前回からの流れで、当時の週刊文春の記事をとりあげていきます。
この文春の記事は今現在の目で見ると周知のことばかりが書かれていますが、5月20日号(5月13日頃発売と思われるので、締切はおそらく5月10日前後)ということを勘案するとかなり綿密な取材をしていることを伺わせます。それだけに、この記事の内容は当時の現地の「空気」を伝えるものとして検討すべきものであると考えます。
冒頭、被害者の中学時代の校内誌に掲載された作文が引用されています。この(中略)部分を知りたい方は伊吹本をどうぞ。全文が掲載されています。
まず、担任のU先生のコメントに関して検証してみます。
- (被害者)さんはもちろん早びけはしておりません。二時三十五分に授業が終わってから、わたしは生徒達に新しくできたトレーニング・シャツを渡していました。(被害者)さんも、それを受け取った一人でした。
- 少なくとも被害者が2:35の授業終了、ならびにそのあとのトレーニングシャツ配布までは教室にいたことがわかる。2:45頃までは教室にいたことになるか?
- それから私は生徒に時間を聞いたのです。(中略)二時五十八分でした。わたしは急いで銀行に出かけてしまったのですが、その後(被害者)さんは級友達とお料理の実習の費用を計算していたといいます。
- この部分が事実であれば、以前から提唱されている「被害者はいったん教室を出て戻ってきたよ説」が否定されることになる。ただし、この内容が伝聞であることはかなり重要。つまり、U先生はトレーニングシャツを渡した後は被害者を直接には見ていないことになるので、やはり私個人としては「被害者はいったん教室を出て第二ガード下とS自転車店そばまで行き、それから戻ってきた」説は有効だと考える。
- その仲間のひとり、NTさんという生徒が、三時二十四分発の川越行きの電車に乗ろうとして時計を見たら、三時二十二分だったんです。その時はまだ(被害者)さんは教室に残っていました。
- いわゆる「NT証言」が、事件直後の、遅くとも5月中旬には得られていたことを裏付ける証言。裁判での証言では時計を見たら三時二十三分だったことになっているが、アナログ時計で22分だったか23分だったかというのは誤差の範疇だろう。これだけ早い時期から一貫した証言があるということで、NT証言はやはり信憑性が高いと考えざるを得ない。
というわけで、この部分だけでもかなり事件の推理・検証の面から有意義な内容が語られていることがわかります。
以下、OTくん証言等に関する考察は次回に。
本ブログでとりあげている事件に関する同人誌等の通信販売を行っています。詳細はこちらをご参照ください。
貴重な資料を有難うございます。
今よりも個人情報の取り扱いに、おおらかな時代背景も垣間見る思いです。
時代背景と言えば佐野屋のオイオイおじさんと次姉さんのやり取りは実際どんな語彙(方言)であったかをご存知でしょうか?あるいは予測でも結構ですのでご教示いただけましら嬉しいです。次姉さんは恐怖に囲まれた場面でもテレビの影響で、標準語に終始したのでしょうか?
当時の狭山は平素は方言に満ちていたと思うのです。次姉さんより若いY枝さんの日記にも「むぐった」などが散見されます。
まして、オイオイおじさんはかなりの土着言葉であったろうと思うのです。
第一声は
男:警察に話したんべぇ。
でよろしいでしょうか?
以下は民俗学趣味で関東方言について検索していたら、きせずして
狭山事件にも触れたサイトです。
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k021022.htm
蛇足且つ雑感ですが、以前、車出赤坂からY枝さん地蔵にお参りに行った際は随分遠い所に菩提寺があるなぁ、と感じました。
しかし、先日自転車(所謂ロードレーサータイプですが)で分校跡地から入間川沿いにお地蔵さんに向かったところ実に簡単に到着しました。かつて入間川が水運で栄えた歴史を思うと現在は異なる市になってしまいましたが川沿いに同じ文化圏だったことに思いを馳せました。
追伸です。
埼玉だけでもいくつかの方言に分類できるようですが、
本当の第一声、オイオイ来てんのか?
も語尾が来てんのが?
に近いとか、どんなことでも結構ですので
お願いします。
裁判関係資料、各ライターさん、テレビ再現シーンなどに
より、ほぼ完全に標準語に修正されていたり、方言混じりでも
微妙に異なったりしていますね。
私は事件から9年後の昭和47年に現地近くに引っ越し、〝事件現場巡り〟を始めていますが、記憶している限りでは当時もさほど方言はキツくなかったですね・・・。現地の人の話し言葉を聞いていても98~99%は標準語、という感じでした。
ただ、拙著にも記したとおり、「こなかったら」については、ほぼすべての人が「きなかったら」と言っており、何かに書く際も「きなかったら」「きなかたら」としていました。あと、堀兼あたりの農村地帯の男性などは、だいたい普段「おら」「~んべ」で話していました(今も、農村部で50代以上の男性の話し言葉となるとさほど変化はないようです)。
>「こなかったら」については、ほぼすべての人が「きなかったら」と言っており
カ変・サ変の上一段化というやつですね。
狭山方言は、ここに出ている武蔵村山方言とほぼ同じと考えて良いのでしょうか?
「べえべえことばである」「イとエの混同がみられる」など。
http://www.city.musashimurayama.lg.jp/dbps_data/_material_/localhost/0805kyo_shougai/03rekishi/pdf/014.pdf
伊吹様へ。
ご回答を有難うございます。昭和45年の赤坂辺りはまだ未舗装路もあったでしょうか?。
写真集で見た薬研坂は、昼なお暗い恐ろしげな道に見えましたが45年にはもう経済成長で様変わりしていたのでしょうね。38年のあの道をマウンテンバイクがない時代に自転車通学するとはすごいなぁとも思いました。
伊吹様には既知のことばかりかと思いますが入間市在住と思われる方のHPです。
ブランドとしてのサヤマと行政区画としてのサヤマのズレなどをユーモラスに列挙されています。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%85%A5%E9%96%93%E5%B8%82
深刻な事件研究の気分転換がてらご覧いただけたら、と思います。そしてインタビュー集編纂お疲れ様でしたm(_ _)m。感謝致します。
×昭和45⇒◯昭和47年に訂正します。失礼しました。
昭和47年当時だと、まだ市内には未舗装の道路も多かったですね。
大まかに言うと、「幹線道路・バス通りはすべて舗装、細かい道は大半が未舗装」という感じでした。
東京オリンピック前の昭和38年に国道16号の新道が開通し、その後昭和43年に茶つみ通り(佐野屋の前の道)や薬研坂、富士見通りなどもすべて舗装となっていますが、X字路に向かう道や殺害現場(確定判決による)に続く道、第二ガード近辺の道などはまだすべて細い砂利道のままでした。
昭和47年当時は今より遥かに雑木林が多かったのですが、そうした中を抜けて行く道など、晴れた日の真っ昼間に自転車で通っていても何ともいえない怖さがあったのを覚えています。それを思うと、確かに「善枝さんもよく薬研坂なんか通る気になったなあ・・・」と感心したりします。まあ、「度胸があった」というより、世の中のことなどほとんど知らず、犯罪被害に遭うことも考えたことがない、無邪気な女の子だった、ということなのでしょうね。。
各市町村についてユーモラスに解説されたHPをご教示頂き、ありがとうございました。狭山のページは現地に相当長く住んでいる方が書いているようですね。かなりマニアックな情報もあってビックリしました。
なお、「インタビュー集VOL.2」原稿は、一応昨日完成しています。「マニアにとっては結構面白いかもしれないけど、初心者には何が何だかサッパリ分からない」という内容になっておりますが(笑)、事件を考える上で多少の参考にはなるかと思います。どうぞご期待下さい。
47年当時のを有難うございます。インタビュー集vol2が益々楽しみになって来ました。
実はご紹介したサイトを見ていて、そのごちゃついた市政運営に、やはり土地(行政区画含み)取り合戦など利権・選挙がらみでE作さんが何らか逆恨みを買ってしまった印象を持ちました。
E作さんは100万円様、区長、農協理事で事件前までは威厳たっぷりだったのではないでしょうか?。事件後の影の薄さは善枝さんを亡くした極め付けの恫喝で尻込みせざるお得なかったように思います。経済的には豪農でも事件後のシュンとしてしまったご様子からはM君の零落振りに似たものを感じます。別のカテゴリーにも書きましたが墓参⇒N家⇒不老川⇒豚屋跡と歩いた際にはガタイの良いスキンヘッドのおじさんに追跡されました。こちらが立ち止まるとそっぽを向き、再度歩き始めるとまた追跡です。出来るだけN家の方には失礼の内容じろじろ見たりはしなかったのですが、次姉さんと善枝さんのお墓には献花・献香をして15分位いたのが悪かったのかも知れません。
墓参の時、O酒店とお墓の間位にある牧場の牛が可愛いくて写真撮りました。牧場の人は柔和で目を細めて笑顔で撮影許可してくれたのですが、N家からは丸見えでしたよね。ただし、すぐにカメラはしまいお墓やN家付近ではカメラはバッグの中だったのですが、まさか追跡されるとは。
先日NHKで狭山茶畑の構造を念入りに紹介していました。
農家の居住部分⇒畑⇒雑木林と言う長方形の短冊状の俯瞰図が赤坂の農家そっくりでした。雑木林は富山の防風林である屋敷林とは異なり畑に上質な養分と水分を送る役割があるそうです。
そして雑木林を狭山茶生産地では「山」と呼ぶそうです。
ふと山学校を想起してしまいました。
インタビュー集VOL2今年も複数冊購入させて頂きます。
運良く上司を介して事件直後に狭山市の近郊に大学の1から2年次用の校舎に通った女性と知り合いました。狭山事件を受けて厳しく女子大生たちには授業終了後は寄り道せず安全な道を帰りなさいと大学側から指導されたそうです。ただその方は狭山事件を単なる強姦殺人事件と認識されていました。
知って頂くことで善枝さんの供養になればと思いますのでその方にも検証・狭山事件 女子高生誘拐殺人の現場と証言とセットでVOL2をプレゼントする予定です。後々、40年代の狭山の雰囲気を教えて貰うための布石であります。
東中学で行われた野球の試合終了時間が2:55だったというのを、私は自分勝手に東中学校長の後日談と解釈していたのですが、この記事を見ると、OT君の証言を受けて警察から調査依頼があり、学校としてきちんと調査した結果の時間だったのですね。
2:55に終わった試合を3イニング目から見ていたのなら、Yさんが二人存在しない限り出会うことはできないわけで、正義感が空回りして幻でも見てしまったんですかね。
後日、警察から強めのお目玉をくらったり、学校に押し掛けた新聞記者に吊るし上げを食った(これは現代では考えられないことでかわいそう過ぎる)みたいだけど、この記事を見る限りではしょうがなかったのかなあ?
あと、とても不思議なのが、自殺したTNさんの証言も、この記事のレポート期間中の出来事だったと思うのですが、全く登場してこないんですね。
「事件当日のPM4:00やげん坂で不審な3人組を見た!」 時間も場所もピッタリで、本来なら徹底して捜査をして、かなり大きな記事にもなるはずの証言なのに、なぜか本人が犯人扱いされて、2日間に亘って厳しい取調べを受けてノイローゼになったというだけで、証言の詳しい内容も捜査の状況も記事になっていない。
この記事の中で、OT君の証言について記者会見している県警刑事部長が、後年法廷の場で「5月11日に自殺したTNさんと言う人の事は全然知らない。捜査中も報告を受けた記憶はない。」と明言。
いったいTN証言って何・・・・?
家族の反対を押し切って、自ら出頭して証言しているくらいだから、虚言とか曖昧な証言でも無いだろうし、それなら日常では考えられないような異様な光景をを目撃しているはずなんだけど??
①証言内容が警察にとって「大変都合の悪いもの」だったので、何としても証言を取り下げさせようとしてノ
イローゼに陥る程TNさんを責めた。結果自殺。当然捜査もまったく行わなかった?
②本当は自ら出頭したわけではなく警察から呼び出しがあり、簡単な事情聴取を受けただけだった。ノイロ ーゼ・自殺の原因は全然別(選挙?警察の発表通り?)。
唯、その死に方があまりにも壮絶、異様だったので、マスコミによっていつの間にか狭山事件と関連付け られるようになった。
一応現在①のケースで脳内妄想中なんですが、正反対の②のようなケースもありえますか?
・「野球決勝戦の試合終了時刻は2:55だった」と証言しているのは西中(東中ではありません)校長のみです。
・ほか4名の関係者はいずれも終了時刻を「3時半ごろ」「3時40分」としており、その中には「Y枝さんは3時40分に終了するまで決勝戦を観戦していた」との証言もあります。1時過ぎから大会が始まり、2試合が行われていたとすれば、やはり「3時半~40分頃終了」の可能性の方が高いかと思います(1試合の所要時間は平均1時間~1時間半です)。
・OT君は最初「2時頃に中学校を出て東中に行く途中でY枝さんとすれ違った」と証言していましたが、Y枝さんが2時50分以前に現場を通り掛かることは不可能なのですから、これは完全な〝勘違い〟ということになります。これについては警察やマスコミから「いいかげんな証言」と決めつけられても仕方なかったでしょう。
ただ、その後OT君は、Y枝さんと出会った時刻を「2時から3時の間」と修正しています。Y枝さんとすれ違った時刻が「2時50分過ぎ」で、試合終了時刻が「3時半~40分」とすれば、これは「到着時、試合は3回を回ったところだった」との証言ともほぼ一致することになります。OT君はその後の『女性自身』のインタビューに対しても、「Y枝さんを見間違えるはずが無い」とはっきり答えていますし、この証言はやはり最初の勘違いの部分を除けば基本的に信用してよいものと思われます。
・TN証言については、私も上記①のケースだったと考えています。刑札が何らかのシナリオを書き始めていたため、それに合わないTN証言を取り下げさせようとした・・・という可能性がやはり一番高いでしょう(もっとも、その後のOS証言などは、逆に刑札は利用しようとしていたわけですが)。なお、このTNさんというのは、実は石川一雄さんの友人でした。刑札はOGが自殺した直後からターゲットを石川さんに絞り始めていましたから、そこから考えればTN談を「捜査の撹乱を狙った証言」とみなしたことも考えられるかと思います(TNさんを逆に「犯人扱いした」というのも、あるいは刑札のそんな対応ぶりを示しているものなのかもしれません)。
伊吹様
丁寧な御解説ありがとうございます。
OT君証言に関する、現状での私の解釈を書かせていただくと、
最終的にOT君の証言が、「2時から3時の間」と修正されているのは、野球の試合時間云々ではなく、OT君のYさん目撃が、「行き(2時)ではなく帰り(3時)だったのを、錯覚しているのでは?」という、ちょっと苦しい拡大解釈を警察が取り入れたからではないでしょうか。
そう考えると、伊吹さんがインタビューされた、OT君と同期の野球部員の方の証言、「行きではなく帰りにYさんを目撃しなかったか?と、聞かれた。」と辻褄が合ってくると思えるのですが。
野球の試合の場合、選手、審判、見学を合わせると、何十人もの人間が同じ時間を共有している訳で、この雑誌に書かれている記者会見が、TV、新聞で報道された直後に、多くの関係者から異論が出ていないとすると、野球の行われた時間は記者会見どおり、と解釈して宜しいんではないでしょうか?
今後、伊吹さんの更なる調査で、衝撃の新事実が発覚するまでは、私個人はこの解釈でいこうと考えています。
私的には、OT君のYさん目撃は未だ不明。ただ、この頃までは警察も真面目に捜査していた・・・。こんなと
ころですかね。
「TNさんがIK氏と友人関係だった。」という話は初耳で、衝撃を受けております。
この事件を勝手に、行きずりの犯行と決め付けて妄想を楽しんでいる(不謹慎ですよね)私にとって、TNさんの証言は色々な妄想を掻き立ててくれて、とても美味しいのですが、内容の重大さと、TNさん自殺(他殺?)までのマスコミの取り扱いの小ささにギャップがありすぎて、彼の死後に大きな尾ひれが付いたのでは?という疑念が払拭できないでいます。
・OT君証言に関して刑札はマスコミ向けには否定していますが、なぜか調書では「詳細な時間は不明」としながらも、石川氏逮捕までは「正しい証言」として扱っているんですよね。何とも不思議な話ではあるのですが・・・。
・なお、OT君は「自転車で東中へ向かう途中、堀兼方向(逆方向)に向かうY枝さんとすれ違った」「その直後、一度振り向いてY枝さんを見た」としており、さらにOT君は東中での野球試合観戦後は、西中へテニスの試合も観に行っています。また、仮に野球試合終了が「2時55分」でそのままOT君が帰宅したとしても、「2時から3時の間」にY枝さんとすれ違うことは不可能です。ですから、「OT証言が、『2時から3時の間』」と修正されたのは、野球の試合時間云々ではなく、OT君のY枝さん目撃が『「行き(2時)ではなく帰り(3時)だったのを、錯覚していた』という、拡大解釈を警察が取り入れたため」とするのはまず無理です。
・野球試合終了時刻に関しては、「2時55分説」に対して異論が出ていない一方、同じくマスコミで報道された「3時30分~40分」説に対しても異論は全く出されていません。「狭山市民の会」の調査通り、「その日は2試合が行われていた」とすれば、やはり「2時55分説」は成り立たないと思います。
電気うなぎさん、貴重な資料有難うございます。なぜか今になって気づきました。
佐野屋のおいおい男の語りを正確に当時の狭山方言で読んで(聞いて)みたいです。