伊吹隼人氏の改訂版『検証・狭山事件―女子高生誘拐殺人の現場と証言』が発刊されたとのことです。
まだ私も内容を確認していませんが、伊吹氏から伺った限りでは新証言を含むかなり大幅な改訂がされているとのことであり、狭山事件に興味がある方は是非ともご購読ください。
伊吹隼人氏の改訂版『検証・狭山事件―女子高生誘拐殺人の現場と証言』が発刊されたとのことです。
まだ私も内容を確認していませんが、伊吹氏から伺った限りでは新証言を含むかなり大幅な改訂がされているとのことであり、狭山事件に興味がある方は是非ともご購読ください。
前回エントリで書いた場所が睦雄が自殺した場所ということでほぼ確定だと思うのですが、一つだけ気になることがあります。コメントの方に書かせていただいた、事件の翌年の5月に岡山地検の中垣検事が現地を訪問したレポートには、実は続きがあります。
麓で教わった場所も来てみると頗る漠然としていた。数尺、積み重なった杉の病葉を踏みしめ、灌木の繁みを分けて、それらしき処へ出て見た。そこからは貝尾の部落は一望の下にあった。遥かに西加茂小学校も俯瞰し得る。犯人の生地加茂町倉見も見えるとのことだが、わたしたちにはよくわからなかった。
ところが、上の写真で「山頂」から見える2つの学校は加茂小学校と加茂中学校で、旧加茂西小学校(現在のウッディハウス加茂の場所)は山の向こう側になって見えません。
なお、1975年(昭和50年)に加茂小学校と統合された加茂西小学校が現在のウッディハウス加茂の位置にあったことまでは、加茂小学校に直接問い合わせて確認しましたので確実です。昭和13年の西加茂尋常高等小学校が統合直前の加茂西小学校と同じ位置だったかどうかについては現在のところ確認する方法がなく未確定ですが、常識的に考えるとおそらくは同じ位置であろうと思います。
上の地図は、発行は昭和51年ですが現地調査は昭和48年とのことで、昭和50年に統合・廃校になった小学校が地図上に残っています。「山頂」からの写真と見比べてみていただけるとわかるように、加茂西小学校は手前の山のちょうど向こう側になって「山頂」からは見えないことになります。
上の地図でわかるように、昭和40年代まで加茂の中心部にはやたらとたくさん学校がありました。そのあたりの経緯はこちらのページに詳しく説明されています。ただし、その記述によると戦前の加茂小学校はいったん廃校になって中学校になったようなのですが、現在の加茂中学校は旧東加茂村地域にあり、どうもその辺がよくわかりません。ちなみに、現在の福祉センターや郷土歴史資料館があるあたりには(新制)高校もありました。おそらく昭和29年に加茂高校として設立され、津山東高校加茂分校に再編後昭和60年に廃止(津山東高校へ統合)されています。
話を元に戻すと、一番ありそうなのは加茂小学校を西加茂小学校と見間違えたということです。中垣検事が加茂を訪れたのはこのときが初めてのようですので、この山間の町にこんなにたくさん学校があるとは思わなかったのでしょう。
以前ちらっと書いた週刊朝日2008年5月23日号の「実録 津山30人殺し 『八つ墓村』事件70年目の新証言」についてのことだと思いますが、コメントでご質問をいただいたので検証してみます。
質問なのですが「津山事件報告書」には、犯行当日の夜に貝尾部落のお堂で
睦男と村人たちが宴会をした模様は書かれていますでしょうか
こんどお暇の時にでもご回答をお願いいたします。
結論から言うと、『津山事件報告書』には当日の夜睦雄と村人が宴会をしたという記述はありません。記事を書いた小宮山明希記者の勘違いか捏造かのいずれかであろうと思います。
まず、週刊朝日の当該の記述を確認しましょう。
週刊朝日2008年5月23日号より
これを見てわかるように、
その後、都井は自宅の裏手のお堂で、村の若者ら6、7人とともに宴会に参加していたという。宴会が終了したのは深夜0時頃。惨劇はその約1時間後に起きた-。
この記述はおじいさんの発言ではなく地の文として書かれています。「宴会に参加していたという」のソースは示されていません。
他方で、上述の通り『津山事件報告書』にはそのような宴会があったという話も、睦雄が参加していたという話も書かれていません。さらに、これまで70年間、筑波本や清張本をはじめ、誰一人としてそのような宴会があったという話をしていないことから考えても、宴会の存在はほぼ「ありえない」と否定してよいと思います。
もう一つ、宴会がなかったであろう証拠を。
事件の年の8月に近くの寺(真福寺)で合同慰霊会が開催され、その際に津山警察署長や西加茂村長、さらに村人たちが参加して「座談会」が開かれました。一部は筑波本(『津山三十人殺し』)にも引用されていますが、筑波本で省略されている発言に以下の内容があります。
『津山事件報告書』より
署長 当地には結核患者を故らに嫌う風習がありますか
寺井勝 左様なことはありません
署長 犯人の遺書には部落の人が結核に対する理解がない様に書かれて居りましたね
寺井勲 近所の者は皆結核と思うて居なかったのに都井は自分から結核であると言うて居ったのです
寺井勝 私は本人に対し君は勉強が過ぎて神経衰弱になって居るので結核ではないと云うてやって居りました、年末の夜警や青年の集会等には何時も都井君行こうではないかと誘うてやって居りましたが本人は何時も行けたら行くからと云うて丁寧な返事をして居りました。しかし大勢寄り合う場所は都井自身が避けて居りました、従て消防の年末夜警にも都井を組み合わせに入れませんでした、兎に角我々は本人に対し非常に同情して居ったので新聞紙に報道されて居た様に部落の者が嫌うた事はありません
もし当日に宴会があり、睦雄がそこに参加していたのであれば、この時に「当日も青年の集会があり、都井も珍しく参加しておりました」などと村人たちが睦雄を受け入れていた例として話に出すはずです。「実はその宴会はいわゆるヤリコンで、だから村人たちはその存在を隠しているのだ」という反論もあるかもしれませんが、それならそういう宴会だったことを伏せて話をすれば済むことであり、警察署長に村の親和性をアピールする格好の材料になったことでしょう。
また、貝尾には西加茂村役場書記の西川昇が住んでいたことも見逃せません。彼は職業柄警察の聴取に対して極力情報を提供しており、そのような宴会があれば彼を通じて警察に情報が提供されることは間違いないと思います。
そもそも、5月下旬は蚕の世話で忙しい時期であり、村人の一人(寺井元一)は
事件のあった夜、私は蚕の方が忙しくて、夜の一時半頃寝ました。
と証言しています(寝てすぐ事件で騒ぎになって起こされたとのこと)。この証言と、養蚕室で仮眠をしている時に襲われた被害者が多かったことから考えても、0時前に働き盛りの青年が集まってのんびり宴会をするような季節ではなかったと思われます。これも宴会がなかったであろう傍証です。
この点以外でも、今になってこの週刊朝日の記事を読み返すといろいろとツッコミどころが多いですね。当時私が書いたエントリでは薦めてますが、正直あまりオススメできる内容ではないことに改めて気付きました。
昨日ふたたび荒坂峠を訪問しました。その気になったのは、「加茂の三十人殺し」Webページの記事がきっかけです。
前回は目が節穴で気がつきませんでした、先ほど居た青いビニールシートの小屋が見える!
貝尾部落もばっちし見えます。(肉眼でも地理に詳しければなんとなくわかる)
睦雄はここより高い山頂で眺めたし当時木も雑木で低いはずだし懐中電灯の灯りなら確認できるはず。
まして坂本(元)部落は手前で近く岡田家襲撃現場はよく見え電気もついているし騒ぎ声も聞こえたでしょう
前回の経験から木々の芽が吹き草花が生えるてしまえば景色どころか山歩きもしにくくなる。
今の現状はハゲ山状態に近く前回から心残りであった山頂達成が容易であると考えたからです。前回と同じく右わきの登り道へ。本日はこの山の頂上まで行きました。
途中から山頂までは以前からあったような窪んだ道がありますがイバラ道で歩きにくく横上道から
登りました(お地蔵様設置場所から10分位で山頂へ)
これを読んで、以下の2点を確認したいと思って現地(荒坂峠)に赴きました。
特に1.に関して、私は荒坂峠から貝尾は見えないと思っていたので意外でした。ページにある写真でも確かに貝尾部落が見えていますので確実とは思うのですが、自分の目で確かめないと気が済まない性分なもので。
道は途中で一度、完全に草と木にふさがれてしまっています
(注)春以降はここより上に行くことはかなり難しいと思われます。特に、事件が起きた5月頃に現地行きを企画している方は、チェーンソーでも装備して草木を切り開く必要があるでしょう。そもそも今の季節でもかなり危険なので、よい子の皆さんは(悪い大人の皆さんも)マネをしないでください。何らかの損害を被った場合でも本ブログ管理人は一切責任を負いません。
突破すると開けた場所に出ます。上のWebページで「頂上」と表現されているのはこの場所と思われます
念のためさらに奥に行ってみると、小高い台地になっているところが見えました。これが「仙ノ城」山頂かな?
さっき見えた「山頂」に何とかたどり着きましたが、実は後ろにもっと高い場所がありました。しかしさすがに体力が続かないので、とりあえず先ほど見えていた手前の台地に登りました。麓からずっと走って登ってきた睦雄の膂力に、改めて感嘆した次第です
この「山頂」はほぼ平らになっています。「山頂眺望好き場所にして小松雑木等繁茂する中間の約十坪(引用注、約30平米)くらいの雑草地」という検視調書の描写にほぼ合致していると思われます。もしかしたら、後ろ側のもっと高い場所にもこういう見晴らしがいい場所があるのかもしれません
「山頂」からの眺め。「眺望好き」というにふさわしい絶景です
「おーれはー かわーらーのー かれーすーすきー」と口ずさみたくなります
ちなみに、登りはじめのお地蔵さんは右下の森のさらに下の方になります
上の写真の右の方をズームして撮影。確かに貝尾が一望できます
「加茂の三十人殺し」ページ内のこちらの写真と見比べると、見下ろす角度の違いがわかると思います
現地で見たときはこの奥が倉見ではないかと思ったのですが、方角や見えている建物から考えて知和方面のようです。その先には物見や阿波があり、物見から智頭経由鳥取方面につながっています
睦雄や父母の墓がある倉見は方角的にはこの写真のもう少し左の方。やはりここからは見えないと思われます
というわけで、以前書いた「荒坂峠の山頂から貝尾は見えない」というのは間違いでした。ここにお詫びして訂正させていただきます。
この台地が睦雄が自殺した場所である可能性はかなり高いと個人的には考えています。津山事件の現地行を始めて3年。ようやくここまでたどり着いたか、と柄にもなく感慨に浸ってしまいました。
今回の現地行のきっかけをいただいた加茂の三十人殺しサイト管理人様に、改めてお礼を申し上げます。
久しぶりに津山事件に関する現地行を実施しました。というか現在まだ現地のそばの湯郷温泉にいます。昨日は、ときおり吹雪に近い雪が降る中、都井睦雄の墓を訪問してきました。上の写真は雪をかぶった睦雄の墓です。
全研究下山事件サイトにて、吉松富弥氏の証言がアップされています。音声ファイル(YouTube)と文字起こしと両方あります。吉松氏は事件当時下山家の近くに住んでおり、長男(定彦氏)と友人だった縁もあって下山家に出入りして総裁とも顔見知りだったとのことです。
証言の内容は、平成元年7月21日付毎日新聞にも掲載された、
彼は下山氏の死亡が発覚した直後、直接芳子夫人から「夫は自殺したと思うが口外しないでほしい」という言葉を聞いておられます。
というものです。証言は他にもいろいろなエピソードをまじえており、当時の世相などを知る上でも参考になりますので、下山事件に興味がある方は是非ともご参照ください。
ただし、60年以上前のことでもあり、かなり明らかな事実誤認もいくつかあります。一番大きいのは、下山総裁の奥様を高木子爵の娘さんと誤認している点でしょうか。下山事件の前年(昭和23年)に自殺した高木子爵は高木正得さんで、芳子夫人の父は高木得三さんです。「得」の字が共通していますのでもしかしたら縁者である可能性は否定できませんが、芳子夫人がつぶやいたと言われる「高木子爵のようにならなければいいが…」という発言からしても、縁者である可能性も低いと思います。
他にもルミノール反応と死後轢断の鑑定を混同していたりなど、かなり大量にツッコミどころがあります。
そのことをもってこの吉松証言に信憑性がないというつもりはありません。逆に、吉松証言をもって下山総裁が自殺だったことが確定したなどと言うつもりもありません。ただ、非常に個人的に吉松氏の話に真実味を感じるのは、芳子夫人に誘われて教会に行ったくだりです。「賛美歌」と書いていたり(芳子夫人が吉松氏を連れて行ったのはカトリック洗足教会だと思われるので、正式には「賛美歌」ではなく「聖歌」です)、「お父さんの冥福を祈る」(キリスト教には「冥土」がありませんので「冥福を祈る」ことはありません)といったご愛敬はありますが、
ちょっと葡萄酒を飲んで、パンみたいなお煎餅みたいなものをいただいたりして、それは司祭さんから
という叙述には説得力があると思います。
私(本ブログ管理人)は一応カトリックの洗礼を受けた信者です。ミサにおいて、ご聖体を受けることができるのは洗礼を受けた成年の信者だけで、未信者(という単語も個人的にはどうかと思うのですが)は聖体拝領はできず祝福を受けるだけということになっています。しかし、未信者が多くミサに参加するような大きな教会では聖体を渡す前に「信者ですか?」と確認されますが、それ以外の普通の教会では確認もせず聖体を渡されることが多いのも事実です。また、この「聖体」は教義的には「パン」ですが、見た目は小さい煎餅のようなものです。そのあたりを踏まえると、この話は信者ではない吉松氏がカトリックのミサに参加した体験談として、かなりの信憑性を感じます。信者であればこういう間違いはしないだろうし、逆にミサに参加したことがなければこういう書き方はできないだろうからです。
また、普通の日本人の認識では、キリスト教の儀式を主宰するのは「神父」あるいは「牧師」でしょう。それを「司祭」(カトリックのミサの中で、実際に司祭のことを「また司祭とともに」などと言及します)と正しく表現しているところにもかなり高い信憑性を感じます。
一つ他殺説に有利な指摘をさせていただくと、カトリックでは自殺を否定しています。従って、夫人がカトリック信者だったことをもって総裁もカトリック信者だったと仮定すれば、総裁が自殺するのはおかしい、ということになります。しかし、総裁自身がカトリック信者だったという証拠はなく、そもそも夫人がカトリックに帰依するようになったのが下山事件の前だったのか後だったのか、確認するすべもありません。さらに、カトリックの国で自殺がまったくないわけでもありません。したがって、これも現時点ではどちらとも確認できないというのが公平なところではないかと思います。
事件後、夫人が「他殺」と言うようになった理由の一つには、カトリックが自殺を禁じていることがあるのかもしれません。
芳子夫人が事件後公式には「他殺」の線を押し通した理由について、証言の中では恩給が動機ではなかったかという指摘があります。下山家の財政が、その「国鉄総裁」という肩書きにもかかわらずかなり厳しかったのは確かなようで、その中で戸主である下山総裁が亡くなった後で4人の子供を育てるために恩給を得たいという動機が働いたのではないかという指摘は、私の個人的な推測と合致しています。
上記の感想はあくまでも私(本ブログ管理人)の個人的感想であり、絶対的な事実ではないことを改めてお断りさせていただきます。
今回の画像もおそらく本邦初公開だと思います。キャプションの「玩具用」は「玩具様」の誤植かもしれません。とりあえず「玩具用」でも意味は通るのでそのままタイトルにしました。
スキャンした写真だと細かい部分がちょっと潰れてしまっていますが、見たところこれは手作りのようです。おもちゃとして遊ぶ程度の弾丸(例えば輪ゴムとか小石程度の)も撃てなさそうな構造なので、殺傷あるいは射撃練習が目的ではなく、おそらくは関係を迫る相手の女性を脅す目的で作成したものではないかと思います。暗がりでこれを突きつければ本物かどうかわからないだろう、ということでしょうか。
事件後に自宅から発見されたとのことで、いつごろ製作したものかわかりません。睦雄が本物の猟銃を手に入れたのは昭和12年7月頃であり、それ以前であることは確実ではないかと思います。睦雄が村の女たちに性的なちょっかいを出し始めるのが昭和10年~11年初頭、万袋医師に肋膜の診断を受けるのが昭和10年12月31日、寺井マツ子の供述にある
睦雄方に部落の電燈代の集金に行つたとき其の祖母が不在であった折同人から関係をしてくれと何度も言われたが夫ある身で左様なことは出来ぬと拒絶したところ、関係してくれなければ殺すといって脅かされた。
というのが昭和11年春頃とのことなので、おそらくは昭和11年~12年初頭頃に製作したものではないかと推測します。
いずれにしても、以前からこのようなものを自分で作っていたことから考えると、筑波本にある
この段階で銃を購入した真の理由は、第一に銃を所持することによって、西川とめたちに無言の圧力をかけて、彼女たちの悪宣伝の口を封じること、第二に金品でもなびかぬ若い娘たちを、銃で脅して自由にすることの二点ではないかと考えるのが、自然のように思える。
という推測は、ある程度当たっている気もします。ただし、その後の行動を見ると、かなり早い時期に具体的な殺意が固まっていたようにも思います。このあたりは、また改めて論じさせて頂きたいと思います。