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狭山事件: OGの死因

『犯人を追う科学-完全犯罪に挑戦する科学捜査』『犯人を追う科学-完全犯罪に挑戦する科学捜査』

本日の画像は、ブルーバックスの『犯人を追う科学―完全犯罪に挑戦する科学捜査 (1965年)』という本の一節です。この本が出版されたのは昭和40年3月20日ですので、狭山事件が起こった昭和38年から2年足らず、まだ記憶も生々しい時に書かれた本ということになります。また、一審で死刑判決が出た後、二審に入って石川さんが否認に転じた後ということになります。

その死体を検視しただけで死因を農薬中毒と決めたのは、あの当時としては問題であった。死体を外から観察しただけで、農薬中毒の診断を下すことは不可能である。たとえ死体のそばに農薬の容器があったとしても、果たしてそれを飲んだか、また飲んだことが原因で死亡したかということは、死体を解剖検査して、化学的に農薬を検出し得て後に始めて(ママ)可能となる。後に死体の口中を拭った脱脂綿についての検査依頼があって、分析の結果たしかに塩素含有の農薬を証明することはできたが、それだけでは、死因、自殺の線に直接に結びつけるのには無理がある。
しかし実際問題としては犯罪を疑って司法解剖にする根拠はなく、監察医制度の行われていないところだから死因確定のための行政解剖にするわけにもいかない。

まことにごもっともなことですが、根本的な問題として、OGの死因は「溺死」とされていたはずです。この本の著者である渡辺孚氏は事件当時、科学警察研究所科学捜査部長という科学捜査の最前線にいた当事者であったにも関わらず、OGの死因を「農薬中毒」と認識していることになります。このような混乱が発生しているのは解せないところです。

また、最後の方にはこういう記述もあります。

幸いにもその後間もなく真犯人があがったから、その意味では自殺男の解剖はしなくてもよかったといえるようになった。

なってませんってば。きちんと解剖して死因を確認しなかったことで、OGに関する疑惑が白とも黒ともつかないままずっと残ってしまったことを考えると、OGの解剖をしなかったことも刑札の大きな落ち度の一つといえるでしょう。

狭山事件に関する本はこちら

狭山事件入門: OG

東京新聞昭和38年5月7日付朝刊より東京新聞昭和38年5月7日付朝刊より、OG近影

東京新聞昭和38年5月7日付朝刊より、OG新居東京新聞昭和38年5月7日付朝刊より、OG新居

事件関係者で、まず最初に「自殺」したのがOGです。OGは、被害者の葬式が行われた5月6日の朝に、農薬を飲んで実家の庭にある空井戸に飛び込んで自殺しました。このOGは、下記のような理由で事件への関与を疑われています。

  1. 中学卒業後に被害者宅で作男として住み込みで働いた経験があり、被害者と顔見知りだった。
  2. 翌日、5月7日に結婚式を控えていたにもかかわらず6日に「自殺」した。ちなみに、遺書には「病気に負けた。すまない」と書かれていた。
  3. 被害者宅で作男をした後、PTA会長の兄(「しょうじ」氏)の家で作男をしていたこともある。
  4. 事件当時はS通運(運送会社)に勤務していた。その営業所は、被害者が人を待っているような姿を目撃された第一ガードのそばにあった。
  5. S通運では、被害者の遺体に付随していたタオルや手ぬぐいの配送を取り扱ったことがあるという話がある。ただし、取り扱っていないという話もあるので確定ではない。
  6. 事件翌日、5月2日頃からノイローゼ状態となり(医師の診断があるわけではなく周囲の人の評)、5月4日(被害者の遺体が発見された日)は会社を無断欠勤した。5月5日は日曜日&こどもの日で元々休みで、6日は月曜日で出勤予定だったが出勤前に「自殺」した。
  7. 筆跡について、脅迫状の筆跡と似ている点と似ていない点が五分五分と刑札から発表された。筆跡鑑定の詳細やOGの筆跡そのものは、石川さんの裁判の中で弁護側から裁判所に何度か正式に証拠開示請求されたがすべて却下されており、公開されていない。
  8. OGの血液型はB型で、被害者の体内に残されていた精液と同じ血液型だった。
  9. 遺体発見現場の近く(200~300m程度の距離)に新居を建築中で、9割方できあがっていた。この新居に被害者の遺体を隠匿していたのではないかという推理もある。

飛び込んだ井戸は底の方がじめじめしている程度の空井戸でしたが、刑札の公式発表では死因は「溺死」とされました。

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津山事件: スーパーモーニング その2

本日の前のエントリでは興奮してしまって失礼しました。

今回の特集で参考になったことももちろんありました。

  • 地元では殺害された人数は36人と伝えられていたこと。この点については、事件直後から人名込みで30人と報道されており、36人の方が間違いと思われます。
  • 寺井ゆり子(筑波本で使われていた仮名、都井睦雄が最も執着していた女性)が2008年7月現在でまだご存命であること。これも2005年あたりまでご存命であるということは既に報じられていましたが、とりあえず現時点でもご存命であると言うことが確認されました。

しかし、せっかくのTVというメディアで、普段は証言しないような被害者の遺族などの地元の人も話をしてくれているのに、どうもツッコミが足りないというか、事件に対する基礎知識が欠落しているために食い足りない取材になっているのも事実です。「再現イメージ」みたいなつまらん映像を作ってるヒマがあったら、もっときちんと文献を読み込んで取材にあたってほしかったところです。「再現イメージ」なんて、「丑三つの村」から借りてきた方がデキがいいに決まってるんですから。

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狭山事件入門: 被害者の家族

被害者の長兄と次姉とぬこ毎日新聞昭和38年6月23日付より 被害者の長兄と次姉とぬこ

以下、被害者家族の情報です。生年で(?)がついているのは没年齢や事件当時の年齢などから推定したもので、1年くらいのズレがある可能性がありますがご容赦ください。

  • 父親。明治38年(1905年)生まれ。平成2年(1990年)没。
  • 母親。明治41年(1908年)生まれ(?)。昭和28年(1953年)没。享年45。死因は脳腫瘍。入院して10日前後で急死したこともあり、この死に疑問を感じる人もいる。1933年に嫁入りしてきた翌朝、庭に墓石が投げ込まれていたという話がある。
  • 長女。昭和9年(1934年)生まれ(?)。事件の8~9年ほど前に家を出て東京で働いていた。実家とはほとんど縁を切っており、その後結婚して子供が出来た時も実家に入れてもらえなかった。
  • 長男。昭和12年(1937年)生まれ(?)。ご存命。詳しくは下記。
  • 次女。昭和15年(1940年)生まれ(?)。昭和39年(1964年)没。享年24。自殺だった。詳細は下記。中学卒業後、高校に行かず家業を手伝っていた。さのヤに身代金(に見せかけた包み)を持っていった。
  • 三女。昭和16年(1941年)生まれ。昭和18年(1943年)没。享年3。
  • 次男。昭和19年(1944年)生まれ(?)。昭和52年(1977年)没。享年33。自殺だった。女言葉で書かれた奇妙な遺書を残している。
  • 四女。昭和22年(1947年)5月1日生まれ。昭和38年(1963年)5月1日(?)没。享年16。狭山事件の被害者。
  • 三男。昭和27年(1952年)生まれ(?)。後に他家に養子に出た。

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狭山事件入門: 遺体発見

『狭山事件公判調書 第二審』より『狭山事件公判調書 第二審』より

『知っていますか?狭山事件一問一答』より『知っていますか?狭山事件一問一答』より 被害者の遺体の状態

5月2日深夜(5月3日午前0時過ぎ)にさのヤで犯人を取り逃がした刑札は、5月3日午後7時のNHKニュースで事件の発生を一般報道し、公開捜査に切り替えました。しかし、実際は5月3日の午前中から地元の消防団員なども動員した大規模な山狩りが開始されており、実質的には3日から既に公開しているも同然の状況だったようです。

そして、5月4日午前10時30分、山狩りの消防団員が被害者の遺体を発見しました。場所は入間川駅(現狭山市駅)にもほど近い畑の中の農道でした。狭山事件関連地図もご参照下さい。

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狭山事件入門: 目次

*注: 現在、「狭山事件入門」関連のコンテンツを順次狭山事件関連資料Websiteに移行しつつあります。こちらのブログに残っている記事は内容が古くなっている場合もありますので、ご了承ください。

目次というか予定です。予定なので変更する可能性は大いにあります。

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下山事件

下山総裁47歳下山定則国鉄総裁47歳

あちこち話が飛んで恐縮ですが、本日からしばらく下山事件関係を。

下山事件の詳細については例によってhttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simoyama.htmを参照してください。要するに、昭和24年7月6日午前0時過ぎに、発足したばかりの日本国有鉄道初代総裁である下山定則氏が「轢断された死体」として発見されたという事件です。

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