Monthly Archives: 3月 2010

その他: 札幌市教育委員会 御中

以下のしょーもないコメントは、名前を変えていますが全て同一IPアドレス202.221.129.10からの書き込みです。

そのIPアドレスをWHOISしてみたところ、以下のような状況でした。

Network Information: [ネットワーク情報]
a. [IPネットワークアドレス] 202.221.129.0/28
b. [ネットワーク名] SPR-ED-NET
f. [組織名] 札幌市教育委員会
g. [Organization] Sapporo Board of Education
m. [管理者連絡窓口] YT11426JP
n. [技術連絡担当者] SK12891JP
p. [ネームサーバ]
[割当年月日] 2002/01/15
[返却年月日]
[最終更新] 2009/08/17 14:50:08(JST)

IPアドレスでググってみると、このIPでいろんな掲示板に書き込みしたりHPを見に行ったりしてるようです。

札幌市教育委員会の内部から書き込みしてるのか、教育委員会からどこかの学校に貸し出したIPで生徒が書いてるのか、はたまたプロキシか何かを運用していてどっかの誰かにクラッキングされてるのか、事情は存じ上げませんが対策した方がよろしいんじゃないでしょうかね。書き込みしている時間も真っ昼間だし。

狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その3

前回のエントリに伊吹さんからいただいたコメントを読んで、一つ重要なことを書き忘れたことに気がつきました。

4月29日の日記でもう一つ、「今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに」も気にかかっています。

  • 当時の狭山工業高校は男子校だったようで、女子高生である被害者が何のために誰を訪れる予定だったのか
  • この呼び出し/待ち合わせはどうやって伝えられたのか
  • そもそもこの伏せ字になっている「××××」は何(あるいは誰)なのか
  • 刑札はこの「予定」について裏付け捜査をしたのか。したのであれば記録は残っていないのか

などなど、疑問は尽きないところで、情報が少なすぎて推理すらできません。

当初「狭山工業高校の××××」に行く予定だったのが学校行事で行けなくなったとすると、被害者の方から「ごめんなさい、行けなくなりました」という連絡をしたと思われ、その際に「じゃあ、5月1日に待ち合わせて…」という話になった可能性もあります。しかし、そうなると(しつこいようですが)なぜ5月1日の待ち合わせを日記に書いていないのかという疑問が残ります。

伊吹さんのご指摘のように事件前日の4月30日分が公開されていないことを含めて、前後の日記に何かしら事件と関係ある記述があったのではないかという気がします。一刻も早い全面的な開示を望みます。

狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その2

前回の続きです。

第一ガード・第二ガードにおいて目撃された際の状況から考えて、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことはほぼ確実と思います。しかし、当時の女子高生が全然関係ない人に呼び出されてそれに応ずることはまずないとも思います。また、前回も書きましたが(新伊吹本でも指摘されていますが)、当時はケータイも出会い系もありません。知人に事前に呼び出されていたとすると、考えられる可能性は下記の通りになります。

  1. 家族: 前回書いた長兄説など。(以下3月16日追記)コメントで伊吹氏からご指摘をいただいているように、この可能性は低いと私(管理人)も考えます。あくまで可能性ということで列記しています
  2. 学校: 川越高校入間川分校別科のクラスメイト16人(1クラスのみ)は全員女子であり、しかも4月に入学したばかりでまだ数週間しかたっていない状況でした。その中で誰かが被害者とそのような待ち合わせの話をしていれば、何かの形で他の生徒にも伝わると思われるため、この可能性は低いと思います
  3. 登下校(通学路): 新伊吹本にあるように、被害者は朝、近所の高校生(中学時代の同級生)と一緒に登校することがあったとのことです。そのメンバーの誰かであれば、待ち合わせを伝えることは可能という伊吹氏の指摘に同意します
  4. 出身中学関係: 被害者は出身中学に時々遊びに行くことがあったようです。その際に昔の同級生と会って伝言されることが考えられます
  5. 学校行事関係: 日記を見ると、事件の直前の4月29日(月曜日、天皇誕生日(当時))にも被害者は学校行事に参加して群馬へ行っています。その際に待ち合わせについて話をした可能性はあると思います

上の5.について、4月29日の日記には以下のような内容があります。

4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。

(大きく間が空いて)

今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。

川越から伊勢崎まで約60km、関越自動車道(1971年開通)がない当時の道路事情では、バスで片道2時間程度でしょうか。そのバスの中で、他校に行った中学時代の同級生と会って「誕生日にお祝いをしよう」と誘われて呼び出された可能性があるのではないか、と個人的に思っています。

その一番の理由は、5月1日の日記に待ち合わせが書かれていないからです。以前にも書いたように、被害者は日記の左の方にあらかじめその日の予定を書き込んでおいて、当日が終わってから本来の意味での日記を右の方から書いていたと私は考えています。つまり、予定を書き込む時点で待ち合わせの話があったのであれば日記に書かれているはずで、ある程度直前になって予定を伝えられたのではないかと思います。もちろん、当日(5月1日)あるいは前日(4月30日)の登下校の際に伝言されたということもありうるでしょうが、事件の2日前の4月29日に、同年代の高校生と同じバスで往復4時間も揺られていたというのはタイミングが良すぎるような気がします。
家族に見られることをおそれて待ち合わせを書かなかったという推理もできるかもしれません。しかし、被害者はMHくんに対する熱烈な恋心も日記に包み隠さずに書いていますので、待ち合わせだけ書かないということはないと思います。

交歓会に参加した埼玉県側の200人の生徒のうち、「メッセンジャー」役が務まる人物-被害者の中学時代の同級生で、犯人グループともつながりがある生徒-はいなかったのでしょうか。

その他: 東京都青少年健全育成条例の審議における前田雅英氏の捏造発言

保坂展人さんのブログで、東京都青少年健全育成条例を審議した部会の部会長である首都大学東京の前田雅英教授が、保坂氏の国会委員会における対話を捏造してまで創作物規制論を進めたことが書かれています。

さもありなんというか、児ポ法を含めて創作物の単純所持規制を推進している人たちの人格や品性がよく現れている話だと思います。今回は国会委員会の議事録が残っていたので簡単に検証ができ、捏造であることが明らかになりましたが、これが記録に残らない話であれば「保坂氏が児童ポルノを推進しようとしてアグネス・チャン氏に論戦で圧敗した」という前田雅英氏の捏造が一人歩きして、保坂氏の人格や能力を貶める結果になったものと思われます。

前田教授をはじめとする規制推進派の人たちは、目的のためなら証言や証拠を平気で捏造することが実証されたと思います。青少年条例や児ポ法が成立したら、この調子でガンガン証拠が捏造され、冤罪が生み出されていくことでしょう。

冤罪事件における証拠捏造がいかに簡単に、一般的に行われているかについては以前のエントリで書きましたので、そちらをご参照ください。

狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて

新・伊吹本を読みました。

旧版と比べてかなり加筆がされています。ページ数も213ページから271ページへ、27%アップしています。ただし、文字組が変わっていますので、文章量としてはそこまで増えていない感じです。感覚的には15~20%くらいの増量かな?

大きな加筆部分は下記の通りです。

  • 被害者の日記
  • 被害者の呼び出し
  • インタビュー
    • 安田先生(2回目)
    • 死体の第一発見者2人(1人は本人、1人は奥様): どうして「第一発見者」が2人いるのかについてはこちらこちらを参照してください
    • その他、近所の住民数人

特に大きなトピックとして、「本物の」第一発見者のインタビューがあります。場合によっては石川一雄さんの裁判にも影響があるかもしれない内容です。ここで内容について詳しく書くのは差し控えますので、興味がある方は直接本をご参照下さい。

もう一つのトピックは、被害者の呼び出しについてです。犯人が被害者にどうやって最初の待ち合わせを伝えたかについては、これまでの推理本ではあまり重視されていませんでした。長兄犯人説が主流であったため、家で直接話をすれば済む、という考えだったこともあるかと思います。また、刑札・検察は石川さんの通りすがりの犯行というシナリオを書いてしまったため、そもそも待ち合わせを想定していません。
しかし、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことは各種の証言からほぼ間違いないと思われ、その上で外部に犯人がいるという立場に立つと、犯人(あるいは犯人グループ)がどうやって被害者に待ち合わせの日時を伝えたのかというのはかなり大きな問題になります。

昭和38年当時、当然ですがケータイなどというものはありませんし、インターネットの掲示板もケータイメールも、もちろん出会い系もありません。自宅に有線電話はありましたが、そこへ電話して被害者自身が出るとは限りません。被害者に限らず女子高生は暗くなる前に家に帰るのが当たり前(というより当時、途中の道には街灯もなく、暗くなると大げさでなく家に帰れないような場所でした……このあたりは新伊吹本の安田先生のインタビューを読むとよくわかります)でした。そうなると、家の外で待ち合わせの計画を伝えられる場所と機会は自ずと限られてきます。

すいません。この先を書き始めたら思ったより長くなりそうなので、日を改めてまとめさせていただきたいと思います。
一つだけ書いておくと、私の推理は伊吹氏とは多少(それほど大幅にではありませんが)異なります。