狭山事件: 被害者の日記 その5

「女性自身」昭和38年5月20日号「女性自身」昭和38年5月20日号

「女性自身」に掲載された被害者の日記シリーズ、最後のページです。

本日の引用部分で真っ先に目に付くのは、4月26日の部分です。

4月26日(金)晴
(前略)これからのバカンスのことを考える。
今晩も涙を流し、眠りに入った。
つらい。苦しい。それもみんなおこづかいのことだ。涙が枕元を流れた……
(原注)(ゴールデンウイークのこづかいが少ないことで(被害者)さんはなやんでいた。姉の(次姉)さんは、あとでこの日記を見て、「生きているうちに、もっと好きなことをさせてあげたかった」と泣いていた)

これはどういう意味なのでしょうか。

その翌日、4月27日の日記には、

夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。
ふとんのなかでも くやしい くやしい ——-。

という記述もあり、被害者がこの時期お金をほしがっていたことは事実のようです。そして、30日(事件前日)には次兄から1000円を借りていたという話があります(今のところ下田本でしか確認できていませんので、確定事実とはしません。確認できたらまた情報うpします)。埼玉から群馬までのバス代が220円だった(同じ4月27日の日記による)時代の1000円ですから、かなり使いでがある額です。

さらに、26日の日記の「これからのバカンス」がゴールデンウイークのことを指しているのもほぼ間違いないところでしょう。そうなると、被害者がゴールデンウイークに何かお金を使う予定を立てていたということは、かなり確度の高い推測と言えると思います。

ゴールデンウイークの予定について家族は全く証言していませんので、被害者が独自に何ものかと予定していたことであり、それが5月1日の「待ち合わせ」につながったのではないか、さらに言えば、それが「私の誕生日。うれしい」の「うれしい」理由だったのではないかと私(管理人)は考えます。

27日にはお金について「兄」と言い争いをしています。この「兄」が長兄か次兄か日記には明示されていませんが、次兄が1000円を貸したのが事実とすれば、言い争いの相手は長兄でしょう。そうなると、長兄が5月1日の待ち合わせの相手だったというのは成立しないように思います。

また、5月1日の待ち合わせ相手が長兄に限らず年長の男性(例えばOG)であったとすると、被害者がそこまでお金を用意しておくことに執着したことに違和感を覚えます。常識的に考えて、30歳の男(OG)が16歳の女の子を呼び出したとすれば、援交ではないにしても遊びに行く費用は収入がある30歳男の側が出すのが当然と思われ、被害者の潔癖な性格を考慮に入れても家族とけんかをしてまでお金を用意しようとしていたのが腑に落ちません。

まとめると、現時点での私(管理人)の考えは以下の通りです。

  • 被害者は、ゴールデンウイークにお金を使う予定があった。それはおそらく、5月1日の待ち合わせに関係するものであった
  • その内容は、家族とは関係がないものだった
  • その内容は、被害者にとって「うれしい」ものだった
  • 5月1日の待ち合わせの相手は、被害者にとって対等に費用負担をしたいと思わせる相手だった

4月27日注記: 上で書いた「5月1日の待ち合わせの相手」は、特定の異性の相手(個人)を想定していません。そのような相手がいなかったことは被害者の日記や中学時代の先生の証言からもほぼ明らかと思われ、例えばグループでどこかに出かけるとかそういう状況を想定しています。犯人はそういう「グループでどこかに出かけよう/誕生日パーティーをしよう」という名目で被害者を呼び出した可能性が高いのではないかと個人的には思っています。その費用(ワリカン)のために被害者がお金をほしがっていたという想定です。

6 thoughts on “狭山事件: 被害者の日記 その5”

  1. 本人が誕生日(orバカンス)のために用意するお金といえば、デート費用でしょうか?
    相手が社会人なら別ですが、学生同士ならワリカンが基本だったでしょうね。
    学校が終わって直ぐに待ち合わせして、西武園まで遠出して夜帰宅する…。
    そんな想像も出来ますね。
    密会に神社や学校が使えないなら、何処でデート(お祝い)したのでしょうね?
    共稼ぎの留守家庭なんてあったりしたのでしょうか?
    それが分かればなぁ…。

  2. 「30日(事件前日)に善枝さんが次兄から1000円を借りていた」という話は、栗崎ゆたか氏と文殊社のメンバーが、次兄の経営する中華料理店「山王亭」に行って、直接本人から聞き出している話です。栗崎氏はその後、「問題小説」の「中田家の悲劇」にそのことを書いており、それはのちに亀井トム氏によって「狭山事件・無罪の新事実」で引用されました。下田氏の記事はさらにそれを引用したものであるようです。

    昭和38年だと、うちの近くの肉屋でコロッケが4円、メンチカツが8円でした。また、近くのスーパーの歳末大売出し時の福引の1等賞景品が100円の金券だったのも覚えています。
    その時代の1000円ですから、これは確かに高校生が持つには結構な大金ということになるでしょうね。当時の大卒初任給と比較すれば、約10倍ほどの価値になるかと思いますが、食品の値段などと比較するならば大体今の15,000円くらいに相当する金額、ということになるかもしれません。

    5月1日は平日で、家族にも何も予定は話していないようですし、「(善枝さんは)遅くても毎日6時には帰宅していた」(父・栄作さん)というのですから、おそらく遠出をする計画などは無かったでしょう。しまさんは「西武園・・」と書かれていますが、当時は「制服のまま遊園地で遊ぶ」なんて女学生はまずいませんでした(女性だと、学校帰りの寄り道自体が「悪」と考えられていた時代です)。
    1日はどこかで2時間程度の誕生パーティを行って貰える予定になっていて、その後の連休では遠出をする計画などもあったのではないでしょうか?善枝さんは高校に入学した直後にも仲間5人と埼玉県飯能市の天覧山に遊びに行っています。友人も多く、活発な女の子でしたから、GWをずっと家で過ごす、ということは多分なかったでしょう。「ゴールデンウイークのこづかいが少ないことで悩み・・」というのは、そうした友人との約束などを考えてのことだったのではないでしょうか?

  3. コメントありがとうございます。

    私の書き方が悪かったようです。「OGのような男が相手だったら、そっちがカネを持つだろう」というのはあくまでもそういう可能性を否定しただけで、私が上で書いた5月1日の予定云々というのはもっと、グループでどこかに行くといった状況を想定しています。いわゆる「デート」をするような特定の異性の相手がいなかったことは、被害者の日記や中学時代の先生の証言からほぼ確定としてもよいと思いますので、そういうことを想定しているわけではありません。

    ただ、次兄から1000円を借りたのがまさに事件前日だったことと、当日を被害者が非常に楽しみにしていたことから、この1000円が5月1日の何らかのお楽しみ(外出か会食かはわかりませんが)資金だったのではないかという推測を個人的には捨てられないでいます。

    >伊吹様
    1000円のソースありがとうございました。こちらでも当該の記述を確認しました。念のため本日別エントリで上げさせていただきます。

  4. いつもこちらのサイトを読ませていただいております。
    最近upされたバカンスに関する当時の捉え方も初めて知りました。
    以前からずっと『何故1000円という大金が必要?』だったのかを考えていました。
    現在の貨幣で15000円となると豪農であっても今より期間も短いGWに高校生が遣う額にしては多額な気がして。
    単なる思いつきなんですがあの年頃だと誕生日が近い子と一緒に集まって祝ったりしたのではないかなって。
    1000円は相手の誕生日プレゼントを用意する額も含んでいたのではないかなと。
    ただ一緒に祝う理由(相手)を家族に話せなかった事情があるので揉めたのではないかと思うのです。

  5. 秋さんへ
    関東の民俗学を調べていて狭山事件に関心を持った者です。意識して被害者さんの見ていたであろう時代のテレビ番組を見るようにしています。
    お誕生会が本格的にはやるのは60年代終盤〜70年頃のように感じますがテレビ好き、外交的な被害者Yさんなら確かに誕生月の近い人同志を含む小グループで集まろうという話しはあったかもしれませんね。

    アメリカのアポロ計画や、経済成長著しい日本のオリンピック前年という年の事件ですが、被害者の生きた時代の東京都下(いわゆる多摩地域)や埼玉の農村は構や信仰や土俗と経済成長が並存した時代と地域だったと思います。NHKのアーカイブなどを見ても池袋駅でさえ60年代には農家からの行商でしょうか足袋+竹カゴを背負ってで歩いている人が散見されます。新宿からすぐの調布でさえ牛がいて肥やしの匂いがしてほっかむりのおばさんが沢山いて、というのが事件のあった63年のフィルムや本や親戚から見聞きした様子です。
    当時の狭山の地主さんの文化は地縁、血縁による助け合いが存在した一方で裏目に出ると過激な嫌がらせや私刑めいたものもあったのかと想像してます。もちろん殺人まではしないでしょうが風土としてなんらかの縁の中で「解決」を図る気質は被害者より目上の世代位まではあったように思うのです。
    私は都心育ちですが埼玉、千葉の集落には下手に遠くに旅行にいくよりタイムスリップしたかのような風情を感じる土地に出会うことも多いです(良い意味でも)。

  6. 調べたわけではないのですが、庶民の家で「誕生パーティ」が一般化したのは、おそらく昭和30年代半ばからだと思います。思うに、あれは完全にアメリカから輸入された〝文化〟ですね。仲の良い友人たちを呼んで、年齢の数だけローソクを立てたケーキを囲み、皆が「ハッピバースデー・トゥユー・・・」と歌い終わると同時に本人がローソクを吹き消す・・・という形式も、アメリカの家庭生活への憧れから始まり、定着したもののように思います。ですから、TVっ子で流行にも敏感だったという被害者が、そうした形式(誕生パーティ)に拘ったとしても決して不思議ではないでしょう(ちなみに、私の場合初めてそのような「誕生パーティ」を行ったのは昭和40年1月でした)。なお、被害者は事件の少し前の日記で「明日は××さんの誕生日、おめでとうと言おう」と記しており、この××さんの誕生日の時は特に友人揃っての「誕生パーティ」は行われていなかったことが推測されます。

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