狭山事件入門: 身代金受渡し

身代金受渡場所身代金受渡場所
白い×印がが立っていた場所。犯人は手前の茶畑の中から現れた。

事件発覚の経緯に諸説あるように、に関しても諸説あります。以下、まずは例によって裁判所が認めた公式の経緯です。

に「五月2日夜12時」「女の人が」「金二十万円もッてさのヤの前にいろ」とあったのを受けて、の次姉が札束(注1)を持って佐野屋酒店(注2)の前に立つことになりました。被害者宅では、母親は事件の10年ほど前に死去、長女は家を出ていて、三女は生まれてすぐ死去、四女が誘拐された被害者ということで、次女しか「女の人」がいなかったためです。

刑札は40人規模の刑官を動員して包囲網を布きましたが、脅迫状に「車出いく」とあったのを真に受けて、車が通れる大きな通りの交差点に重点を置いて配備していました。

次姉が5月2日午後11時55分頃からさのヤの前に立って待っていると、日付が変わった3日0時10分頃に犯人が徒歩で道路脇の茶畑の中から現れました。以下、裁判での次姉の証言を元に構成した、犯人と次姉の会話です。

犯人「おいおい」
犯人「おいおい」
犯人「来てんのか」
次姉「来てますよ」
犯人「警察へ話したんべ」
次姉「……」
犯人「そこに二人いるじゃねえか」
次姉「一人で来ているから、ここまでいらっしゃいよ」
(ここで、次姉のすぐそばにいた刑事が手で合図したため、次姉は4メートルくらい声がした方に進んだ)
次姉「ここまで来ているんだから、あんたのほうで出てきなさいよ」
犯人「本当に金持ってきているのか」
次姉「ええ、持ってますよ」
(風呂敷をときながら、さらに道路標識ちょっと先まで進み出た)
次姉「ここまで来てるんだから出てきなさいよ、あなた男なんでしょう、男らしく出てきたらいいでしょう」
(次姉、元の位置まで戻る)
犯人「取れないから帰るぞ、帰るぞ」
次姉(また進みながら)「私は時間厳守で来てるんですから、ここまで来なさいよ」
(そう言った後、「白っぽく人影らしいものが動いたのを見た」と次姉は証言している)

この次姉の最後の言葉の後、犯人の返答がないため刑事が飛び出しましたが、既に犯人は逃げ出した後でした。上の会話全部で10~12分程度、最後の「ここまで来なさいよ」から刑事が飛び出すまでは1~2分と言われています。

犯人は刑札の包囲網を突破して、捕まることもなく夜の闇の中へ消えていきました。警察犬が呼ばれて追跡を行いましたが、被害者宅のそばにあった養豚場の近くを流れる川(不老川)のあたりで臭いも見失いました。

ちなみに、次姉のそばには本当に(犯人が指摘したように)刑事が2人いました。また、次姉は犯人との距離について暗くてわからないが30メートルくらいと証言しています。

この身代金受渡についてもいくつかの異説があります。

まず、5月1日深夜にも次姉がニセ札を持って犯人を待ち、そこに警察も張り込んだことはほぼ確実なようです。この点については、脅迫状に「五月2日夜12時」とあったのを、「犯人の知能が低そうなので」5月1日夜12時=5月2日午前0時の可能性もあるとして「念のため」張り込みを行ったという証言が刑札側からも出ています。公式には1日夜の張り込みに犯人は現れず、翌日のさのヤ前が本番だった、ということになっています。

さらにそこから、通称「劇団おまわり」と呼ばれる説が提唱されています。これは、狭山事件について追及の面から初めて本を書いた亀井トム、ならびに同氏の周辺で取材を担当した文殊社というライターのグループが提唱した説(注3)で、要約すると下記のようになります。

実際に犯人が現れたのは5月1日深夜(5月2日午前0時過ぎ)で、その時刑札は犯人を逃がしてしまった。その失敗を隠蔽するために、刑事が犯人役に扮して5月2日深夜に再度「身代金受渡」を装ったお芝居を打った。なぜこのようなことをしたかと言えば、1日深夜の時点では被害者は生きていた公算が強く、そこで犯人を取り逃がしたために被害者が殺されたとなると吉展ちゃん事件の比ではない非難が刑札に集まることが予想されたためである。刑札は、「よりマシな失敗」として、「2日の夜に犯人が現れたが取り逃がした。しかし、その時点では既に残虐な犯人により被害者は殺されていた」というストーリーを考え、実行した。

しかし、現実問題としては、犯人を包囲しながら取り逃がしたというだけで刑札はマスコミから多大な批判を浴びました。「劇団おまわり」をやるメリットは、上述のように被害者殺害が取り逃がしの前か後かで世論の非難度が変わるという程度の期待しかありません。万一劇団がすべてバレた場合にはさらに大きな非難を浴びるであろうというリスクを考えると、私(管理人)としてはこの説には賛同できません。刑札はリスクを冒さないだろうとか捏造をしないだろうということではなく、リスクに対してメリットが小さすぎると思うからです。ただし、亀井トムの諸著作(「狭山事件 無罪の新事実」など)を読むとこの「劇団おまわり」の考えに行き着くまでの経過、さらにそれを補強する証言等が詳細に説明されていて、思わず説得されそうになってしまいます。

「劇団おまわり」説の強力な状況証拠とも言える事実の一つに、「5月2日の刑札の張り込みがバカすぎる」というものがあります。

  • 深夜の張り込みなのに、投光器も装備せず、刑事たちに持たせた電池1本だけ入る懐中電灯が頼りだった。なお、当日は月齢9.3(半月よりちょっと太ったくらい)だったが、近辺に街灯はほとんどなかったため、何も見えないわけではないがかなり視界は限られていた。次姉の証言にもそれは表れている。また、後に裁判の弁護団により再現実験が行われている。
  • ハンディトーキー(トランシーバー)があったにも関わらず現場には持っていかなかった
  • 当初予定していた張り込み配置では、地元の地理をよく知っていて走れる若手が重要な位置に配置されていた。ところが、直前になって県刑本部のお偉いさんが配置を変更してしまい、高齢で地理を知らない人間でも階級が高い者が優先的に重要な位置に配置されてしまった。

「劇団おまわり」を否定する場合であっても、刑札がどうしてここまでマヌケ、言い換えれば犯人を逃がすためにやっているとしか思えないことをやったのかという点も、一つの推理のポイントになると私(管理人)は考えています。

また、亀井トム・文殊社の取材で明らかになった点の一つに、「5月1日の張り込みは、さのヤではなく被害者の自宅の前で行われたのではないか」という点があります。これは、被害者のに文殊社メンバーが取材した結果として書いているもので、1日の張り込みについて次兄に聞いたところ、「ああ、家のまわりでやりましたね」と返事をしたというものです。脅迫状に書かれた場所の指定が、最初は「門の前」だったものが消して書き直されて「さのヤの前」になっていたことと併せて、この点(1日の張り込み場所)でも刑札が捏造を行っているという意見もあります。

いずれにしても、犯人が刑札の包囲網の真ん中に実際に現れるという千載一遇のチャンスを逃したことで、狭山事件の捜査は迷走状態に入っていきます。

(注1): 新聞紙を切り抜いて作ったニセ札。次姉は「家で作った」と証言しています。しかし、は裁判の証言で「警察の方(が作った)だと思います」と自分が作ったことを否定しています。ちなみに、当時は既に1万円札があった(聖徳太子の1万円札は昭和33年発行開始)ので、20万円の札束と言っても女性が持つのに重すぎるということはありませんでした。

(注2): 被害者宅から直線距離で 1 kmほどの位置にある酒屋。ちなみに、この酒屋が「佐野屋」という名前の表札を出していなかったにもかかわらず脅迫状に店の名前が書かれていたことから、犯人は店の名前を知っている地元の人間であるという議論があります。ただし、写真で見てもわかるようにアイスクリームのノボリなども出ていて普通のちゃんと商売をしている酒屋であり、ちょっと調べればすぐに店の名前もわかったと思われますので、必ずしも犯人が地元民であるという証拠にはならないと私(管理人)は思います。

(注3): 亀井トムや文殊社の方々が自分の説をそう呼んだわけではありません。狭山事件スレ等で通称そう呼ばれているだけです。

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6 thoughts on “狭山事件入門: 身代金受渡し”

  1. 管理人様 何度読んでも張り込みの手抜かりには失笑ですね。捜査チーム全員が犯人の知能を見くびっていたのね。月明かりだけでは人影が捜査員か犯人か、目の前に来なければ判別出来ない状況だったと思います。(劇団おまわり)説は支持しませんが、間抜け過ぎる!周囲を照らす能力のないパワー不足の懐中電灯というのがマイナス用具。本来の機能は果たさず、光りによって犯人からは捜査員の目印になるだけでしたね。ちなみにトランシーバーは持って行かない方が正解でした。今のは結構性能いいみたいですが、あれは電源入れたとたんに周囲の音を拾ってガーピーガーピー♪雑音がすごいんです。子供の頃、行事等で多分昭和末期製造のトランシーバーを使ったことがありますが、それでさえ雑音がひどかったから。電源入れなかったら何の役にも立たないし。それにしても、お金を取りに来た人の悠長さや厚かましさにはアッパレ〜!会話の内容がムカつきますね。お姉さんもセリフは予定していたのでしょうけど、昔の女性とは思えない気丈さですね。こんな勇敢なお姉さんを自殺に追い込むような精神的苦痛は何だったのでしょうか…

  2. この「身代金受渡し」も重要論点ですね。

    「脅迫状」を作成した犯人の犯罪計画と実行についてですが、

    (1)「少時様」の子供の誘拐計画
      ①身代金受渡し指定日:昭和38年4月29日夜12時
      ②身代金受渡し指定場所:「前の門」

    (2)「N家」の被害者の誘拐・殺害等の実施
      ①身代金受渡し指定日:昭和38年5月2日夜12時
      ②身代金受渡し指定場所:「さのヤの門」

    という枠組みについては、一般的な定説、という理解でよろしかったのでしょうか。

    (1)については、犯人が捜査を混乱させるなどの理由で当初から架空の計画で、犯人は(2)の実行のみを当初から予定していた、という立場に立ったとしても、「4月29日」と「前の(門)」の箇所の訂正については、犯人自身が行った、ということになるかと思われます。
    (脅迫状の「本文」の文字と、訂正箇所の訂正後の文字とは、筆跡が異なるように見えま
     すが、単独犯の場合は「左手」で訂正した、複数犯の場合は、本文を書いた犯人とは
     別のもう一人の犯人が訂正した、という説明が論理的には可能かと思います)

    しかしながら、「無実の獄25年」65ページの、脅迫状のカラー資料によりますと、
    2つの訂正箇所となります、「五月2日」と「さのヤ」は、気のせいか、「文字の筆跡」
    も「文字のインクの色」も違っているように思えます。たとえば、「さのヤ」の部分については、犯人以外(たとえば、警察)が訂正を行ったのでは、と思えるような気がします。

      

  3. >モカ様
    まず、トランシーバーについて。これはもちろん犯人に気づかれる前には使用しません。犯人に気づかれた後、包囲して捕まえる際に必要になるものです。犯人が逃げた後、刑札の追跡はまったくてんでんばらばらで、組織だった包囲や追い込みは全く行われなかったことが裁判での証言(山下警部など)でも明らかになっています。ハンディトーキーがあれば、少なくとも離れた場所にいる刑官同士で「こっちにはいない」とか「そちらから包囲網を狭めろ」とか、情報伝達や指示ができたと思われます。

    >禅公案様
    脅迫状の訂正について。ご指摘の『無実の獄 25年』の写真を以前アップしたので、そちらもご参照ください。もともとの脅迫状はボールペンで書かれていて、訂正部分はペンまたは万年筆で書かれているというのは『無実の獄25年』のその写真の隣のページ(64ページ)にも出ていますね。訂正部分の万年筆のインクの色はブルーブラックで、「三大物証」の一つとして発見された万年筆と同じ色(被害者が持っていた万年筆のライトブルーとは違う色)です。

    筆跡について。私も専門家ではないので断言はできませんけれども、上の写真を見る限り、修正部分の筆跡も元の脅迫状と同じように(私には)見えます。特に「月」の書き方のクセなどは。元の脅迫状を書いたのと同一人物が机のないところで紙を手で持って書いたような印象を受けます。

  4. 管理人様も禅公案様も、文字の細かい所までちゃんと観察していらしてスゴイ!私なんか、ただ(汚い字f^_^;)というだけでした。気になる事のひとつ「少時様」のお子さんですが、PTA会長のお子さんだとすると、Yさんと同級生の男子だと読んだ気がしますが、まだ下にもお子さんがいたのでしょうか?高校生の男の子を誘拐するって、かなり重作業じゃないですか〜?身体も大きいし、体力もあるし…。ところでトランシーバーの件ですが、もし、電源を切っていた場合、犯人追跡の指示はどうやって皆に連絡するの?拡声器を使って「電源を入れろ〜!」と言うのも変じゃないですか?。

  5. なぜ犯人は指定の場所に現金だけを置いていくように指示しなかったのでしょう?。
    被害者の姉から直接金を受け取れば、犯人は多くの情報を与えてしまいます。
    警察の包囲網を掻い潜って現場に着き逃げ切った犯人が、
    そこまで頭がまわらなかったとは考えにくいです。

    どなたか、身代金を奪う気は最初からなかったという理由以外に
    考え付く理由がありましたら伺いたいです。

  6. ほかに考えられるとすれば、あとは亀井トム氏が主張するように「姉の殺害も狙った」ということくらいでしょうか? 「その場で殺害」ということではなく、当初は「車で連れ去り、どこかで殺害」することを考えていた可能性もあると思います。

    なお、筆者(伊吹)は「車出いく」を必ずしも偽装工作とは考えていません。刑札は5月1日夜から少なくとも2日昼まで(終了時刻不明)養豚場前で検問を行っているのですから、もしその付近に実行犯がいたとしたら、「これでは車は無理だ」と考え直したことも十分考えられるかと思います。

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