上の地図は、1966年(狭山事件が発生した1963年の3年後)発行のものです。以前のエントリでも論じたように、この時点で「狭山東中」になっていた中学(現在の入間川東小の位置)を「入間川中」という古い表記にしているなどいくつかの問題はありますが、私(管理人)がこれまで見つけた中では一番当時に近いと思われる地図です。現在の地図(例えばGoogle Map)と比べて見て下さい。
赤字の注記はすべて管理人が入れたものです。縮尺的には、その1の方は右端の方にある被害者宅から佐野屋までが直線距離でちょうど1kmくらいです。その2の方では、入間川駅(現狭山市駅)から三柱神社(荒神さま)までだいたい250~300mくらいです。
地図だけではわかりにくいこともあります。例えば、「三柱神社(荒神さま)」というのは、地図ではわかりませんがかなり高い位置にあります。入間川駅、死体発見現場、教科書発見現場、第一ガードのどこからも、荒神さまに行くにはけっこうな坂道を上る形になります。それと、その1の地図の「OTくんが被害者を目撃した場所」から「佐野屋」の近くまで通っている道路は、現在狭山台団地になっている小高い丘(当時は雑木林)を越える形になります。
高低差がどのように推理に影響を与えるかの例として、被害者の登下校ルートの話があります。地図上では、その1の地図の一番右の方にある被害者宅と一番左の方にある川越高校入間川分校(被害者が通っていた学校)の間を往復するには、
- 北の方(「OTくんが被害者を目撃した場所」)を通るルート
- 南の方(「やげん坂」)を通るルート
の2通りがあるように見えます。しかし、実際に現地に行ってみると、北の方を通るルートはかなり起伏が激しく、自転車で通うにはあまり適していないことがわかります。それに対して南の方は、「やげん坂」という道の名前とは裏腹に、かなりフラットで自転車で走りやすい道が続きます。事件当日に被害者が第一ガードや第二ガードで目撃されているのは、単純な下校ルートではなくなんらかの意味があってそこにいた、という推測が成立するわけです。
ちなみに、確定判決では、被害者は荒神様の横を通って北の方に向かっていく途中(「その2」の地図の「出会い地点」あたり)で石川さんに会ったことになっています。しかし、「その2」の方の地図の等高線を見てもわかるように、荒神様と「出会い地点」の間にはもう一段高い地点(標高73m程度?)があり、標高60mを切る第一・第二ガード近辺からはかなり急な上り勾配になっています。被害者がマルコ・パンターニでもないかぎり、こんな急坂を自転車で登ろうとは思わないでしょう。北ルートで家に帰るとしても、線路の西側のフラットな道を走る方が全然楽です。わざわざ被害者が自転車に乗ってこの道を通ったというストーリーを構築するあたり、いかにも現地を見ないで、地図だけ見て書いた判決という感じがします。
その2の地図で、第一ガードと第二ガードの間にもう一つガードがあるように見えますが、当時の証言等を勘案するとおそらくここにはガードはなかったと思われます。
また、地図の問題ではありませんが、当時はこの地図のかなりの部分が未開発の雑木林や畑でした。死体発見現場のあたりは畑でしたし、鞄・教科書・ゴム紐等発見現場のあたりもずっと雑木林でした。やげん坂も、現在では通りの両側に大規模スーパーやゲーセンが建ち並ぶ開けた通りですが、当時は雑木林の中を抜ける薄暗い道でした。
管理人様
いつもながら、貴重な資料を掲載いただきまして、ありがとうございます。
ところで、わたしの調べ方が悪いのか、被害者の「日常の通学コース」につきまして、
公判調書などの公的記録で確認できる資料はありますでしょうか。
下田氏の「狭山事件」122ページによりますと、
被害者が「川越高校入間川分校」への通学路は、
●「被害者宅の裏側」を出発
→「不老川」沿い→「権現橋」渡る→「佐野屋」を右折→「薬研坂」を進む
→「狭山精密」付近を右折→「入間川駅」に向かう→「駅の南側」を通る→「学校」到着
とあります。このコースは、「定説」という理解でよろしいのでしょうか。
同じく、下田氏の同書117ページで、
「善枝さんは、この日だけ通学路を変更している。三十日は二年生が修学旅行に行き、
同じ通学路を一緒に通う人がいなかったので、学校からの帰り道は一緒の人がいる、
いつもとは別のルートを選んだ。級友である佐野屋の娘と一緒に、狭山精密の前を
通って薬研坂を通り、帰宅した。」
とありますが、上記を読んで、疑問に思った点があります。
「被害者は、この日(4/30)だけ通学路を変更した」とあり、変更したとされる「別のルート」は「狭山精密の前を通って薬研坂を通り、帰宅するコース」とされています。
しかしながら、被害者の日常の「通学路」の復路は、「薬研坂を通り、狭山精密の前を通るコース」であり、「帰りは同じコースを戻った」(122ページ)のであれば、
被害者の4/30の帰りのコースは、被害者のいつもの通学路であり、被害者にとって「いつもとは別のルート」とはいえないのではないか、ということです。
上記の点に関し、野間宏氏「狭山裁判(上)」(藤原書店)123ページを読みますと、
「佐藤ふみ子さんは、同じ調書(供述調書)の中で善枝さんと同じように堀兼に住んでは
いるが通学のコースがちがうので一緒にかえることはほとんどなく、ただ、事件の前
日、四月三十日に、二年生が修学旅行に行き、一緒に同じコースを通っていた人がいな
かったので、善枝さんと一緒に狭山精密の前を通って薬研坂を通り、帰宅したことを明
らかにしている。」
とあります。
上記の野間氏の記述からしますと、下田氏の記述の「佐野屋の娘」=「佐藤ふみ子」と
思われますが、4/30の「通学路」についていえば、被害者は、いつもどおりのコースを通り、「別のルート」を通ったのは、佐野屋の娘、ということになるのではないのでしょうか。
いずれにしましても、被害者と佐野屋の娘は、被害者の日常のコースで佐野屋付近を通過するにもかからさず、普段は一緒のコースを使わなかった、ということになります。
同級生でも、それほど親しくなかった、ということでしょうか。
被害者が、普段の通学路で、一緒に行動をともにしていた男子や女子が誰なのかが、気になります。
すみません。
上記で、「通過するにもかからさず」と書いてしまいましたが、
「通過するにもかかわらず」 の誤記でした。失礼いたしました。
実は、私(管理人)も被害者の通学路の確定した情報というのは持っていません。ただ、上にも書いたように常識で考えると、また、いろいろな記述(長兄が被害者の帰りが遅いのを心配して探しにいったというルートなど)を考えると、被害者は普段南側(佐野屋→やげん坂→狭山精密→狭山工業高校→駅の南の踏切→学校のルート)を通っていただろうと思います。
ご指摘の「佐野屋の娘」について。とある事情があって今はあまり詳しく書けませんが、下田氏の著作(ならびに元ネタである亀井本)のその部分はおそらく誤りである可能性が高い、とだけ申し上げておきます。詳しくお話ができる状況になりましたらまたご説明させていただきます。
……すいません。もったい付けるつもりはありませんので、もし個人的にこの辺をご説明させていただけるのであれば当方メールアドレス宛に捨てアドからで結構ですのでメールをください。要するにこのあたりの事情を一般公開するのが現時点ではあまりよろしくないという状況です。
管理人様 私もメールしてかまいませんか?そのお話も伺いたいし、私の方も書くのが躊躇われる事があるので。
メールは(SPAMでなければ(笑))歓迎です。上のアドレスまでどうぞ。
ただ、今日のエントリにも書きましたが鯖が不調なようです。メル鯖もWEB鯖と共用している関係で、メールを確認したりご返事するのにちょっと時間がかかるかもしれません。
あと、コメントは当方が承認したものしか公開されません(最初は自動公開にしていたのですが、あまりにもSPAMコメントが多いので承認制にしました。基本的にはSPAMコメント以外はほぼ自動的に公開としています)。コメント内に「このコメントは一般公開しないで下さい」と書いていただければ、そのように取り扱います。
(2022年11月6日投稿)
川越高校入間川分校の場所が、いまいちつかめないでおりました。現在の、狭山経済高等学校の前身が、川越高校入間川分校なのではないか?、と思ったりもしておりました。大違いでした、狭山市詳細地図その1と狭山市詳細地図その2により、入間川駅(現在の狭山市駅)のすぐ西側に、同校(川越高校入間川分校)が有ったことがわかります(当時は、狭山市役所も同一敷地内にあった?、のでしょうか)。狭山市駅前も、再開発により、その姿をかなり変えてしまいましたが、その位置関係から、狭山市駅と八幡神社の間あたりに、旧入間川小学校と入間川幼稚園と共に、同一敷地内に、同校(川越高校入間川分校)が有ったことがわかります(現在、入間川小学校は、旧地より西方向に移転し、別の場所にありますね。)。現在の狭山市立中央図書館付近が、旧川越高校入間川分校のあった地になるのでしょうか。(わたしは、ずっと、稲荷山公園付近(稲荷山公園の北東付近・西狭山病院・市立中央児童館付近)にあったのでは、と思っていました。全然違っていました。)
hai様
コメントありがとうございます。
川越高校入間川分校は、現在の中央図書館の道をはさんだ向かい側にありました。現在の中央図書館の場所は当時は市役所でした。
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.857574&lng=139.411306&zoom=17&dataset=tokyo50&age=4&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
こちらの左側の地図(1965~1968年)で、「入間川」という字のすぐ上にある「文」マークが当時の入間川小学校です(現在は住宅地)。その上にある「△75.4」という三角点記号のすぐ左上にある細長い建物が当時の川越高校入間川分校(木造校舎時代)で、市役所は「△75.4」の右上の二重丸です。
その後、校舎が鉄筋コンクリートに建て替えられたあと川越高校入間川分校が廃校になり、そのコンクリート校舎が狭山市立衛生学校(准看護師科・歯科技工士科・調理師養成科)に利用され、看護学校が狭山台の方に移転した後、取り壊されて現在その場所はマンションになっています。