津山事件: 『雄図海王丸』と『浮城物語』 その2

fujoumonogatari-gendaigo『浮城物語』現代語版

『浮城物語』には、「現代語版」というバージョンがあります。出版されたのは昭和18年(1943年)で、都井睦雄の死後です。現在から言えば70年近く前の「現代語」版ということになります。

訳者は高垣眸氏。1925年に少年倶楽部でデビューしたとのことですので、氏の小説は睦雄も読んでいたかもしれません。ちなみに、なんとこの方、1979年には「宇宙戦艦ヤマト」のノベライズも担当されたとのことです。残念ながら国会図書館にも所蔵されていないようですが、80歳を超えた方がノベライズした「宇宙戦艦ヤマト」……是非読んでみたいものです。

閑話休題、要するに『浮城物語』には、オリジナル、現代語版、『雄図海王丸』と、3つのバージョンがあることになります。それらの相同点と相違点を見ていただくために、作中の主人公である上井清太郎(この主人公の名前も3者共通です)が横浜グランドホテルで作良・立花両氏と初めて対面する場面を見てみましょう。

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津山事件: 『雄図海王丸』と『浮城物語』 その1

fujoumonogatari2岩波文庫版『浮城物語』奥付

こちらのコメントで書いた内容の続きです。

私は、筑波本に都井睦雄の作品として紹介されている『雄図海王丸』も、筑波昭氏による創作である可能性が高いと考えています。いくつか理由はあります。

  1. 『雄図海王丸』のプロットは矢野龍渓の『浮城物語』とまったく同一であり、文体を「子供向けに」書き直した程度である
  2. 『浮城物語』は矢野龍渓の代表作の一つであり、矢野龍渓の名前は『雄図海王丸』の冒頭にも出ているので、ちょっと調べればわかるはずなのに、筑波氏がぼかした書き方をしている
  3. 睦雄が生きていた昭和10年代前半における本作品の入手可能性に疑義がある
  4. 「津山事件報告書」に『雄図海王丸』が全く出てこない
  5. 『雄図海王丸』の原稿の写真も「津山事件報告書」にない

『浮城物語』はこちらで全文読むことができます。
国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」内『浮城物語』

関係する時系列をまとめると下記の通りです。

  • 1851年(嘉永3年):矢野龍渓生誕(豊後(現在の大分県))
  • 1890年(明治23年):郵便報知新聞に『報知異聞』(『浮城物語』の原題)を連載
  • 同年:『浮城物語』単行本発行
  • 1931年(昭和6年):矢野龍渓逝去
  • 1938年(昭和13年):津山事件発生・都井睦雄自殺
  • 1940年(昭和15年):『浮城物語』岩波文庫版発行
  • 1943年(昭和18年):『浮城物語』現代語版発行

単行本には徳富蘇峰や中江兆民、森鴎外といった錚々たる面々が跋文を寄せており、それだけでも当時におけるこの作品の影響の大きさがわかります。

『雄図海王丸』のプロットは『浮城物語』のほぼ丸写しで、主要な登場人物の名前(「作良義文」「立花勝武」など)も共通していますので、パクりとはいわないまでも少なくとも参考にしていることは間違いありません。岩波文庫版が出たのが昭和15年であったことを考慮すると、睦雄が本当に『雄図海王丸』を書いたのであれば、いつどのようにして『浮城物語』を読んだのか、という疑問が残ります。ご存じの通り睦雄は昭和13年(1938年)の津山事件当日に自殺しており、その時点では『浮城物語』は50年近く前の、文庫にも未収録の作品ということになるからです。

国会図書館で検索した限りでは『浮城物語』は明治39年や大正5年にも改訂版が発行されていますし、昭和に入ってからも改訂版は出版されていたと思われます。それを睦雄が何らかの形で入手したり、あるいは学校の図書室にその本があって、それを元に子供向けに『雄図海王丸』を書いた可能性はゼロではないと思います。しかし、『雄図海王丸』は、例えば「班超伝」の引用などかなり詳細な部分まで『浮城物語』と一致しており、図書室で読んだ本のうろ覚えのあらすじを元に書いた、というレベルではありません。手元に『浮城物語』があって、それを元に言葉遣いを改変して書いたとしか考えられない内容です。

「津山事件報告書」にも『雄図海王丸』や『浮城物語』に関する言及が全くないことからも、青年時代に『浮城物語』の岩波文庫版あるいは現代語版を読んだ筑波氏(昭和3年生まれ)が、それを改変して創作に利用した可能性の方が高いのではないかと思います。

 

狭山事件: 『三億円事件の真犯人』について その2

joseijishin1女性自身 昭和38年6月24日号

joseijishin2女性自身 昭和38年6月24日号

こちらのエントリの続きです。かなりしょうもない小ネタです。興味がない人は読み飛ばしてください。

殿岡駿星氏の『三億円事件の真犯人』の中で、三億円事件の真犯人である「佐々木」は過去に人を殺したことがあるという設定になっていました。本人は「勝どき橋から女性を突き落として殺した」と言っていて、「町子さん」は「違うところで違う人を殺したことを隠蔽するためにそのように言ったのではないか」と推理しています。

で、私が個人的に「勝どき橋から女性を突き落とした」事件の元ネタじゃないかと思うのが本日の画像の記事です。
この記事はOTくんの目撃証言の記事の隣に出ているので、殿岡氏はこれにインスパイアされて橋から女性を突き落とした話を書いたんじゃないかな、と。場所も違うし(記事に出てくる橋は墨田区の源森橋です)、深い根拠はないのですが。

しかし、この事件もひどい話です。女性が突き落とされたのを目撃した男性が、「女性の特徴を詳しく覚えすぎている」などの理由で警察から犯人として疑われ、15時間ぶっ続けで取り調べを受けたとのことで、警察のリークに乗ってマスコミがこの男性を疑うような記事を書き立てたあたり、冤罪事件の典型的なパターンになっています。結局真犯人が見つかってこの男性は警視総監賞まで受けたそうです。逆に言えば、突き落とされたのを目撃して届けた程度で警視総監賞をもらえるものなのかな、という疑問も持ちます。単なる口止め料じゃないかと。

狭山事件: 署名のお願い

sayama_hagaki再審要望署名ハガキ

前回のエントリで書き忘れました。

狭山事件にご興味がある方は、是非とも再審ならびに事実調べ要望の署名をお願いします。
下記は、支援団体が印刷しているはがきの文面です。必ずしもこの通りの文章でなくてもよいようですが、「狭山事件の事実調べをしてください」という内容と、ご自分(差出人)の住所・氏名は必ず記載していただくようお願いします。

宛先:
〒100-8933
東京都千代田区霞が関1-1-4
東京高等裁判所第4刑事部
裁判長 岡田雄一 様

本文:
狭山事件の公正・公平な裁判を求めます

狭山事件の第3次再審請求において、弁護団は、専門家による筆跡鑑定書、法医学鑑定書など、無実を証明する多数の証拠を裁判所に提出していますが、2審の確定判決以来34年以上、事実調べ証人尋問などが一度もおこなわれていません。このことは法の正義に反し、公正・公平ではありません。
弁護団提出の証拠について事実調べをおこない再審を開始されるように求めます。
また、昨年の開示勧告に引き続き、弁護団が求める証拠開示についても勧告されるよう求めます。

真犯人推理の観点からも、よりいっそうの証拠開示が求められるところです。再審・事実調べが開始されれば、また新たな事実が判明する可能性もあります。是非ともよろしくお願いします。

 

狭山事件: 現地見分2010

IMG_2159狭山市駅(西口)、すっかり様変わり

昨日実施された、「狭山事件を推理する」管理人氏主催の現地見分に参加してきました。案内役に伊吹隼人氏を迎え、初参加の方も多くかなりの盛況(ダジャレではない)でした。

石川一雄さんもお元気そうでした。しかし、「10歳も年下の○○ももう死んでしまったし、今は元気だけどいつどうなるかわからん」とおっしゃっていたのが印象的でした。

石川さんのお話で一つ新発見だったのは、I養豚場の兄弟が男兄弟だけで4人いて、姉妹まで入れると10人きょうだいだったというお話です。狭山事件関係本やマスコミでは「養豚場」と言えば「三兄弟」の枕詞として使われているのに、実際には4人いたというあたり、やはり従来の狭山事件関係本の取材不足を感じさせます。石川さんによると、三男は養豚場経営に参加していなかったのであまり表に出てきていないのではないか、とのこと。

席上、2010年5月13日に開示された証拠の一覧表をいただいてきました。新聞報道等では断片的なので、一応一覧表として掲載しておきます。

弁護団が2008年5月23日付け、2009年8月17日付けの証拠開示勧告申立書で開示を求めた証拠のうち8項目の証拠が2009年12月16日に(引用注、裁判所から)開示勧告された。そのうち、5項目について36点の証拠が2010年5月13日開示された。

番号 開示勧告が出された証拠
(2009年12月16日)
検察官の回答・開示された証拠
(2010年5月13日)
備考
1 殺害現場とされる雑木林内における血痕検査の実施およびその結果に関する捜査報告書一切(検察官は殺害現場のルミノール反応検査報告書について存在しないと言っているが、存在しないならその理由の説明を求める) 不見当 「殺害現場」の血痕検査については検査を行ったという埼玉県警係員の証言があり、見当たらないならその理由(廃棄したならいつ誰がどのような理由で廃棄したのか)を明らかにするべきでしょう。また、当初検察の回答が「存在しない」だったにもかかわらず「不見当」に変わっているということは、後で見つかったときに「その時には見つかりませんでしたが、あったんですね~」と言い訳できるようにするためとも考えられます。
2 捜査官が、殺害現場に隣接する畑で農作業をしていたOさんから3回目に事情聴取した際の捜査報告書ならびに供述調書 Oさん関係の捜査報告書1通を開示 そもそもこれまで非開示だったことがおかしな話ですが、今回開示されたことは一定の評価がされるべきでしょう。
3 殺害現場とされる雑木林の隣で事件当日、農作業をおこなっていたOさんを取り調べた捜査官の供述調書案、取り調べメモ(手控え)、調書案、備忘録等 Oさん関係の捜査報告書2通開示(ただし1通は上記と重複)
4 1963年7月4日付けの実況見分調書に記載されている現場(雑木林)を撮影した8ミリフィルム 不見当 これらの公式の文書にその存在が記載された証拠が見当たらないなら、その理由(廃棄したならいつ誰がどのような理由で廃棄したのか)を明らかにするべき。
5 死体鑑定書や1963年5月4日付けの(死体発見時の)実況見分調書に添付された写真以外の被害者の死体に関する写真 不見当
6 石川一雄さんが○○製菓の工場に勤務していた当時の借用書など筆跡鑑定等のために収集した石川さんの筆跡が存在する書類 6点の筆跡関係資料を開示 真犯人推理の観点からすると、石川さんの筆跡関係資料だけでなく警察が集めたすべての筆跡関係資料を開示してほしいものですが…
7 石川さんが逮捕・勾留中に書いた本件脅迫状と同内容の文書など、石川さんの筆跡が存在する文書
8 石川さんの取り調べにかかる捜査官の取り調べメモ(手控え)、取り調べ小票、調書案、備忘録等 捜査報告書等19通を開示
取り調べ録音テープ9本を開示
今回公開されたテープは自白時のテープです。石川さんも述べているように、その前、1ヶ月にわたって否認をしていた間のテープも公開されるべきと思います。

なお、本日、このエントリの前に業務連絡としてもう一つエントリを書きました。昨日の参加者の方々はそちらもご参照ください。

 

狭山事件: 『三億円事件の真犯人』について

昨日の参加者の方々に業務連絡です。

殿岡さんの『三億円事件の真犯人』読了しました。
が、どうご紹介したものやら考えあぐねていると、どこかでこの本の内容についての解説を読んだのを思い出しました。記憶を頼りに探したら、2ちゃんねるの三億円事件スレでした。
【第二現場は】三億円事件【七重の塔】
このスレの>>356あたりから本の内容について触れられています。ネタバレ満載なのでリンクをクリックするときは注意してください。

私も、上記スレで「サトーハチロー」氏が書いている内容に同意します。ただ、当方、三億円事件関係の資料の手持ちが少なく、別冊宝島1574「20世紀最大の謎 三億円事件」くらいしかないので、「多摩駐在所への脅迫状の差出人名」を存じ上げておりません。「あの人」の名前に似てるんでしょうか。

津山事件: 中村一夫氏と中村病院

IMG_2098中村病院跡地

IMG_2099中村病院跡地(反対側)

NakamuraMap1998年発行の地図

津山事件: 中村一夫『自殺―精神病理学的考察』のエントリに、中村一夫氏の「中村病院」は既に潰れており、現在も埼玉県内にある精神科の中村病院とは別物であるというコメントをいただきました。ありがとうございます。

なお、上記エントリにも書いたように、中村一夫氏の『自殺』は私が今までに読んだ津山事件本の中では最も正確性が高く、津山事件に対する愛があふれまくっていてマニアの方には是非一度読んでいただきたい本です。ただし、全部で200ページの本の中で津山事件関係の記事は40ページほどですので、その点はあらかじめご了承ください。

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狭山事件: 新証拠開示

狭山事件で、弁護団の求めに応じて検察側から証拠開示がなされたとのことです。

要点だけまとめると以下のようになるかと思います。

【開示された証拠】

  • 取り調べの録音テープ
  • 筆跡鑑定に使われた、石川さんが書いた領収証
  • 「現場」近くの男性の調書

【開示されなかった証拠】

  • 「犯行現場」の血液反応検査報告書
  • 「現場」を撮影した8mmテープ

開示された証拠を見る限り真犯人推理に役立つなものはなさそうです。また、「殺害現場」のルミノール反応検査結果については「不見当」とのことですが、「ルミノール検査をした」と警察技師が弁護団に証言していますので、これまた誰がいつどのような理由で証拠を廃棄したのか、厳しく追及されるべきではないかと思います。「犯行時間帯に現場の近くにいた男性の調書」も公開されたとのことで、これが「犯行時間」に「現場」から30mほどの畑で農作業をしていたOさんの証言であれば、冤罪の証明の方向性としてはかなり大きそうです。

 

下山事件: 五反野周辺の証言

IMG_1636公園から轢断現場付近に向かって撮影

全研究下山事件サイトにて、「五反野轢断現場周辺の目撃者証言」という記事が上がっています。

特に、各目撃者の位置と目撃時間をまとめた地図に関して、私自身もいつかはこれをやりたいとは思っていたのですが、先にしかも私が考えていたのよりも精緻な形でまとめられています。その努力に敬意を表すとともに、下山事件に興味がある方は是非とも一度ご参照ください、とおすすめしておきます。私が知る限り、ここまですべての証言を地図上にまとめたものは今までなかったのではないかと思います(もしどこかにあればご教示ください)。

この地図、特に(2)の方を見ると、「下山総裁は短い時間の間にあちこちで目撃され過ぎではないか」という疑問が出るかもしれません。しかし、(2)の地図下にある縮尺を見ていただくとわかるように、この地図の端から端までで300m程度です。悩みながらゆっくり歩いたとしても成人男性の足では5分もかからないでしょう。一般的に不動産の「徒歩○○分」は徒歩1分=80mですので、300mなら徒歩4分たらずということになります。

ちなみに、常磐線、東武線と小川が作る三角形の地帯は現在公園になっていて、当時の面影はありませんが実際に線路際を歩いてみることが可能です。ただし、線路は現在かなり厳重に囲われてしまっていて、土手に登ることはできなくなっています。本日の写真は、子供を遊ばせているお母さんたちに不審そうな目を向けられながら公園の中の遊具に上って轢断現場方面を撮影した写真です。

狭山事件: 被害者の日記 その6 事件当日の日記

被害者の日記女性自身昭和38年5月20日号(再掲)

一応確認です。

被害者の事件当日の日記には「私の誕生日(十六才)うれしい」とだけ書かれており、他に何もなかったことが上記の画像でも確認できます。一番左側の、一番下になっている部分が5月1日の日記です。雑誌記事をスキャンしたもので解像度が低いのですが、かろうじて判読可能です。

以前にも書いたように、被害者は事前に日記の左側に当日の予定などを書き込んでおいて、その日が終わってから実際にあったことを右の方から書いていたようです。その中で、しつこいようですが、事件当日である5月1日の予定に、待ち合わせについて書かれていないのがどうも気になります。以前のエントリでは、「うれしい」の理由が待ち合わせではないかと書きましたが、他の日にはもっと詳しく予定を書いていること、MHくんへの恋心も隠さずに書いていることなどから考えても、待ち合わせの予定がこの5月1日左側を書いた時点で判明していたのであればはっきり書いたのではないかと思います(個人的な推測です)。

「女性自身」5月20日号にこの写真が掲載され、内容も報道されているということは、刑札は早々に日記を被害者家族に返還してしまっており、現時点でも日記は家族のもとにあると考えられます。写真は撮られていて後で(インク鑑定資料として)一部が弁護側にも公開されたようですが、是非とも全ページ、特に事件前日である4月30日分の写真による公開を望みます。

ちなみに、下から2番目は5月20日の日記「今年はぜひ、後楽園で王さんに会いたい。最も良い成績をおさめてほしい、王さんの誕生日だ。今年は優勝してほしい」です。王選手は前年の昭和37年に一本足打法を始めて本塁打・打点の二冠王を達成し、事件のあった昭和38年にはそれを上回る成績を残して(ただし打点王は長嶋)、巨人も優勝しました。しかし、被害者がそれを確認することはできませんでした。

一番上になっている日記が全く読めないのが残念なところです。また、この写真の撮り方からいって、ページをバラバラにしてしまっているようです。刑札で写真撮影するときにバラしたのか、「女性自身」が撮影するときにバラしたのかは不明です。