本件、現行の2ちゃんスレに触発されたエントリであることを最初に告白しておきます。
このへんのエントリで問題にした「バカンス」について、私(本ブログ管理人)は現在の日本語における「バカンス」という言葉の用法に引きずられて、「数日の、宿泊旅行を伴う休暇の過ごし方」を想定していました。
しかし、どうやら、当時「バカンス」という言葉の意味合いはまだ定まっておらず、被害者が書いた「バカンス」は単なる「遊び」程度の意味で、「泊まりを含む遠距離旅行」の意味は含んでいなかった可能性が高いと思われます。
川越高校入間川分校関係を改めて調べていたら、ちょっと面白い記事を見つけたのでご紹介します。
画像で公開されている被害者の日記に以下のような記述があります。
4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。
(大きく間が空いて)
今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。
この「JRC」は、以前から推測されていたように、やはり「Junior Red Cross」で間違いないようです。
毎日新聞 昭和38年5月14日付に掲載された「女性自身」5月20日号の広告より 被害者の日記
こちらのコメントで、被害者の5月1日の日記について、別の画像が掲載雑誌の広告の形で掲載されているという情報をいただきました。本日の画像はその確認です。情報ありがとうございました>米子様
正直なところ、私もこの画像の存在は知りませんでした。また、該当のコメントでご指摘いただいているとおり、被害者氏名のゴム印と被害者姓の印鑑が押されています。これがもともとあったものなのか、刑札で整理の都合上押したものなのかも全く不明です。
刑札が資料整理の目的で被害者の姓名印や印鑑を押すとすれば、普通は日記の最初のページか表2対向あたりであろうと思われ、わざわざ5月1日のページに捺印するとも考えにくいところです。ただし、5月1日が事件当日であったことを考慮すると、そこに刑札が何らかの書き込みをすることも考えられなくはありません。
もしこのゴム印と印鑑が被害者自身が押捺したものとすると、どのような意図があったのでしょうか。日記の内容から考えると、誕生日を迎えて大人へとまた一歩近づいたことで、改めて自分自身を確認したいというような意図でしょうか。真意は今となっては誰にもわかりませんが、興味深いところです。
このゴム印と印鑑を押し、「誕生日、うれしい」と書いたとき、被害者は将来への希望に満ちていたことでしょう。その未来を奪った真犯人には、やはり怒りを禁じ得ません。
申し訳ないです。本業の方が多忙を極めており、2ヶ月近く更新が滞っております。
次に書こうとしていたネタが思ったよりもまとめるのが大変だったというのも理由の一つですが、少々分割してでも少しずつまた書いていきたいと思います。
とりあえずお詫びかたがたご挨拶まで。
一応確認です。
被害者の事件当日の日記には「私の誕生日(十六才)うれしい」とだけ書かれており、他に何もなかったことが上記の画像でも確認できます。一番左側の、一番下になっている部分が5月1日の日記です。雑誌記事をスキャンしたもので解像度が低いのですが、かろうじて判読可能です。
以前にも書いたように、被害者は事前に日記の左側に当日の予定などを書き込んでおいて、その日が終わってから実際にあったことを右の方から書いていたようです。その中で、しつこいようですが、事件当日である5月1日の予定に、待ち合わせについて書かれていないのがどうも気になります。以前のエントリでは、「うれしい」の理由が待ち合わせではないかと書きましたが、他の日にはもっと詳しく予定を書いていること、MHくんへの恋心も隠さずに書いていることなどから考えても、待ち合わせの予定がこの5月1日左側を書いた時点で判明していたのであればはっきり書いたのではないかと思います(個人的な推測です)。
「女性自身」5月20日号にこの写真が掲載され、内容も報道されているということは、刑札は早々に日記を被害者家族に返還してしまっており、現時点でも日記は家族のもとにあると考えられます。写真は撮られていて後で(インク鑑定資料として)一部が弁護側にも公開されたようですが、是非とも全ページ、特に事件前日である4月30日分の写真による公開を望みます。
ちなみに、下から2番目は5月20日の日記「今年はぜひ、後楽園で王さんに会いたい。最も良い成績をおさめてほしい、王さんの誕生日だ。今年は優勝してほしい」です。王選手は前年の昭和37年に一本足打法を始めて本塁打・打点の二冠王を達成し、事件のあった昭和38年にはそれを上回る成績を残して(ただし打点王は長嶋)、巨人も優勝しました。しかし、被害者がそれを確認することはできませんでした。
一番上になっている日記が全く読めないのが残念なところです。また、この写真の撮り方からいって、ページをバラバラにしてしまっているようです。刑札で写真撮影するときにバラしたのか、「女性自身」が撮影するときにバラしたのかは不明です。
前回のエントリに伊吹さんからいただいたコメントを読んで、一つ重要なことを書き忘れたことに気がつきました。
4月29日の日記でもう一つ、「今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに」も気にかかっています。
などなど、疑問は尽きないところで、情報が少なすぎて推理すらできません。
当初「狭山工業高校の××××」に行く予定だったのが学校行事で行けなくなったとすると、被害者の方から「ごめんなさい、行けなくなりました」という連絡をしたと思われ、その際に「じゃあ、5月1日に待ち合わせて…」という話になった可能性もあります。しかし、そうなると(しつこいようですが)なぜ5月1日の待ち合わせを日記に書いていないのかという疑問が残ります。
伊吹さんのご指摘のように事件前日の4月30日分が公開されていないことを含めて、前後の日記に何かしら事件と関係ある記述があったのではないかという気がします。一刻も早い全面的な開示を望みます。
前回の続きです。
第一ガード・第二ガードにおいて目撃された際の状況から考えて、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことはほぼ確実と思います。しかし、当時の女子高生が全然関係ない人に呼び出されてそれに応ずることはまずないとも思います。また、前回も書きましたが(新伊吹本でも指摘されていますが)、当時はケータイも出会い系もありません。知人に事前に呼び出されていたとすると、考えられる可能性は下記の通りになります。
上の5.について、4月29日の日記には以下のような内容があります。
4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。
(大きく間が空いて)
今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。
川越から伊勢崎まで約60km、関越自動車道(1971年開通)がない当時の道路事情では、バスで片道2時間程度でしょうか。そのバスの中で、他校に行った中学時代の同級生と会って「誕生日にお祝いをしよう」と誘われて呼び出された可能性があるのではないか、と個人的に思っています。
その一番の理由は、5月1日の日記に待ち合わせが書かれていないからです。以前にも書いたように、被害者は日記の左の方にあらかじめその日の予定を書き込んでおいて、当日が終わってから本来の意味での日記を右の方から書いていたと私は考えています。つまり、予定を書き込む時点で待ち合わせの話があったのであれば日記に書かれているはずで、ある程度直前になって予定を伝えられたのではないかと思います。もちろん、当日(5月1日)あるいは前日(4月30日)の登下校の際に伝言されたということもありうるでしょうが、事件の2日前の4月29日に、同年代の高校生と同じバスで往復4時間も揺られていたというのはタイミングが良すぎるような気がします。
家族に見られることをおそれて待ち合わせを書かなかったという推理もできるかもしれません。しかし、被害者はMHくんに対する熱烈な恋心も日記に包み隠さずに書いていますので、待ち合わせだけ書かないということはないと思います。
交歓会に参加した埼玉県側の200人の生徒のうち、「メッセンジャー」役が務まる人物-被害者の中学時代の同級生で、犯人グループともつながりがある生徒-はいなかったのでしょうか。
新・伊吹本を読みました。
旧版と比べてかなり加筆がされています。ページ数も213ページから271ページへ、27%アップしています。ただし、文字組が変わっていますので、文章量としてはそこまで増えていない感じです。感覚的には15~20%くらいの増量かな?
大きな加筆部分は下記の通りです。
特に大きなトピックとして、「本物の」第一発見者のインタビューがあります。場合によっては石川一雄さんの裁判にも影響があるかもしれない内容です。ここで内容について詳しく書くのは差し控えますので、興味がある方は直接本をご参照下さい。
もう一つのトピックは、被害者の呼び出しについてです。犯人が被害者にどうやって最初の待ち合わせを伝えたかについては、これまでの推理本ではあまり重視されていませんでした。長兄犯人説が主流であったため、家で直接話をすれば済む、という考えだったこともあるかと思います。また、刑札・検察は石川さんの通りすがりの犯行というシナリオを書いてしまったため、そもそも待ち合わせを想定していません。
しかし、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことは各種の証言からほぼ間違いないと思われ、その上で外部に犯人がいるという立場に立つと、犯人(あるいは犯人グループ)がどうやって被害者に待ち合わせの日時を伝えたのかというのはかなり大きな問題になります。
昭和38年当時、当然ですがケータイなどというものはありませんし、インターネットの掲示板もケータイメールも、もちろん出会い系もありません。自宅に有線電話はありましたが、そこへ電話して被害者自身が出るとは限りません。被害者に限らず女子高生は暗くなる前に家に帰るのが当たり前(というより当時、途中の道には街灯もなく、暗くなると大げさでなく家に帰れないような場所でした……このあたりは新伊吹本の安田先生のインタビューを読むとよくわかります)でした。そうなると、家の外で待ち合わせの計画を伝えられる場所と機会は自ずと限られてきます。
すいません。この先を書き始めたら思ったより長くなりそうなので、日を改めてまとめさせていただきたいと思います。
一つだけ書いておくと、私の推理は伊吹氏とは多少(それほど大幅にではありませんが)異なります。