1月1日に全国のセブンイレブン限定で発売される予定の別冊宝島「昭和史開封!男と女の大事件」に、伊吹隼人さんの原稿が掲載されるとのことです。タイトルは「『狭山事件』の深き謎と『真犯人』と疑われた男たちの半世紀」。
興味がある方は是非ともご確認ください。
本ブログでとりあげている事件に関する同人誌等の通信販売を行っています。詳細はこちらをご参照ください。
狭山事件の真犯人を推理する上で、最低限説明しなくてはならない4つのポイントがあります。
その他にも、殺害方法など一般的に殺人事件において問題とされる様々な問題についても説明する必要はあります。しかし、上記の4点が「狭山事件の真犯人」の推理で最も重要なポイントであることは議論の余地がないでしょう。
これらの中で最も重要なポイントは何かというと、実は三番目の「さのヤに来たのは誰か」という点に集約されると思います。この時点で真犯人(複数犯であれば一味のうちの誰か(複数の可能性もあり))が刑札の包囲の真ん中に姿を現し、悠々と逃げおおせたのは確実な事実と思われ、それをどう解釈するかで、狭山事件に関する全体の推理もほぼ決まってきます。逆に言えば、さのヤの件から想定される犯人像とつじつまを合わせるために他の3点を何とか説明するというのがこれまでの狭山事件推理の主流的な手法で、でもすべては説明できずに謎が残るという結果になっていると思います。
(注記)こう書くと「従来の手法を否定している」と取られるかも知れませんが、私(管理人)もそれがまっとうな推理の手順だと思いますし、限定された情報の中で謎が残るのもやむを得ないと考えています。
ようやくPCが戻ってきました。まる1ヶ月以上更新が滞ってしまいましたが、今後できるだけ更新していきたいと思っています。
さて、先日殿丘駿星さんのメルマガ「コラム・ゆりかもめ」において、狭山事件被害者の後頭部に残された傷について指摘がありました。とりあえず当該の写真をうpしておきます。上の写真はふつうにスキャンしたもの、下の写真は、頭の上に置いてある目盛りが見えるようにコントラストを上げたものです。この目盛りについて、1目盛りの大きさは明記されていませんが、頭の大きさ(16歳女子なので頭の幅は15~20cm程度でしょう)から考えると一目盛りは1cm、従って傷の大きさは1.5cmというところと思われます。後頭部に1.5cmというのはかなり大きな傷であり、殿岡さんが指摘しているように生前に受けた傷であればここから相当量の血液が出たと思われます。しかし、裁判における弁護側の再三の証拠開示請求にもかかわらず裁判所と検察は「殺害現場」の血液反応検査結果を開示していません。日本で初めてルミノール液による血痕反応の検査が行われたのは昭和24年の下山事件の捜査でしたので(ある意味(笑))、昭和39年の狭山事件当時には当然のように「現場」(「殺害現場」だけでなく、一時的に死体を隠していたという「芋穴」や、その途中の運搬経路とされる農道を含めて)のルミノール検査は行われたはずです。このようなかなり基礎的な事項についても裁判所と検察が証拠開示を行わないという事実が、狭山事件が「暗黒裁判」と言われる一つの大きな要因になっています。
2008年12月23日追記: 後頭部の傷は、公判調書で公表された鑑定書(五十嵐勝爾埼玉県警技師医師作成)によると長さ1.3cm、幅0.4cmとのことです。こちらもご参照ください。
本日の画像は、ブルーバックスの『犯人を追う科学―完全犯罪に挑戦する科学捜査 (1965年)』という本の一節です。この本が出版されたのは昭和40年3月20日ですので、狭山事件が起こった昭和38年から2年足らず、まだ記憶も生々しい時に書かれた本ということになります。また、一審で死刑判決が出た後、二審に入って石川さんが否認に転じた後ということになります。
その死体を検視しただけで死因を農薬中毒と決めたのは、あの当時としては問題であった。死体を外から観察しただけで、農薬中毒の診断を下すことは不可能である。たとえ死体のそばに農薬の容器があったとしても、果たしてそれを飲んだか、また飲んだことが原因で死亡したかということは、死体を解剖検査して、化学的に農薬を検出し得て後に始めて(ママ)可能となる。後に死体の口中を拭った脱脂綿についての検査依頼があって、分析の結果たしかに塩素含有の農薬を証明することはできたが、それだけでは、死因、自殺の線に直接に結びつけるのには無理がある。
しかし実際問題としては犯罪を疑って司法解剖にする根拠はなく、監察医制度の行われていないところだから死因確定のための行政解剖にするわけにもいかない。
まことにごもっともなことですが、根本的な問題として、OGの死因は「溺死」とされていたはずです。この本の著者である渡辺孚氏は事件当時、科学警察研究所科学捜査部長という科学捜査の最前線にいた当事者であったにも関わらず、OGの死因を「農薬中毒」と認識していることになります。このような混乱が発生しているのは解せないところです。
また、最後の方にはこういう記述もあります。
幸いにもその後間もなく真犯人があがったから、その意味では自殺男の解剖はしなくてもよかったといえるようになった。
なってませんってば。きちんと解剖して死因を確認しなかったことで、OGに関する疑惑が白とも黒ともつかないままずっと残ってしまったことを考えると、OGの解剖をしなかったことも刑札の大きな落ち度の一つといえるでしょう。
すいませんまた間が空きました。
「洋裁生殺し」の概要ならびに狭山事件との関連性については、以下の記事も参照してください。
今回の画像は、事件が起こった地元の北海道新聞で、犯人が妻と心中した直後に出た記事です。
狭山事件において、2番目の変死者が5月11日に「自殺」したTN(当時31歳、狭山市柏原新田在住)です。
TNの「自殺」の状況は下記の通りです。
毎日新聞昭和38年6月23日付より 被害者の長兄と次姉とぬこ
以下、被害者家族の情報です。生年で(?)がついているのは没年齢や事件当時の年齢などから推定したもので、1年くらいのズレがある可能性がありますがご容赦ください。
*注: 現在、「狭山事件入門」関連のコンテンツを順次狭山事件関連資料Websiteに移行しつつあります。こちらのブログに残っている記事は内容が古くなっている場合もありますので、ご了承ください。
「狭山事件」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。「知らない」という人も多いと思います。「『となりのトトロ』の原作になったって噂がある事件のこと?」という人もいるかもしれません。また、ちょっと知っている人でも、「なんかよく知らないけど部落差別とかの関係の事件でしょ?学校の社会や道徳の授業とかで聞いたことがあるけど、面倒臭そうだしどうでもいいよ」という人もいるでしょう。しかし、そういう人たちは確実に人生の楽しみの何%かを損していると思います。それほど、この事件は「面白い」。という言い方が不謹慎であれば、「興味深い」のです。特に、このブログに立ち寄っていただいた方は「事件」に興味がある人だと思います。そういう人なら、この事件のことを知れば知るほど、よりいろいろなことを知りたくなると思います。それほど奥が深い事件です。
「狭山事件」を一言でまとめてしまうと、「昭和38年(1963年)5月1日に、埼玉県狭山市で女子高生が誘拐されて殺害された事件」ということになります。このブログで面白いとか興味深いとか言うのは、この女子高生殺人事件そのものに関して、です。一般的に「狭山事件」と言う場合には、「その女子高生誘拐殺人事件の犯人として被差別部落出身の男性が逮捕・起訴されて有罪とされたえん罪事件」を指している場合も多いのですが、そちらについては詳しく解説されたサイトがたくさんありますので別途ご参照ください。このサイトではあくまでも誘拐殺人事件の方を本筋に追いかけていきます。