被害者は事件当日(昭和38年5月1日)朝まで日記を残しており、一部は公開されています。今日の画像はその日記です。
日記の全文は下記の通りです。
4月27日 晴 今晩もくやしい。ちょっと友人と立話しをしておそくなれば姉はおこっている。私は悪いと思いながら戸ば口を入った。「今日は立話しをしてきちったい。おそくなってごめんなさい?」と言うと、姉は何の返事もιなかった。私はそれがにくらしい。
何か一言「そうかよ。やっといたヵらいいよ。」といってくれたなら……。私はむしょうに腹が立った。
「そうだ。わかっているわ。私がおそくなったから怒っているんだろ。」とくやしさのあまり言い返した。
夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。
ふとんのなかでも くやしい くやしい ——-。
明日、○○さんに「おめでとうを言おう。友人(○○○○さん)の誕生日なのだ。満十六歳。(欄外「発信」)けんざん二八○円
4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。
(大きく間が空いて)
今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。
(欄外「受信」)二○○円 学校より 二○○円 父より
(欄外「発信」)バス 二二○円 その他交通費 一一○円
これを読んで、例によって疑問がいくつかあります。
- 4月29日の項目に関して、最後に書いてある「今日は狭山工業高校の~」という部分が前とつながっていません。左側の部分は、時制も過去のことを書いているのかどうか微妙な書き方です。
- そう思って読むと、4月27日の文章も、「明日、○○さんに~」以降が唐突です。また、見た感じのインクの付き方やかすれ方も、それより前とは異なっているように思います。
以上を元にすると、私(管理人)の推測では、被害者は日記帳の各日付ページの一番左の方にその日や翌日の予定をあらかじめ(当日より前に)備忘録代わりに書いていて、あとでページの右の方にその日実際あったことを書いていたのではないかと思います。
それを前提に4月29日の記事を読むと、当初の予定を表す左側について「狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに」という言い方が気になります。「××××(非公表なので男子か女子かも不明ですが、消し方からすると人名っぽい感じです)を訪れる予定だったのに、学校に埼玉代表として群馬に行けと言われて朝早くからバスに乗っていった、というところでしょうか。
一般的には、事件のあった5月1日の被害者の日記には「私の誕生日。うれしい」とだけ書かれていたと言われています。それは、ページの「右端」と「左端」、どちらに書かれていたのでしょうか。また、4月27日や29日と同様にその日の予定が書かれていたということはないのでしょうか。5月1日以降の日記にも、何か事件との関連を伺わせる予定は書いていなかったのでしょうか。
検察が抱え込んでいる、積み上げると2mにもなると言われる未開示資料の中に埋もれているのかもしれませんが、今後資料が発見できたら改めて検証したいと思います。
先日は、殿岡様のサイトの掲示板で、小沢糸店の閉店の情報をご提供いただきまして
ありがとうございました。こちらのサイトでは、はじめてのコメントとなりますが、よろしくお願いいたします。
「被害者の日記」の内容ですが、とりわけ「4月29日」の記載内容は、書き方として
確かに「変」ですね。管理人様のご指摘も確かに一つの着眼点かと思いました。
「4月29日」の行動予定について、「狭山工業高校」だった訪問先が、いつ変更決定
されたのかなど、補足事実を知りたいものです。
それにしましても、そもそも、被害者の日記が、なで「4月27日」と「4月29日」の
2日分の内容が公開され、その他の日付の日記は公開されないのでしょうか。
「4月27日」と「4月29日」の間の日の「4月28日」も公開されるのが自然と思われますが、間の日の「4月28日」はなぜ非公開なのでしょうか(わたしが知らないだけで、公開済みでしたら、教えてください)。「4月28日」が公開されれば、「4月27日」の日記に、「明日、(お誕生日)おめでとうと言おう」と書かれていた、被害者の「友人」と、どのようなやりとりがあったかなど、知ることができたはずですね。(「昭和38年」の「4月28日」は「日曜日」ですので、被害者は「学校」ではなく、友人の家を訪問するなり、あるいは「電話」(?)で、友人に「おめでとう」と言ったのでしょうか)。それにしましても、「4月28日」といえば、当初は、「脅迫状」の身代金受け渡し日の「訂正前」の日付とされていた日ですね(後日、「4月29日」であることがわかりますが)。
コメントありがとうございます。
公開日付の件は当方も違和感を感じました。内容をうつす時に、いったんはほぼ無意識で4月28日と書いてしまって、よく見たら29日だったので訂正したくらいです。この辺は今後も資料がないか探してみます。
また、曜日についてのご指摘も確かにその通りです。日曜日にわざわざ「お誕生日おめでとう」を言いに行くくらい仲がよかった友達ということでしょうか。
未公開の資料や証拠物件が多数あると聞きますが、何故公開しないのでしょうね?捜査班は当時、彼女の小、中学校時代の同級生などにも話を聞いたのでしょうか?ちなみに狭山工業は男子校です。
≫また、曜日についてのご指摘も確かにその通りです。日曜日にわざわざ「お誕生日おめ でとう」を言いに行くくらい仲がよかった友達ということでしょうか。
おっしゃる通り、被害者とその「友人」が、学校のないときにも「おめでとう」を言うように仲がよかったのでしたら、その友人の誕生日の4月28日の3日後となります、
被害者の誕生日に、今度は、その友人が被害者に「おめでとう」と言ったはずですし、その際、何かのヒントになるような会話を被害者と友人で交わしているかもしれません。
被害者の「4月29日」の日記の以下の部分につきまして、疑問に思ったことがありますので、管理人様のお考えをお聞きできたらと思います。
≫今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日 はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。
前提としまして、「J.R.C」とは、青少年赤十字(Junior Red Cross)の短縮語と考えてよいのでしょうか(その母体となります「日本赤十字」も、Japanese Red Cross Societyですので、その短縮語は「J.R.C」となるとも考えられますが)。
そうだとしますと、「南毛地区対埼玉県の交歓会」は、「青年赤十字」の加盟校の会合を意味することになり、会場となった伊勢崎工業高校を含む「群馬県南毛地区内」と、被害者の高校を含む「埼玉県内」のJRC加盟校の生徒が、「交歓会」に参加した、ということが考えらます。
上記を前提とした場合、
≫今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。
の1文が気になります。
この1文の末尾の「予定だったのに」の部分は、
「~予定だったのに、(予定が変更となって、狭山工業高校の××××を訪れることができな くなって残念…)」
というニュアンスを感じますが、そのような意味に解釈した場合、被害者は、なぜ
「残念」と思ったのでしょうか。
仮に、「狭山工業高校」が、4月29日の「交歓会」に参加した「埼玉県内」の
「JRC加盟校」だった場合、埼玉県内にいる被害者からすれば、「交歓会」の会場は、
埼玉県内の高校のほうが、自宅からも近くて好都合なのに、遠距離となる群馬県内の高校に変更となったことが「残念」だったのでしょうか。
もし被害者が、単に「会場の場所」の変更を「残念」に思うのなら、
「今日は、『狭山工業高校』を訪れる予定だったのに。」と書いたと思われます。
しかしながら、日記には、
「今日は、『狭山工業高校の××××』を訪れる予定だったのに。」と書かれています。
この「××××」の部分は、管理人様もご指摘のとおり、おそらく「個人名」が記載されていたからこそ、プライバシーその他の理由で塗りつぶされたと思われます。
そうしますと、4月29日の当初の予定内容として、被害者が「重要視」していたのは、
単に、場所としての「狭山工業高校」ではなく、
その高校の「××××」である「特定の個人に会うこと」となるのではないのでしょうか。
その場合は、次の疑問が浮かびます。
それは、もし、「その特定の個人」も、JRC加盟校の「狭山工業高校」の生徒であれば、たとえ、4月29日の「交歓会」の「場所」が「伊勢崎工業高校」に変更になった
としても、その「特定の個人」は、被害者と同様に、交歓会に参加するはずなので、
場所の変更はあっても、その「特定の個人」に会えることに変わりはないので、「残念」
に思う必要はなかったはずだからです。
としますと、その「特定の個人」は、「交歓会」には参加しなかった、ということが考えられますので、4月29日に、被害者は「特定の個人」に会いたかったのに、会えなかった、と推測することができるように思われます。
その場合、被害者は「特定の個人」と4月29日に会えなくて「残念」だったので、
その「特定の個人」に連絡をして、『「5月1日」の放課後に会うこと』を約束していた、という妄想まで膨らみました。
いずれにしましても、4月29日の日記に記載された「個人」に関する情報を知りたいと
思います。
以上、大変長くなりまして申し訳ございません。
たびたびすみません。
狭山工業高校は、平成元年から「共学」になったようですので、事件発生の昭和38年
当時には「男子校」だった、ということですね。被害者は、JRCの活動などで、
埼玉県内と群馬県内(南毛地区)の男子校その他の学校の男子との交流もあったはずです。
被害者の中学時代からの同窓生を含め、同年代の男子との接点について
十分な捜査はされたのでしょうか。いずれにしても、検察側が秘匿している捜査資料の
開示請求をする必要があります。
>禅公案様
すいません。JRCの意味については当方もわかりません。おっしゃるように青少年赤十字というのが有力だと思いますが、確実にそうだという証拠は持っていません。今後の研究を待ちたいと思います。
29日の左側に出てくる××××については、エントリ本文にも書きましたが日記の公開時点で消去されています。もしかしたら人名ではなく、組織名が入るのかもしれません(「狭山工業高校のソフト部を訪れる予定だった」など)。ただ、天皇誕生日で休みの日の話なので、それは考えにくいような気はします。
一方で、27日の誕生日おめでとうの話に出てくる友人の名前は見えています。しかし、公判で証言をした高校の同級生4人(ST、NT、KY、WY)とは違う名前(名字のイニシャルはN)です。
なお、元画像がボケていて下の名前が読めません。(5月13日追記: 名前なので漢字だとばかり思っていましたが、カタカナだとすると読めますね。コメントでご指摘をいただいたのでこの部分は削除させていただきます)この誕生日おめでとうの友人と29日の××××が同一人物という可能性もゼロではないと思います。だとすると29日の方だけ伏せ字にしているのがえらくマヌケですけど。>モカ様
検察がなぜ秘匿している資料を公開しないかと言えば、裁判上不利になる(被告のIKさんの無罪を証明してしまう)ことになるからでしょう。よく言われることですが、警察・検察は捜査権を持って大量の人員を投入して捜査を行い、その中で自分たちに都合がいい資料だけを証拠として裁判に提出できるのに対して、弁護側は限られた人数で、調査相手の好意に頼る形でしか調査ができないという不公平性があります。それを補って公平に事実を判断するために推定無罪の原則(疑わしきは罰せず)があるわけですが、狭山事件に限らずえん罪事件ではその推定無罪の原則が適用されずに、検察が有罪性を確実に証明できていないにもかかわらず疑わしきを罰する形になっています。警察・検察が捜査で得た資料はすべて裁判で公開し、秘匿した場合には秘匿した検察官に罰則を適用するようにするなどしなければ、公平な立場での判断はできないのではないかと思います。
管理人様) モカです。狭山工業の××… クラブ等の団体名を伏せるくらいなら学校名も出さないような気がしますが、ご家族が消したのでしょうか?仮にクラブ名だとすると日曜日でも試合とかなら有り得ますね。でも試合を見に行くからには誰か知り合いが出場しているわけだから。今は共学ですが、狭山工業は昔は男子校で、堀兼からすぐ近くだから彼女の同級生や先輩達も狭山工業に進学した男子は沢山いたのでは?彼女は高校生になって、まだ数週間だし、本当に込み入った話が出来るのはまだ中学の同級生だったと思う。いくら元気で明るい女の子で友達もすぐに出来るタイプでも、知り合ったばかりの高校の友達にはそんなにアレコレ話せなかったでしょう。私も大学生になって友達も出来たけど、毎日電話やメールで話すのは高校の友達です。まして昔の狭山の人は警戒心が強かったらしいし。
ごめんなさい、間違えました。狭山工業に行く予定の日は日曜日ではなくて祝日でしたね。でも、スポーツ試合は日曜祭日あまり関係なく行われると思います。後、お誕生日おめでとう!を言いたい友達はきっと家同士がすぐ近くの子かも。たとえば小中の同級生で、高校が別なら(または友達が高校に進学してなかったら)ゆっくり話せるのは日曜日くらいだし。昔の狭山の農村地域の進学率は100%ではなかったと思います。ところで、彼女の日記を見て感じたのですが、お姉さんはチョット気の毒。お母さんは亡くなって、上のお姉さんは外に出てしまって、下のお姉さんが家事や家族の世話をしていたのでしょう?妹さんに手伝ってほしい事がいろいろあったから不機嫌だったと思います。後日、花を見ても…と遺書に書かれていたように、大切なものを見失うくらい当時から疲れていたのかも知れません。そのお姉さんは高校に行ったのかしら?
裁判記録をチョット読んだのですが、予想はしていたものの、あまりのいい加減さにビックリでした。検察側は憶測ばかりが目立ち、物証隠匿さえも怪しい気がします。公表されない資料に興味を持っていましたが、隠している事なんかあるのでしょうか?たとえば、胃の内容物ですが、以前に管理人さんから伺った通り、トマトはカレーの材料とされています。カレーに入っていたはずのお肉は死後も消化が進んで胃からなくなったとか。これは学校で先生やクラスメイトから裏付けを取った事なんでしょうか?それに対して弁護側も何も動いていないみたいですが、どーなってるの?この曖昧さは。
>モカ様
次姉は、「中学を卒業するとすぐ家事の手伝いに入った」とあるので、おそらく高校には行っていないと思われます。「自分は家の手伝いで高校に行かせてもらえなかったのに、妹は高校に行かせてもらった上に帰りも遅くなって…」ということが言い争いの一つの原因になっていた可能性もありますね。帰りが遅くなってとは言っても、当時のことですからたかが知れているのでしょうけど。
裁判記録に関してはおっしゃる通りです。少なくとも判決に関しては憶測の連続で構成されためちゃくちゃなもので、それで一人の人間をえん罪に陥れた罪深さもさることながら、もうちょっと訴訟指揮上きちんと検察に証拠を出させて証拠固めをしてくれれば真犯人の推理も楽になるのに、ということも考えてしまいます。以前指摘した胃の内容物についてなどは、誰がどう見てもツッコむべきところですよね。
お姉さんが妹Yさんに望む帰宅時間は夕食準備を始める時間だったと思います。(遅い)と感じる時間は(夜遅く)ではなく、夕食準備に間に合わない時間だったのではないでしょうか?夕方まで農作業をして、それから6人分の食事を作らなければならないのは電子レンジやレトルト食品の普及していない時代にはけっこう大変だったでしょう。その他、洗濯物とか他の用事もあったと思うから、上のお姉さんが家を出た後、主婦を引き継いで1年くらいのTお姉さんがYさんに対して厳しくなるのは無理もないと思います。
こんな記事がありました。(誤植と思われる部分を一部訂正しました。)
F(高校名)、C(高校名)両高校が交歓会
県立F高校とC高校の第二回交歓会は、二十二日九時半からK市F高校で行なわれた。C高校生徒千四百三人と先生六十名は二十六台のバスに分乗して地元のC公園を朝七時出発二時間ほどで会場に到着した。F高校生徒は正門前に並びC高校生徒の入場を拍手で迎えた。二千五百余人の両校生徒が校庭を埋める中で、F高校生徒会長○○、C高校生徒会長○○両君の固い握手がかわされ、今後における両校の交歓、親ぼくが誓われ、生徒たちは元気に野球、体操などの運動競技や、音楽、琴曲など文化活動の交流を夕方まで繰りひろげた。〈写真 F高校とC高校の交流会風景〉
Yさんが参加したJ・R・Cの交歓会と一概に比較するのも何ですが、ここに出発時間が出ています。出向くC高校の生徒千四百三人と先生らが二十六台のバスに分乗して朝七時に出発したと。
参加生徒の差異は組織の違いなんでしょうか。
補足です。
上記F高校とC高校は、埼玉県内の高校です。交歓会と見出しにあったので、書き込ませて頂きました。
米子様
質問です。
上記の記事は事件の年のものでしょうか??
管理人様
被害者の日記にある「明日、○○さんに『おめでとう』を言おう。友人(○○○○さん)の誕生日なのだ。満十六歳」の、○○○○さんがどのような方であったかがようやく判明しました。
○○○○さんは西×セ×さんという方で、当時同じ堀兼地区内ではあるものの、被害者宅とは1kmほど離れたところに住んでいました。被害者とは小・中ずっと一緒で、幼い時分からの親友の1人だったようです。記録によると、堀兼中学3年時には被害者がA組、西×さんがC組と、クラスは異なっており、進学先も被害者が川越高校入間川分校、西×さんが川越女子高、と別々になっています。西×さんは大変優秀な方で、各種スポーツ大会などで好成績をおさめていたほか、英語の弁論大会などでも大活躍されていたとのことでした。
管理人様
上記により、
>この誕生日おめでとうの友人と29日の××××が同一人物という可能性もゼロではないと思います。
この友人と××××が同一人物(××××が個人名であった場合)という可能性は、とりあえず無くなりました。
なお、被害者と中学同期卒業で狭山工業高校に進学した生徒は計8名(うち被害者と3年時同クラスは4名)いました。また、この8名のうち被害者と途中まで通学路が同じで、朝方一緒になることもあったと考えられる生徒は計4名(うち3年時同クラスは3名)います。そのうちの1人は「佐野屋酒店」の次男です。
失礼致しました。
この記事は、昭和38年5月23日の埼玉新聞8面からのものです。この記事内に第二回とありまして、では一回目は何時だったのかなと思いちょっと繰ってみましたがわからず終いです。