地図」

現在書店で売られている「未解決事件捜査地図」というムック本で、狭山事件がとりあげられています。著者の朝倉秀雄氏は元国会議員秘書で、「15年にわたる調査活動」の間に「10回以上も事件現場の狭山に足を運び」、この記事をまとめたとのことです。

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狭山事件: 地元における対立構造

伊吹隼人さんから、「区長について その2」エントリへのコメントをいただきました。ただ、コメントとして掲載するには内容が重大すぎると思いますので、新規記事として掲載させていただきます。伊吹さんからも「さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたい」とのことですので、些細なことでも結構ですのでご意見・ご質問をいただけると幸いです。

なお、下記には今回初公開の内容が含まれています。これらの内容は伊吹さんならびに協力されている方々の取材によって判明した事実に基くものであることを申し添えます。


事件と当時の村内の対立、N家をめぐる事情についてまとめてみました。ここからは果たしてどのような推理が可能になるでしょうか?さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたいと思っています。宜しくお願いします。(伊吹)

  1. 昭和8年~9年頃? 被害者の母親のMさんが川越市中福のA家からN家に嫁いだ。A家は中福を代表する大農家の一つ。嫁いだ日の翌朝、N家の庭には〝嫌がらせ〟として墓を模した大きな「土まんじゅう」が造られてあった。美人であったMさんに恋焦がれていた者の犯行とも噂されたが、結局犯人は分からずじまいであった
  2. N家は戦後、闇野菜で大儲けし、地域を代表する農家にのし上がったといわれている(※後述の通りN家は地元政治家との関係も深く、闇野菜の扱いに関してもその力添えがあったという噂もある)
  3. 昭和22年、農地改革があった年に被害者が誕生。N家の近隣住民によれば、「N家も、母親の実家のA家も、いろいろ因縁のある家だった」「家族関係が複雑だった」「普通の家族じゃなかった」
  4. 亀井(荻原調査)本によれば「(被害者宅には)種違い(または腹違い)の噂もあった」
  5. 野間本によればA先生(被害者の中学3年時の担任)曰く、「変わった家庭だった」
  6. 上赤坂某地区(以下「C地区」とする)の住民によれば、「N家は複雑な家庭だった」
  7. N家では被害者と末弟・T君のみ、なぜか名前で共通の字が使われていない
  8. 昭和22年から食糧増産および農家次男・三男対策、引揚者対策として、上赤坂C地区の山林開拓の話が持ち上がった。N家を含むC地区山林所有者たちや当時の堀兼村長(諸口会三氏=被害者の同級生・諸口高男氏の父)らが猛反対。しかし、結局山林開拓が決定、N家らは広大な自己所有林を手放すこととなった。
  9. 昭和24年に20名がC地区に入植。そのうち3名は被害者の母・Mさんの実家近所の住人
  10. 山林開拓は困難を極め、入植民たちは「食うや食わずの」生活をしていた。「まともな生活が出来るようになったのは昭和40年代から。電気が引かれたのは昭和29年、水道が引かれたのは昭和39年だった」(C地区の住民)
  11. 同じC地区内でも地元出身者(Mさん実家の近所の出身者)と他地区からの入植者(満州や沖縄からの移住者を含む)との間では仲が良くなかった。地元出身者は実家から援助もして貰える立場で生活に不安がなく、他の入植者とは意識が異なっていた。
  12. 上赤坂地区内において入植民(C地区を含む)や小作人上がりの自作農民は蔑まれており、江戸期からの開拓民(N家を含む)たちから差別されていた。入植民や小作人上がりの者たちには何の発言権もなかった。部落差別とは別の、いわばもう一つの〝差別〟があった。
  13. C地区の子供たちも当時堀兼小学校では「よそ者」として蔑まれていた。その頃小学校に通っていた者は、今でも同窓会に出席しようとしないという。当時、学校内ではC地区内の子供たちだけで団結していた。その団結力の強さにはかなりのものがあった。
  14. 江戸期開拓民と小作人上がりとの対立は長く続いた。これは、決して今も解消されていない。ただし、C地区を含む入植民との対立は現在ほぼ皆無となっている
  15. 昭和28年に被害者の母親のMさんが死亡。死因は脳腫瘍とされているが「毒殺された」との噂もある。収容されたのはなぜか遠方にあって精神科中心の国立武蔵療養所(現在の国立精神・神経医療研究センター
  16. 事件の頃は日本が高度成長期にあり、上赤坂近辺でも道路・河川などの開発・改修工事が盛んに行われていた。地価も急激に高騰しており、農家の中には土地を売却して多額の現金収入を得ようとする者もいた。ただし、売却にあたっては市街化調整区域指定など様々な障害があり、当然ながら調整区域の指定にあたっては「区長」を含め様々なレベルでの「政治」の介入が噂された
  17. 昭和38年3月頃?I養豚場が上赤坂・M氏宅裏手から不老川沿いに移転
  18. 同年3月~4月頃?被害者の父が上赤坂地区(78戸)の区長に就任。この区長選を巡っては内部で相当な確執があったとされる
  19. 同年4月30日は統一地方選挙で、その一環として狭山市議会選挙があった。N家がある旧・堀兼村の定員は4人で現職は自民党3、共産党1。自民党現職1名は引退したが、現職3名・新人3名が立候補し、選挙の結果、自民党が4議席を独占することになった。市議会全体では定数30で、改選後は自民と保守系無所属で27、社会党2、共産党1
  20. 同年5月1日、事件発生
  21. 警察は事件発生当初、C地区の住民を真っ先に疑った。数日後からは養豚場中心の捜査に切り換えた、とされる
  22. 「怨恨による犯行の可能性あり」とのことで、警察はC地区とともに被害者の母・Mさんの実家および周辺も捜査した
  23. N家長兄はインタビューに対して、「『おそらく顔は知ってる人じゃないか』っていうことは父ははっきりと言いました。だから、『犯人が捕まっても写真も見たくないし、犯人とも会ってみたくもない』って父は言っています」「(父は)『犯人の方でも、私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから』と言っております」と発言
  24. N家近所の某氏によれば、「あの時は『長兄がやったんじゃないか』という噂が立った」
  25. 被害者母校の某教諭は、事件の時すぐに長兄の犯行を疑った(某教諭は被害者宅近くに親戚あり)
  26. 上赤坂C地区の住人によれば、「事件の時は『(家族関係が複雑だったため)長兄が妹を始末したのでは』との噂が立った」
  27. N家は事件当時、被害者の母親・Mさんの実家がある川越市中福にも畑を持っていた(現在は川越市に売却済み)
  28. 平成15年、C地区の開拓に反対した(上記8.)諸口会三元村長の息子・諸口高男氏(被害者の堀兼小・中学校時代の同級生)が自民党の県議となる。N家長兄も高男氏後援会の中心人物の1人だった

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狭山事件: 「バカンス」について

本件、現行の2ちゃんスレに触発されたエントリであることを最初に告白しておきます。

このへんのエントリで問題にした「バカンス」について、私(本ブログ管理人)は現在の日本語における「バカンス」という言葉の用法に引きずられて、「数日の、宿泊旅行を伴う休暇の過ごし方」を想定していました。

しかし、どうやら、当時「バカンス」という言葉の意味合いはまだ定まっておらず、被害者が書いた「バカンス」は単なる「遊び」程度の意味で、「泊まりを含む遠距離旅行」の意味は含んでいなかった可能性が高いと思われます。

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狭山事件: 「区長」について その2


『狭山市史 現代資料編』より、開拓反対の請願書

前回、被害者の父親が就任していた「区長」というのは多分に公的な役職であったことを書きました。
その父親がおそらく関係していたであろう具体的な政治関係の話があります。本日の画像は「民有林開拓反対の請願書」です。

この請願書は、入間郡堀兼村長・諸口会三氏が会長となって設立された「埼玉県入間郡民有林開拓反対期成会」の名義で衆議院議長宛に提出されています。ちなみに、昭和22年(1947年)というと、ちょうど日本国憲法の発布に伴って帝国議会が国会に再編された年にあたり、国会への再編が5月3日、請願書提出は11月1日なので、請願書は日本国憲法下の国会で初めての衆議院議長となった松岡駒吉氏に提出されたことになります。

昭和22年当時、戦地からの引き揚げ者対策ならびに食糧増産対策として、堀兼地区の民有林を強制的に買い上げて開拓する計画がありました。上記の請願書はその計画に反対するために提出されたものです。諸口村長は後に埼玉県議会議員にも当選した地元の有力者であり、その子息も後に埼玉県議会議員を務めています。彼の旗振りの下、請願書には8,253名が署名したとされています。後に昭和29年に堀兼村も参加して合併・誕生した狭山市の発足直後の人口が31,030人であることを考慮すると、名前が挙げられている町村は狭山市の市域とは異なる(冒頭に上がっている柳瀬や大井はもっと東の方で、現在の所沢市やふじみ野市にあたります)ものの、当時の当該地域に住んでいた成人の大部分が署名に参加したものと考えられます。これだけの、いわば地元を挙げての反対がありながら、結局この計画は実行に移され、被害者宅からも遠くない堀兼村内のとある地域で50町歩(ほぼ50ha)が開拓されることになりました。請願書の提出先が衆議院議長であったことからも、場所まで含めて国政レベルの政治が動いての決定であることが伺えます。

この先は個人情報も絡むのでちょっと公開の場で具体的に書くことを憚られますが、他の資料から考えても被害者の父親はこの開拓反対運動に参加していたと思われます。そうなると、場所も近いことから、実際に入植した人たちとの間にトラブルもあったのではないかと思います(なお、この部分は私(本ブログ管理人)の憶測が入っていることをお断りしておきます)。
狭山事件が起こった直後、被差別部落への見込捜査が始まるまでの数日間、警察の捜査は地元関係・怨恨関係を中心に進められていたと言われています。その「地元・怨恨関係」とは、被害者の父が区長を務める地元の有力者であり、上記の開拓反対に関係していたことからのトラブルだったのではないかというのは一つの、かなり蓋然性が高い可能性だと私は考えています。

狭山事件の真犯人推理の中に「黒幕説」「怨恨説」というものがあります。「黒幕=被害者宅(父)と対立する勢力」が実行犯を使嗾して事件を起こしたという説です。従来、その「対立する勢力」とは誰なのか、どういう点で対立していたのかが不明なことが問題とされてきましたが、上記の開拓反対絡みと考えると、時期的にもかなり説得力があるのではないかと思います。

 

狭山事件: 「区長」について その1

狭山事件関係の書物や議論の中で、「被害者の父親は上赤坂の区長を務める地元の実力者で…」という記述が時々出てきます。しかし、この「区長」がなんなのか、きちんと説明した文章を私は今まで見たことがありませんでした。
狭山市は東京23区内でもありませんし、政令指定都市でもありませんので、現在通常使うような、例えば「港北区長」「中央区長」などの「区長」とは意味合いが異なることは確かです。

先日、伊吹隼人さん(ならびにSさん)から『郷土誌ほりかね』という本の存在を教えていただきました。そこに区長についての話が出ていましたので、備忘録の意味も含めてまとめておきたいと思います。

いつもならここで郷土誌ほりかねのスキャン画像を置いておくところですが、古い郷土誌であまりにも個人情報てんこ盛りなので自粛させていただきます。あしからずご了承ください。

区長の起源は、明治5年に始まった戸長制度にあります。
戸長は、数カ村をまとめて区とし、その長として置かれました。なぜ区の長なのに戸長なのかは不明です(笑)。この戸長・副戸長には旧来の庄屋・名主を任命することが多く、徴税や義務教育、徴兵管理などの地方行政のかなりの部分に対して協力する存在でした。ちなみに、明治2年の記録では、上赤坂は前橋藩、中新田は川越藩、青柳は品川県となっているそうで、江戸~明治期の堀兼周辺の帰属はかなり複雑であったことが伺えます。

その後、戸長は選挙で選出されるようになったり、また官選に戻ったりと紆余曲折があったようですが、最終的に明治17年(1884年)に「戸長選任及び町村連合に対する太政官布達」(太政官達第四十一号)が出て、1) 300~500戸単位で「連合戸長」を任命すること、2) 戸長・連合戸長は(選挙の結果を参考にしつつ)官選とすることになりました。この時誕生した「連合戸長」は、付随して「戸長役場」が設置されるなど、「村」と同様の地方行政を担う存在であったようです。

明治22年(1889年)には町村制が施行されて堀兼村が誕生しました。その際に、従来の「戸長」が「区長」に改称され、村条例で区長の仕事を定めたとされています。しかし、その肝心の村条例が残っていないそうで、それ以上の詳細はわかりません。この区長も官選で、資産などの条件がついており、「世襲的のように長い間区長は動かなかった」とのことです。

その後、戦時中の隣保班(隣組)の制度や、戦後の公民館制度などとも微妙に絡み合いながら、結局のところ「区長」という名称で、少なくとも狭山市内においては半ば公的な存在として認知されていたようです。昭和45年(1970年)に改定された「狭山市区長会連合会規約」の第一条にも「本会は狭山市区長会連合会(以下連合会)と称し、事務所を市役所総務課内に置く」と規定されていて、区長会連合会の事務局を狭山市役所自身が務めるほど、公的に認められた存在であったことがわかります。ただ、いつから公選ではなく選挙で決まるようになったのかは不明です。

上述の「規約」の第四条には、連合会の事業として下記の4項目が掲げられています。

  1. 地域自治組織(各地区区長会)の連絡に関すること
  2. 自治活動の総合計画に関すること
  3. 市並びに関係団体との連絡協調に関すること
  4. その他本会の目的達成のために必要なこと

要するに、市に対する政策陳情、逆に市から下りてくる諸施策への協力等(例えば回覧板を通じて、等)が区長の仕事ということになるでしょう。

この先は私(本ブログ管理人)の想像が入ります。農地関連や市関連施設の誘致なども、市としてはまず区長(連合会)に諮問して、それから業務を進めるという形だったのではないでしょうか。従って、例えば市街化区域の指定などの具体的な線引きには、それなりの影響力を持っていたものと私は考えます。

長々と書きましたが、被害者の父親が就任していた「区長」とは下記のような存在だったと私は考えます。

  • ほとんど公職に近いものである
  • その経緯からも、家柄や資産などが実質的に就任の条件となっていたものと思われる
  • 市が政策を実行するにあたって真っ先に諮問が下りてくる存在であり、具体的な執行方法に対して大きな影響力を持っていた

このことが、「狭山事件の推理」にどう影響を及ぼすかを次回以降書きたいと思います。