前2回で紹介した伊吹隼人さんの現地インタビュー結果を受けて、こちらのエントリでも書いた事件当日のOGと被害者の足取りについて再検討してみます。
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狭山事件: OG遺族へのインタビュー
伊吹隼人さんから、事件関係者について2件のインタビューに成功したとのご報告をいただきました。一気に2つ公開するとコメント欄が混乱しそうなので、まず1件目として、事件の重要関係者である「OG」の遺族に対するインタビューを公開します。
「OG」が何者なのかについては以下をご参照ください。
要するに、事件への関与が疑われながらも事件の2日後に自殺してしまった青年です。OGが事件への関与を疑われる理由はいくつかあり、事件直後に自殺してしまったことがその最大の要因ですが、他にも被害者宅に住み込みで働いたことがあったり、被害者が人を待っていた西武線のガードにほど近い事務所で働いていたり、死体発見現場近くに新居を建築中であったりという事情もあります。
特に新居については、事件当時ほぼ完成していてなおかつ誰も住んでいない状態であり、被害者を拘束し、殺害し、埋めるまでの間保管するには最適の場所となっていました。そのため、本人が事件に直接関与していないにしても、誰かに騙されて殺害場所として新居を使われたのではないか、その騙されたことを悟ったがために自殺したのではないかという推理が(伊吹隼人さんをはじめとして)多くの人になされています。
狭山事件: OGについて その5
東京タイムズ記事に関するエントリその2です。今回は、5月7日付のOGに関する記事です。
この記事に関する伊吹さんのコメントは下記の通りです。
一番面白かったのは7日付けのOGに関する記事で、これはどこよりも詳しい内容となっています。
- OGは捜査線上に浮かんでいた
- OG死後、埼玉県警の中刑事部長がOGの遺書を手に記者会見で説明を行った
- OGは婚約者とはしばしば新居でデートするほど仲が良かった
- OGの新居は4月末に完成、5日までには新居の家具を全部運び終わっている
- 新居の建築費用は(OGの)長兄に出してもらった
- 結婚費用に困っており、4月に決まった挙式を5月7日に延期していた
- 事件の日は午後3時頃、新居に寄るのを近所の人が見ている。いつ出たのかは分かっていない
- 死体発見現場付近で自転車のタイヤ跡と地下タビの足跡が発見されており、捜査本部はこれが死体を運ぶ際についたものとみている
- 脅迫状とOGの昭和31・32年度の日記の筆跡には似ている点がかなり認められた
などの記事は他紙では見られないものですし、東京タイムズ記者が相当突っ込んだ取材をしているのは間違いないように思われます。
狭山事件: 甲斐仁志氏の「新推理」
『狭山事件を推理する』の著者である甲斐仁志氏が、「新推理」を発表し始めています。まず最初に、殺害現場に関しての考えがこちらにまとめられています。
確定判決の「殺害現場」がお話しにならない点においては、甲斐氏の論考に深く同意します。今回新たに開示された証拠で、「殺害現場」にはルミノール反応がなかったことが確認されたとのことで、これだけでも確定判決のストーリーが破綻していることは明らかであり、早期に石川さんの再審ならびに無罪判決が出されることを希望します。
その後、甲斐氏はOG(甲斐氏の論考の中では「西富源治」という仮名になっています)宅での犯行を否定する議論を行っています。この内容については、納得するところと、納得できないところが両方ありますので、私(本ブログ管理人)の意見を付記しつつ紹介させていただきます。
狭山事件: 被害者とOGの時系列的動向
被害者とOGの当日の行動を時系列的にまとめてみました。事項の取捨選択は私(管理人)の主観によります。時刻については証言者本人が一番最初に言った時間を採用しています。時刻に関しては後で刑札が「つじつまが合わない」として変更させていることも多く、関係書籍ではその変更後の時刻が採用されていることも多いのですが、最初に言い出した時刻には証言者本人なりの根拠があると思われること、「原証言」としての価値があると思われることからその取り扱いとしています。もし異論があればコメントでご指摘ください。
第一ガード、第二ガード、S自転車店等の位置関係については、事件関係地図も参照してください。大きい地図の方でいうと、ほとんどの関係地点が一番左側の方(西武線の線路沿い)に集まっています。
狭山事件: 石川さんが国連の委員会で証拠開示を訴え
「狭山の風」メルマガによると、狭山事件の容疑者として逮捕され、無期懲役の刑を受けた石川一雄さんが、スイスの国連自由権規約委員会において「日本政府に『証拠開示』をするよう勧告してほしい」という訴えをしたそうです。
石川さんは現在、無期懲役の仮釈放という形で日常生活をしています。刑を終えて自由になっているわけではなく、保護観察下に置かれている上に、今後罰金刑以上の刑罰を受けた場合には無期懲役で刑務所に逆戻りということになります。ご本人の言葉を借りれば「見えない手錠」がついたままの状態ということです。同じ理由でパスポート取得や海外旅行はできないと言われており、石川さんサイドもあきらめていたのですが、今年9月になってパスポート取得が認められ、今回の国連自由権規約委員会への参加という話になったそうです。
これまで何度か触れたように、狭山事件に関して、積み上げると高さ2mにもなる証拠が検察に未開示のまま保管されているとのことで、中には弁護側が何度も開示請求したにも関わらず裁判所と検察が一体となって拒否してきたものもあります。そういった証拠類をすべて開示して欲しいというのが石川さんが今回国連の委員会で訴えたことで、ある意味で日本の司法行政の問題点を浮き彫りにするものです。以前も説明したように、刑札・検察は国民の税金を使って大量の人員を動員し、捜査権を持って証拠集め(時には証拠ねつ造(笑))をしますから、集めた証拠はすべて(弁護側の請求がなくても)開示するのが筋というものでしょう。これに対して弁護側は捜査権も人員も予算もない中で資料集めをしなくてはならないという制約があります。本来は、この証拠集めに関する非対称性を補うのが推定無罪の原則(いわゆる「疑わしきは罰せず」)なのですが、日本においてはそれが守られずにえん罪が生み出され続けているという状況です。
状況はそれとして、このブログ的な本題である狭山事件の真犯人捜しの観点から開示してほしい証拠として、下記のようなものがあります。
狭山事件: OGの死因
本日の画像は、ブルーバックスの『犯人を追う科学―完全犯罪に挑戦する科学捜査 (1965年)』という本の一節です。この本が出版されたのは昭和40年3月20日ですので、狭山事件が起こった昭和38年から2年足らず、まだ記憶も生々しい時に書かれた本ということになります。また、一審で死刑判決が出た後、二審に入って石川さんが否認に転じた後ということになります。
その死体を検視しただけで死因を農薬中毒と決めたのは、あの当時としては問題であった。死体を外から観察しただけで、農薬中毒の診断を下すことは不可能である。たとえ死体のそばに農薬の容器があったとしても、果たしてそれを飲んだか、また飲んだことが原因で死亡したかということは、死体を解剖検査して、化学的に農薬を検出し得て後に始めて(ママ)可能となる。後に死体の口中を拭った脱脂綿についての検査依頼があって、分析の結果たしかに塩素含有の農薬を証明することはできたが、それだけでは、死因、自殺の線に直接に結びつけるのには無理がある。
しかし実際問題としては犯罪を疑って司法解剖にする根拠はなく、監察医制度の行われていないところだから死因確定のための行政解剖にするわけにもいかない。
まことにごもっともなことですが、根本的な問題として、OGの死因は「溺死」とされていたはずです。この本の著者である渡辺孚氏は事件当時、科学警察研究所科学捜査部長という科学捜査の最前線にいた当事者であったにも関わらず、OGの死因を「農薬中毒」と認識していることになります。このような混乱が発生しているのは解せないところです。
また、最後の方にはこういう記述もあります。
幸いにもその後間もなく真犯人があがったから、その意味では自殺男の解剖はしなくてもよかったといえるようになった。
なってませんってば。きちんと解剖して死因を確認しなかったことで、OGに関する疑惑が白とも黒ともつかないままずっと残ってしまったことを考えると、OGの解剖をしなかったことも刑札の大きな落ち度の一つといえるでしょう。