狭山事件入門: 「PTA会長」について

身代金受渡しで重要な役割を演じた人物の一人に、狭山事件フリークの間で通称「」と呼ばれている木材販売店主、MH氏がいます。この人は、被害者が卒業した堀兼中学校で教育振興会会長(生徒が卒業後も会長を務めることができるよう、PTAではなくこう呼んでいた)を務めており、息子が被害者と中学で同級生で生徒会長、被害者が副会長だったことから被害者とも顔見知りでした。

昭和38年5月2日の朝6時に、刑札はPTA会長を呼び出しました。脅迫状を見せて事情を説明した上で

  • さのヤには犬(スピッツ)がいて吠えるので隔離してほしい
  • 捜査の前線基地を設定してほしい
  • 刑札の人員を輸送するのに、刑札の車では目立つので民間の車を提供してほしい
  • 次姉が身代金を持ってさのヤの前に立つことを渋っているので説得してほしい

という4点を依頼し、PTA会長はすべて了承しました。

刑札がPTA会長に白羽の矢を立てたのは、PTA会長が地元の交通安全協会会長もしていて刑札と関係が深かったことが理由とされています。それはともかく、まだ公開捜査になっておらず、公式にはさのヤでの犯人取り逃がしの前である時点で、民間人であるPTA会長に事情を説明して協力を要請している点に疑問を感じる論者は少なくなく、「劇団おまわり」説の状況証拠の一つとされることもあります。現に、PTA会長は刑札を出たその足で被害者の母校の堀兼中学校に向かい、被害者の担任だった教師達と校長に事情を説明して「脅迫状の筆跡を覚えているので卒業生の筆跡を見せてくれ」と頼み、断られています。

PTA会長は、公判で「次姉と父親は、被害者はもう殺されているに違いないと言って泣いてばかりいたのを、自分もそばについているから、と説得してようやく連れ出した」と証言しています。これも「劇団おまわり」説の補強として言及されることがあります。「1日には身代金受渡場所に立った次姉が、2日に泣いて嫌がる理由がない。殺されているに違いないというのは、1日に既に犯人を取り逃がしたからである」という論理です。しかし、これも、20代前半のおにゃのこが1日怖い思いをした翌日、「もうあんな怖いのはヤダ」と言って渋ったり、発見されないまま時間が経ってしまったことで「もう殺されている」と悲観してしまったということで納得できなくはないと思います。父親に関しては確かに疑惑が残りますが。

そして、PTA会長は5月2日深夜、次姉に付き添ってさのヤへと赴きます。PTA会長は戦時中憲兵隊の下士官で、逮捕はお手の物という自信もあり、犯人と次姉が会話しているのに刑札が飛び出さない中で「何度も飛び出そうかと思いながら、もし犯人を取り逃がした場合の責任を考え自制するのに骨折った」と後に述懐していたとのことです。また、事件が起こった後、週刊誌の取材に答えて「2日の夜は犯人を逃がすためにやったとしか思えない」と発言しており、周囲の人に「1日は、脅迫状よりも先に被害者の家に連絡があったと思う」と話していたとも言われています。これらの疑惑から、独自で犯人探しの調査をしていたとも言われています。ただし、これらの情報は亀井トム氏の著作(とそれを参考にしたと思われる下田氏の本)にしか出ておらず、他のソースが今のところ見つかりません。出典をご存じの方はご教示ください。

このPTA会長は、事件の1年ほど後の昭和39年3月15日に、中学校の卒業式で来賓として挨拶するため立ち上がった瞬間に倒れ、そのまま息を引き取りました。亡くなった時にまだ47歳という若さであったことから、「独自の調査をしていたこと、刑札に不利な証言をしかねないことから消されたのではないか」と見る向きもありますが、中学の卒業式という衆人環視の中のできごとで、私(管理人)としては賛同できません。

ところで、PTA会長には兄がいました。この兄の下の名前が「しょうじ」であり、しかも小さい子供がいたので、刑札では当初脅迫状に書いて消されていた「少時様」というのがこの兄ではないかと疑っていたようです。

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11 件のコメント: “狭山事件入門: 「PTA会長」について”

  1. 管理人様 次々と興味をそそる記事を掲載して頂き、楽しみにしています。私も前から疑問に感じていたのですが、N家のお父さんと次姉が「Yはもう殺されている。」と泣いていたという件。犯人が捕まって殺害を自供したり、遺体が発見されたのでない限り、フツー、家族というのは、たとえ何年経っても「どこかで生きている!」と信じているものだと思っていました。Yさんがいなくなってまだ1日、2日で「死んだ」と口にするのは、随分投げやりで諦めが早過ぎないですか?次姉も私の印象では、かなり気丈でシッカリした女性のように感じますが…

  2. また、管理人様のお手をわずらわせることになってしまうと思いますが、

    下田氏「狭山裁判」35ページに
    「店名の書かれていない佐野屋が所有する幌つきの軽自動車コニーにしようと決めた。」
    とあります。

    以前、別の日の記事のコメントに掲載させていただいた、
    「日映ライブラリー」の「朝日ニュース」の昭和38年の以下の映像で、
    ◆事件発生直後
    http://j-footage.vox.com/library/video/6a00d41420c1f0685e00d41430ad313c7f.html

    「佐野屋」の店の前に停車している車は、「幌つきの軽自動車」に見えます。
    その車体に書かれている「5文字」の部分は、判読は困難ですが、仮に、その車が佐野屋の車であれば、「佐野屋酒店」と書かれているはず、と思うのですが。
    もちろん、映像の車に「佐野屋酒店」と書かれていたとしても、身代金受渡しの時には、佐野屋の車に店名の記載はなかったが、その後、店名が車に記載された、など、いろいろな説明は可能なので、どうでもよいことかとは思うのですが。

  3. 5月2日の朝6時にMさん宅に、警察が来て協力を依頼し、それを受諾したMさんはその足で、H中に向かい、校長と教師に事件の発生を告げ、卒業アルバムを見せてくれるように頼み、断られるわけだ。学校は9時始業だから、8時くらいにはMさんは、行ってたんでしょう。
    先生方も、そこで初めて事件の発生を知るわけだ。MさんはH中の卒業生の中に犯人がいると思い、機密漏洩をして、内々にそれを伝えたとも言える。学校側も卒業生が犯人だったら大変だという思いにも震え、協力を約束し、Mさんの息子が所属していた野球部の顧問だったA先生が、同行することになった。MさんがH中に行ったのは、いわば偶然だ。もしMさんが機密を重視し、H中に行かなければ、学校は事件を知らず、Aさんも同行することはなかっただろう。Mさんがサノヤに行くのは、ある種必然と言えるが、Aさんがサノヤに行くことになったのは、Mさんの主導であり偶然の要素が強い。Aさんがサノヤまで同行するというのは事前に予測のできないことだ。
    また、警官の配置なども事前の予測は不可能だ。配置は、捜査本部のおかれたM家で決まったと思われるが、犯人が脅迫状を書いてる段階で、その場に出席できると想定していたとは思えない。犯人は配置状況を知り、確実に逃げられる自信があったから、出現したのであって、もしぬかりない配置だったなら、出現しなかっただろう。出現は犯人にとって危険な綱渡りであり、最後まで迷ったんじゃないだろうか。犯人は状況次第では出現を止める選択肢をもっていたと考えるのが自然な気がする。出現して逮捕されてしまっては、全てが水の泡になるわけだから。西武園の池の中と書いて、遺体は農道から出てきたわけだし、サノヤに車でいく、と書いて結局、現れないという展開になった可能性のほうも強かったんじゃないだろうか。

  4. 最終的にサノヤにおける配置についた民間人は、T恵さんをのぞけば、Mさん、Aさんの2名。T恵さんの兄のNKさんは、サノヤの500メートル近くまで、T恵さんと二人の刑事を車で運んだあと、UターンしてN家に戻り待機したということだろうか。NKさんが配置についたという話しはない。警官は道路中心の配置だったようだが、M、Aのふたりは、前の道路に立ったT恵さんと二人の刑事の、すぐうしろのサノヤの樹陰に配置されたわけだ。Mさんは、犯人とT恵さんの闇の応答を、すぐうしろで聞いてたわけだ。思うにM、Aは二人一組で配置されたのではなく、サノヤの右横にひとり、左横にひとりというように離れてたんじゃないだろうか。もしその配置だったなら、夜の闇の中でひとりが抜け出したとしても、気づかれないのではないだろうか。Mさんは、犯人の声を聞いたという証言があるが、同じく犯人の声を聞いたであろうAさんの証言はない。
    二人一組なら抜け出すことはできない。T恵さんもNKさんも、あとで配置を確認したんじゃないだろうか。その場所にいると見せかけ、そっと抜け出すことができる位置が、あったに違いないのである。

  5. Aさんが事件後、警察にY枝さんの目撃を届け出なかった理由。それは5月2日M宅に集まっていた刑事たちに、Y枝さんの目撃を語らなかったからでしょう。そこで何も語ってない人が、事件後、警察署に出向いて、私は5月1日にY枝さんを目撃しました、と言ったらどうなります。刑事たちから怪しまれ、厳しい尋問が当然はじまるでしょう。だから目撃を届け出ることは、できなかったのではないか。
    Aさんが捜査本部のあるM宅において、刑事たちに、Y枝さんの目撃を語ったのに警察は意図的に、それを無視し、供述をとらなかったのではなく、Aさんが何も語らなかったから、警察は後日、署に呼んで供述をとらなかったとしか思えない。そして、M宅で何も語らなかったからAさんは、OTさんのように後日、目撃を届けでることも出来なくなったのだと考えざるを得ないですね。
    同僚には話したが、刑事には話さなかった。
    Aさんが供述書をとられなかった理由はそれ以外ないように思える。
    Aさんが野間さんの取材に応えたのは、同僚が誰かにAさんの目撃談を話し、それが伝わったんでしょう。Y枝さんの目撃について取材を、と言われたら拒否できないですよね。そこで語られた内容は、事件後同僚に語ったものと同じでなければなりません。でないと同僚に怪しまれる。しかし、Aさんと一緒だった野球部員で、Y枝さんを見たと、警察に届け出た者も、マスコミに語る者も47年間でひとりもいない。
    Aさんの失敗。それは事件後同僚に、Y枝さんを見たと、野球部員も一緒だったと言ってしまったことにあったのではないか。

  6. まとめるとこうなります。Aさんは第二ガードにひとりでいった。しかし、同僚には野球部員と一緒だったと言った。だから野間の取材にも同じことを言わざるをえなくなった。そして5月2日刑事には何も語らなかった。だから供述書をとられることもなかった。
    最初は偽りが露呈されることもなかった。しかし47たっても野球部員のなかで目撃者がひとりも現れないことによって、それが明瞭になってきた。

  7. 兄のNKさんとA先生は、犯人が現れた畑から道を隔てて向かい側の畑の中で
    かがみ込んで状況を見守っていました。
    また、M氏は木戸を半分開けた佐野屋の内側に立っていて、その奥には佐野
    屋の主人もいました。
    M氏と佐野屋主人は、被害者姉と犯人のやりとりについてコメントしていま
    すが、なぜかNKさんはそのことを一切語っていません。A先生の場合は当時、
    「誰にも聞かれなかったので、何も言わなかった」とだけ話していたそうで
    す。

    なお、張り込みの最中に「某氏がそっと抜け出して畑に入り、被害者姉と会
    話した後、また元の位置に戻った」云々は、某作家の妄想小説の中にも出て
    くる話ですが、そのようなことがあの緊張状態の中で行えるはずは無いと思
    います。

    また、「A先生犯人説」にしても荒唐無稽の一語に尽きる話というほかあり
    ません。A先生は5月1日午後5時まで堀兼中職員室におり、2日は佐野屋
    の張り込みに参加しているのですから、少なくとも(百歩譲ったとしても)
    “実行犯”となることは物理的に不可能です。

  8. なるほどNKさんは、配置についてたんですね。それからAさんはMさんと同じサノヤの板塀ではなかったわけですね。犯人が逃げたあと、警官を含め、配置についてた者はいっせいに飛び出して、畑の上を追いかけたわけですよね。真っ暗闇の中を追いかけるわけですから、てんでばらばら、誰がどこにいるのかもわからない状況になったわけですね。しばらくして皆、犯人の逃走を知り、ひとりひとりが、サノヤかM宅に戻ったということですよね。すると配置場所から畑に出てまた元に戻ったわけではないわけです。AさんNKさんの配置された畑は、犯人出現の畑の道路を挟んだ向かい側ということで、つまり道路を横切れば、犯人出現の畑にすぐ行ける場所だったということになると思います。五叉路に配置された警官などは、出現ポイントからは遠いですよね。二人一組で遠い場所なら抜け出ることはできません。配置場所によっては無理なのです。しかしAさんとNKさんの配置は、全体の配置から見て、出現ポイントに一番近いポジションだったといえるのではないでしょうか。畑と畑の間には道路一本なわけですから。AさんとNKさんの間が少し離れておれば、真っ暗闇の中でそっと一人が抜け出しても、わからないだろうし、一番それに適したポジションだったということはいえるかもしれませんね。

  9. >真っ暗闇の中でそっと一人が抜け出しても、わからないだろうし

    それはまず無理でしょう。いくら何でも道路を横切れば、被害者姉やPTA会長にしてもすぐに気づくと思います。そもそもA先生は皆に声も知られているのですから、他人になりすまして呼び掛けること自体不可能です。あと、前に書いた通りで「A先生誘拐・殺害実行犯」は理論上成り立ちません。それでいながら「畑の中からの呼び掛け」だけ担当するというのも極めて不自然です。失礼ながら、「A先生=犯人」はやはり普通に考えて“妄想レベル”の説ということになるかと思います。

  10. そうすると佐野屋に現れたのは顔見知りでもなく、声も知られていない人になるんでしょうか。声を知られていないがゆえに、あえてT恵さんと会話するということをやったんでしょうか。声から足がつくことはないということは、N家と親しくもないし、近所でもないということになるんでしょうか。T恵さんは25才から33才くらいの近辺の人の言葉というんだが、当局は40から50代というわけで、この落差は大きいですよね。T恵さんとMさんは、警察からIKさんの声のテープを聞かされ、似てると証言するんだが、IKさんて24だったんですよね。40から50代とも聞こえ、20代にも聞こえる声ってどんな声なんでしょう。聞く側によってなぜこんなに印象が分かれるんだろう。Mさんは、犯人の声は平凡で聞き覚えはない、と述べてますが、どうもT恵さんが似てると述べたことが、IKさん犯人説を後押ししたみたいで、野間宏は疑義を呈してますね。科警研の渡辺という人の、声の印象によって、誰の声であると断定しきるのは困難である、という言を引いてますね。テープレコーダーでの録音があれば、厳密な声紋鑑定ができたんでしょうが。畑に出現男は、レコーダーはなく声が録音されることはないと、知ってたんでしょうかね。当時はレコーダーは普及してますよね。録音される可能性を出現男は考慮しなかったんだろうか。畑から出てきたのも全くの偶然だったのか。全部で40人くらいで5叉路中心の配置で畑から出れば大丈夫と、知ってたのか。車でいくと書いて、徒歩で畑から出るんだから、裏をかいてるわけだ。T恵さんのとなりに刑事が2人いるというのも、月は出ていたんだが、30メートル先から見えるでしょうか。T恵さんに2人の刑事がつき、どのへんに立つのかということを、偶然知ったのか、それともある程度知ってたのか。声だけは、自然な地声を聞かせたんだろうか。
    さつに話したんべ。そこに二人いるじゃねえか。
    おらあ帰るぞ。というのも普段使う言葉だったんだろうか。Mさんは、おらあというのは、高等教育を受けた人は使わず、農業、大工、土建業の人は、わりかた使うと証言してますね。ほんとうに金を取りにきたのか、金が目的と思わせたい会話をしたのか。はたして声と言葉だけは、日常的で自然なものだったんでしょうか。裏をかく意図はなかったんでしょうか。

  11. >佐野屋に現れたのは顔見知りでもなく、声も知られていない人になるんでしょうか。

    これは普通に考えればそういうことになると思います。

    >N家と親しくもないし、近所でもないということになるんでしょうか。

    N家とは親しくないものの、付近の状況や地理は知り尽くしている人物、ということになるでしょう。そうなると、どうしても他所から来て日中堀兼で過ごしている養豚場従業員が外せないことになってしまいますが・・・。

    >T恵さんとMさんは、警察からIKさんの声のテープを聞かされ、似てると証言するんだが
    >科警研の渡辺という人の、声の印象によって、誰の声であると断定しきるのは困難である、とい>う言を引いてますね。

    「男性か女性か」「大人か子供か」の判別は簡単だと思いますが、「20代か40代か」というのを聞き分けるのは結構難しいのではないでしょうか? しわがれていて、どちらにも聞こえる声というのも結構ありますし。
    T恵さんが「IKの声に似ている」と証言したのは、警察から頼まれた可能性がありますし、T恵さん自身、「IKが犯人であって欲しい」と考えていたことなども有り得るかと思います。

    >畑に出現男は、レコーダーはなく声が録音されることはないと、知ってたんでしょうかね。

    考えていなかったでしょう。いずれにしても、本気にしろ見せかけにしろT恵さんに呼び掛けなければ「身代金受け取り」のシーンは成立しないのですから、犯人としては声を掛けるほかなかったはずです。

    >当時はレコーダーは普及してますよね。

    警察は丸きり「車出」来ることしか予想していないのですから、そんな準備は考えてもいなかったのではないでしょうか?

    >車でいくと書いて、徒歩で畑から出るんだから、裏をかいてるわけだ。

    これは大きな謎ですよね。警察内部に共犯者(情報提供者)がいたのか、あるいは犯人が佐野屋のすぐ近くにいて、張り込み状況のすべて見ていたのか・・・。

    >T恵さんに2人の刑事がつき、どのへんに立つのかということを、偶然知ったのか、それともあ>る程度知ってたのか。声だけは、自然な地声を聞かせたんだろうか。
    >さつに話したんべ。そこに二人いるじゃねえか。

    この2人というのは佐野屋の生け垣の内側にいた刑事のことだと思いますが、向かいの畑にいた兄のNKさん・A先生を指していた可能性もあると思います。

    >Mさんは、おらあというのは、高等教育を受けた人は使わず、農業、大工、土建業の人は、わりかた使うと証言してますね。

    おおまかにいうと確かにその通りだと思います。私も昭和40年代に狭山のあたりで友人宅に遊びに行くと、地元中学を出て農業、大工、土建業などに就いていた人は皆「おらあ・・・んべ」といった話し方をしていました。このあたりは都内とは全然違っていたので、かなり印象に残っています。

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