津山事件: 中村一夫『自殺―精神病理学的考察』のエントリに、中村一夫氏の「中村病院」は既に潰れており、現在も埼玉県内にある精神科の中村病院とは別物であるというコメントをいただきました。ありがとうございます。
なお、上記エントリにも書いたように、中村一夫氏の『自殺』は私が今までに読んだ津山事件本の中では最も正確性が高く、津山事件に対する愛があふれまくっていてマニアの方には是非一度読んでいただきたい本です。ただし、全部で200ページの本の中で津山事件関係の記事は40ページほどですので、その点はあらかじめご了承ください。
コメントで「廃墟マニアの間では有名」ともご教示いただいたのでググってみると、こちらのサイトに行き当たりました。サイトを見ていくと、「院長のカルテ」や「精神鑑定書」などの写真があり、確かに院長は中村一夫氏です。
写真を見る限り、窓に鉄格子があるなどいわゆる古いタイプの「精神病院」で、潰れた後は廃墟となっていたようです。さらに土砂で敷地を埋めるという謎の行為が行われた後で2001年に土砂が崩落して横を通る道路を寸断したため、建物を取り壊して土砂も一部崩す工事が行われたとのことです。
ネット上ではそのほかに、院長が病気になったとか、院長の死去により潰れた等の噂があるようで、「院長のカルテ」が精神科である中村病院に残っていることからも、不謹慎ですが「津山事件マニアの院長が、晩年精神を病んだあげくに病院をつぶし、謎の廃墟を生み出した」というセンセーショナルなことも妄想しました。
しかし実際には、中村病院は1990年に経営破綻して、その後も数年間は中村一夫氏が院長のまま営業していたようです。下記は1990年(平成2年)12月14日付朝日新聞埼玉県版に掲載された記事です(記事中には現在では不適切な表現や誤字もありますが、地名を除いてそのまま引用します)。
岩槻の「中村病院」、2回目の不渡り 負債10億円で事実上の倒産
岩槻市○○の「中村病院」(中村一夫院長、従業員32人)が、事実上倒産したことが13日明らかになった。民間の調査機関帝国データバンクによると、先月8日に2000万円の不渡りを出したのに続き、7日に2回目、500万円の不渡りを出して12日に銀行取引停止処分になった。推定負債額は10億円。同病院は平常通り営業を続けている。
中村病院は1945年、中村院長が開業した精神科、内科などが診療科目の個人病院。ベッド数は約90床で現在約40人が入院しているという。重度精神薄弱児の施設「岩槻学園」も併映している。
その後、1994年11月に中村病院から向精神薬が盗まれたという新聞記事があり、そこでも「中村一夫院長」になっています。上のサイトにある精神鑑定書の元号が平成になっていることからも、少なくとも90年代半ばまでは営業していたことがわかります。他方で、地元の方にお話を伺ったところ、2001年の土砂崩落事件の前にかなり長い間廃墟になっており、感覚的には20年くらい前に廃業したのではないかと思うとのことでした。これらの情報を総合すると、おそらく、破綻後規模を縮小して経営を続けたものの、広大な病棟は廃墟状態になってしまって、90年代後半に最終的に廃業したということではないかと思います。
そうなると、院長である中村一夫氏のカルテが残っていたのも、半世紀も心血を注いで経営してきた自分の病院が時代遅れの「精神病院」になってしまい、経営的にも苦しくなった心労に対して精神安定剤を処方した、ということだったのではないかと思います。本当に精神を病んだのであれば、さすがに裁判所も鑑定を依頼しないでしょうし。
本日の写真は、取り急ぎ現地に行って撮影してきた中村病院跡地の写真です。建物はもうなくなっていて、周囲を塀で囲って中で何か作業していたため土砂の山に登ることはできませんでした。ご覧いただけるように、山には草木がかなり繁茂していて、掘り返したり土砂を追加したりなどはしていないようです。
こんにちは、以前コメントした者です。
たまたま自分が知っていた情報から、こんなにも新しく興味深いアプローチをしてくださったことに、本当に感謝しています。
まさか現地取材まで行かれるとは! 行動力に感服です。
津山事件も中村病院も関心ごとだったのですが、このような繋がりがあったことにたいへん驚いています。
今後も、津山事件を始めとした各種事件の新しい考察やアプローチを楽しみにしています。
非常に興味深い情報をありがとうございました。
実は私は死ぬまでに一度は軍艦島へ行ってみたいと思っている廃墟マニアでもあります(笑)。なので廃墟としての中村病院を知らなかったことには忸怩たる思いもちょっとあります。今回跡地を訪問した際もできれば中を見たかったのですが、完全に埋まってしまっている上に周囲が囲われていて作業員の方もいて、入れそうもないため断念しました。
廃墟マニアと事件マニアは相通じる部分がありそうですよね。
僕は今回のエントリを読んで黒沢清監督の「CURE」を思い出しました。
突然コメントさせていただき、申し訳ございません。
最近、ネットで検索して、偶然このブログを知りました。
外国まで津山事件報告書を読みに行かれたと聞き、管理人様の熱意に感服しております。
つきましては、いくつかお尋ねさせていただきたいのですが。
管理人様は、「都井睦雄の日記」について何かご存知でしょうか?
事件発生時のサンデー毎日(もしかしたら週刊朝日かも知れませんが、ほぼ確実に毎日です)の記事に、都井の日記が若干引用されておりました。
筑波氏、清張も、日記の存在には言及していませんが、サンデー毎日のとばし記事だったのか、それとも両者とも日記に行き当たらなかったのか・・・
日記は、「津山事件報告書」には添付されてはいなかったのでしょうか?
そういえば、西村望氏の「丑三つの村」には目を通されたことはあるのでしょうか?小説だけあって、西村氏の創作が多分に入っておりますが(遺書の文言自体かえられていますし)、あとがきによると一応取材したらしいですね。
すいません『丑三つの村』の原作小説は実は読んでいません。読まなきゃなあ、と思いつつなかなか機会がなくて。今度時間があれば読んでみたいと思います。
サンデー毎日の睦雄の日記について。
「津山事件報告書」には、当時の報道をそのまま引用(というか丸写し)した章があり、そこに当該のサン毎の記事も丸ごと出ていますので、「津山事件報告書に睦雄の日記の記述があるか」というご質問に対しては、一応「ある」というのが回答になります。しかし、その引用したサン毎記事以外には、「報告書」に睦雄の日記に関する記述はありません。他のマスコミ報道に全く登場していないことも考慮すると、おそらくサン毎記者の創作ではないかと思います。
ありがとうございます。
日記も創作の可能性大、ですか・・・。本当にあるのであれば、肉声をのこす貴重な資料と思ったのですが、日記が残っているのでしたら、今までに誰か行き当たっていそうなものですね。
筑波本の小説は、あれは本物でしょうか?一応写真がありましたが、あれも別人が書いたものだと、疑おうと思えば疑えてきてしまいますね(疑いたくないですが)。結局、都井の肉声と確実にいえそうなものは、遺書しかないのでしょうか?
そういえば、「津山事件報告書」には、都井の直筆の遺書は写真などで掲載されていなかったのでしょうか?小説と遺書の筆跡を比較すれば、筆跡鑑定可能かなと思いまして(まあ、筆跡はその気になれば似せることができますが)。
西村氏の本は、小説としては面白いですよ。犬坊こと都井は怨恨と色欲でギトギトしていて、青白き優等生のイメージぶち壊しですが(まあ、本人も優等生というよりは、田舎の好青年という印象の風貌ですがね)。
管理人様は、雑誌での津山事件報道には、どの程度目を通されているのでしょうか?
私は、戦前はサン毎と朝日、戦後は1960年7月(だったと思います)文芸春秋の「完全軍装殺人事件」という記事と、2008年5月の週刊朝日のみです。ちなみに、「完全軍装殺人事件」の著者は、遺族(母親が銃撃された後に死亡した、60年時点で40代の男性)に一応は話を聞けたみたいですが「肺病病みを差別するような村ではなかった」と言われて、あっさり納得しています。まあもっと突っ込んで聞くのは無理だったかもしれませんが、そんなにあっさり納得していいのか?とは思いました。
他には、犯行の概要と遺書の引用の切り貼りに筆者の左翼的な随想がつなぎ合わされた内容で、清張や筑波氏の著書がある現在では、上記インタビューのほかに見るべきものはあまりないですね。
ちょっと海外出張中なので取り急ぎ要点だけ。
「雄図海王丸」も実際には睦雄の作品ではない可能性は高いと私は考えています。
ご存じかと思いますが、「雄図海王丸」は矢野龍渓の『浮城物語』と全く同じストーリーで、登場人物の名前まで同じです。ただし、言葉遣い等は「子供向き」に変更が加えられています。
『浮城物語』はこちらで読むことができます。
国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」内『浮城物語』
筑波本にある「雄図海王丸」の出だしにも矢野龍渓の名前が出てきます。しかし、筑波氏の地の文で「矢野龍渓の作品なのかよくわからない」という内容の解説が付いていたかと思います(この点、出張中で今すぐ正確な表現が確認できません)。『浮城物語』は龍渓の代表作で、戦前には岩波文庫にも収録された作品ですので、ちょっと調べれば「雄図海王丸」がその丸写しであることはわかったはずです。それをちょっとボカすような書き方を筑波氏がしているあたりが、この部分が(も)筑波氏の創作ではないかと私が疑う理由です。
筆跡について。「津山事件報告書」に睦雄の遺書の写真は出ていますが、解像度が低くて筆跡がわかりません。筑波本に掲載されている「雄図海王丸」の原稿と同じかどうか、私には判定できません。
帰国したら再度整理してまとめますので、少々お待ちください。
『雄図海王丸』について新しくエントリを書きました。こちらをご参照ください。
驚きました!まさか、、。廃墟になっていたのですね。 私は1980年代半ばに中村病院で働いていました。恐る恐る写真を見てみると確かに面影がありました。中村一夫先生もお亡くなりになったのですね。本も書かれていたとは。
少しずつ記憶を紐とき、懐かしく、そして寂しさも感じております。