津山事件: 津山事件の被害者の談話

合同新聞昭和13年5月24日付合同新聞昭和13年5月24日付

今日は津山事件の方を。

この事件は通称「津山事件」と呼ばれていますが、実際には津山郊外の西加茂村で起こった、22歳の若者が同じ村の村民30人を銃や日本刀で殺害、3人に重軽傷を負わせた後自殺した事件です。詳しくはこちら

この事件の被害者の一人で、事件の原因ともなった女性(筑波昭の『津山三十人殺し』で「寺井ゆり子」という仮名になっている女性)が逃げ込んだ先の娘さんが事件について語っています。

津山事件に関する本はこちら

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狭山事件: 特別重要品触 その2

毎日新聞昭和38年5月9日付朝刊毎日新聞昭和38年5月9日付朝刊

前回のエントリで採り上げた品触の写真が真っ黒になっていて見えにくかったので、毎日新聞の方からもう少し見やすい写真を。

見て判るとおり、どう見てもダレスバッグ(ダレス鞄)ではありません。(…本当にありがとうございました。)

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狭山事件: 特別重要品触

『冤罪・狭山事件』『冤罪・狭山事件』より、「特別重要品触」

佐木隆三の「ドキュメント狭山事件」などでは、被害者の父親が狭山署員に語ったという 「薄茶色の一見皮製に見えるチャック付きのカバン」という表現に対して、実際に出てきたカバンが皮製であったということをもってカバン自体も捏造・すりかえられたものではないかと疑いをかけています。しかし、5月8日時点で出された品ぶれで「牛革製」と明記されていますので、その疑いはあたらないのではないかと思います。

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狭山事件: 死体発見者2人 その2

週刊朝日 昭和45年12月18日号週刊朝日 昭和45年12月18日号

広○さんが第一発見者として採用されなかった理由は、広○さんが死体と共に「あるもの」を発見したからではないか、とされています。

ここで重要な証言として、ご本人が、(イモ穴の)「中をのぞくと一目瞭然(被害者)ちゃんの所持品と思われる ものが見えた。だからこの近くが怪しいと思って探したんだ」と言っています。事件から7年経っていることもあってか、その「一目瞭然所持品とわかるもの」が何だったかについては「カバンだったか上着だったか…」とあやふやになっていますが、いずれにしても、すぐ近くのイモ穴にのぞいてすぐわかるような状態でそういったものを捨てていたということは、犯人は死体を隠すつもりがなかった(ある意味では早く発見してほしかった)ものと考えられます。

また、これがルポライターの栗崎氏が言うようにカバンだったとすると、どこへ行ってしまったのでしょうか?刑札で保管されていて、後に「三大物証」の一つとして「自白」に基づいて「発見」されたカバン(このカバンについてもいろいろ疑惑が持たれたりしていますが、それはまた別の機会に)になったんでしょうか。

狭山事件: 死体発見者2人 その1

週刊朝日 昭和45年12月18日号週刊朝日 昭和45年12月18日号

死体発見者が2人いた、という話です。この項、「発見者」お二人の名前のイニシャルがたまたま同じなのと、記事中でも完全に伏せてしまうとわけがわからんので、仮に橋×さんと広○さんと させていただきますが、橋×さんが法廷に呼ばれて死体発見の経過を証言したのに対して広○さんは呼ばれもしなかったとのことです。この証言を読むだけでもめちゃくちゃですね。死体が埋められていた深さが30cmくらい(実際には90cm)だったり、「固いために、いや、やわらかいために…」(どっちなんだ)と言ってみたり。(次回に続く)

狭山事件: 自転車を押す人影

埼玉新聞昭和38年6月11日付朝刊埼玉新聞昭和38年6月11日付朝刊

6月にはこんな報道もされていました。

確定判決通りの時間経過であれば犯人が自転車を納屋に持ってきたのは7時30分~40分の間で、当日は土砂降りの雨だったためほぼ真っ暗な状態だったと考えられます。そんな時に門の前から庭にいた人間の顔が見えるはずもなく、「それが石川さんに似ていた」というのは証言としては何の意味もないと思います。しかしこの、「7時過ぎに被害者宅で自転車を押している人を見た」というのは事実なんでしょうか?そういう人間が存在していたとすると、「自転車はどこかに置かれていたものを長兄が車で持って帰ってきたのではないか」という推理は成立しないことになります。自転車のサドルは濡れていなかったとされているので、自転車を押している人がいたということ自体が刑札のでっち上げである可能性が高いのですが、ちょっと気になる証言です。

狭山事件: OGについて その2

埼玉新聞昭和38年5月7日付朝刊埼玉新聞昭和38年5月7日付朝刊

昨日のエントリを読み返して、ついいつもの調子で「OGが……」とか書き始めてしまいましたが、これだとワケワカですね。

OGについての詳細はこちら を参照してください。被害者宅で終戦直後(昭和22~23年頃)に作男をしたことがあったり、死体発見現場近くで新居を建設中だったり、といった状況から事件直後からかなり濃厚な嫌疑をかけられていたにも関わらず、5月6日に自殺してしまった男性です。

この人が6日朝に自殺してしまったことから、「こんな悪質な犯人はなんとしても生きたままフンつかまえてやらねば…」と当時の篠田国家公安委員長の至上命令(本日の画像)が下り、そのために刑札としても被差別部落地域に無理な捜査を行った挙げ句に石川さんを「生きたまま」の「犯人」としてでっち上げることになったということで、今日狭山事件が「冤罪事件」「部落差別事件」として世に知られることになった遠因とも言える人でもあります。

2ちゃんねるなどでの議論においてはこの人はSG巡査部長 と並んで事件への関与を疑われているわけですが、書籍として出版された推理本では意外に重視されていないという不思議な現象もあります。

個人的には、何らかの形でやはり事件に関わっていたのではないかと考えます。なんと言っても自殺(?)のタイミングがタイミングですし。

狭山事件: OGについて その1

サンケイ新聞昭和38年5月7日付夕刊サンケイ新聞昭和38年5月7日付夕刊

この記事で、OGが当日S通運を 退社した時刻は少なくとも午後4時過ぎであったことがわかります。被害者が学校を出た時刻と同様のロジック(「目撃者が対象の人物を目撃して駅に向かったところ○時○○分の電車に乗り遅れたので時間をよく覚えている」という証言)を認めると、OGがS通運を退社した時刻と被害者が学校を出た時刻の間にはおよそ1時間の差があることになります。