Tag Archives: 被害者

狭山事件: 野球の試合とA先生証言

前回のエントリで、伊吹さんがインタビューしたH氏、当時証言したOTくんとも、まだ野球部を引退していなかったのに、当日は試合に出るためではなく見るために東中へ向かったと証言しています。堀兼中野球部の部員数は不明ですが、当時の堀兼中は1学年3クラスのこぢんまりとした中学であり、3年生が2人もベンチ入りもできないほど競争が激しかったとも思えません。つまり、当日堀兼中学野球部は試合がなかった可能性がかなり高いと思います。

そうなると、A先生の証言の信憑性が疑われてきます。
まず、A先生の証言を確認しましょう。ただし、ご存じの通り、A先生は公判の証人としては呼ばれていないため、野間宏さんの『狭山裁判』から、野間さんの取材に対してA先生が話した内容の引用です。

(A先生)はこの日、県の体育大会の野球の試合が三時半にあり、それに間に合うように生徒を引率して、三時前後、この第二ガードの前を通りかかった。そして、ガードの入り口の向かって左側のところに、うつむき加減に立っている(被害者)を見つけた。
普段とは様子がちがう。ふだんの(被害者)さんなら、元気で、むこうから声をかけてくるはずである。「どうしたの」とこちらから声をかけた。するとはにかんで、足で石をつつくような仕草をした。そして何もいわない。言葉はかえってこなかった。いつもなら、はっきりと「……してるんです」というほうであるのに、なんの返事もなかった。その仕草で誰か人を待っていたのかなと、わたしには考えられると、(A先生)はいった。

(中略)

(A先生)はガード下の(被害者)さんをそのままにして、時間におくれないようにと試合場に向かった。雨がぽつぽつ降りだし、シートノックをはじめたら、雨で試合は不可能であると中止に決定、ふたたび生徒を引率して三時半頃、帰りにそこを通ったのだが、すでに(被害者)さんはそこにはいなかった。

このA先生の証言が事実でないとすると、狭山事件の真犯人推理という点からはかなりオオゴトになります。

  • 第二ガードでの被害者の待ち合わせがなかったことになると、目撃証言のつなぎ合わせによる被害者の足取りが全く異なってくる
  • A先生はなぜそのようなウソをついたのか。伊吹本にもあるように、A先生は上記の内容を事件の翌日(5月2日)には同僚の先生に話しており、その時点で記憶違いが発生するとは考えられない。そうなると故意のウソということになるが、なぜそのようなウソをついたのか。さらに、事件から12年たった時点の野間氏のインタビューに対しても同じウソを続けたのはなぜか。
  • 実際のところ、A先生証言はどこまで信頼できるのか。全部がウソなのか、一部だけがウソなのか。

まずは、A先生の証言がどこまで信頼できるのか、から考えてみたいと思います。A先生証言を分解して考察してみます。ただし、この考察は現時点での私の個人的な考えです。

  証言 考察
1. 県の野球試合に出場するために これはほぼ確実にアウト。試合がなかったことは現時点ではほぼ確実といっていいと思います。しかし、「シートノックをはじめたら」など奇妙に具体的な描写もあり、A先生の意図がどこにあるのか、微妙なところです。
2. 野球部の生徒を引率して 少なくともH氏とOTくんの2人は先生と同行していなかったことを証言しています。しかし、彼ら以外の生徒がA先生に同行していた可能性はまだあります。私の脳内妄想的可能性としては、A先生は「とりあえず一度は東中に試合を見に行け。もし先生と一緒に行けるなら一緒に行け」と野球部員に通告していて、下級生は素直に先生に引率されたが、3年生は既に敗退していたこともあってアホらしくて遊んでから個々に遅れて東中に向かったという可能性を考えています。
3. 三時前後に この時間にも疑問が残るところです。決勝戦が終わったのは遅くとも3:40頃と思われ、3時に第二ガードを通っていたのでは試合の後半しか見ることができません。
4. 第二ガードで被害者と出会った A先生証言の中核となる部分です。もしこれが事実でないならば、A先生証言には何の意味もないことになり、全部を無視してかまわないことになります。しかし、しつこいようですが、A先生は事件の翌日に事件のことを聞くと、すぐに同僚であるY先生に被害者に会ったということを話しており、伝えられるA先生の性格からも、たとえば目立つためにこういうウソを言ったということは考えにくいと思います。そもそも、目立つためにこのようなことを言い出したのであればその後マスコミ等に売り込みに行くはずですが、そういった動きも見られません。
5. 雨で試合が中止になり、三時半に 3.と同様に、この時間経過は多少疑問が残ります。記録によると、3:26~3:39まで小雨が降ったようですがすぐやんでおり、その後4:20に本降りになるまでの間はほとんど雨が降っていません。
6. 学校に戻る途中には第二ガードに被害者はいなかった 4.と同様です。

要約すると、試合があったこと、生徒を引率していたことは事実ではなさそうですが、だからといって第二ガードで被害者に会ったことまで否定するのは尚早ではないかというのが現時点での私の考えです。

 

狭山事件: 堀兼中野球部員の証言

身辺多忙のため、放置状態になったり変な英文が上がったりしていて申し訳ないです。

コメントの方で当日の野球試合と被害者の足取りについて、伊吹さんにいろいろと解説をしていただいています。その議論についてまとめる前に、前提となる情報として伊吹さんから当時の堀兼中野球部員にインタビューをした証言をいただいていますので、まずそれを掲載させていただきます。

以下は、事件当時堀兼中3年生で野球部員だったH氏に対して、伊吹さんが2010年12月17日にインタビューした内容です。本件、実は昨年末に伊吹さんからいただいていたのですが、取扱に迷っていたのとちょっと身辺多忙だったため掲載が遅くなりました。お詫び申し上げます。

  • 事件の日、堀兼中野球部は試合の予定はなかったと思う。
  • 自分もその日は東中に出かけたが、何のために行ったのかは全く覚えていない。
  • A先生と一緒に(引用注、東中に)出かけたわけではない。
  • (「第二ガード証言」の話を聞いた後で)A先生がすぐにバレるようなウソをつくとは思えない。A先生が「試合のために東中に行った」と行っているのなら、或いはそうなのかもしれない。
  • (「A先生証言によれば当日の堀兼中の試合開始予定は3時半だった」という説明を聞いた後で)3時半から試合開始というのは遅すぎると思う。
  • OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった。
  • 当日のことは時間、天候等について何も覚えていない。
  • インターネットで、自分と他の野球部員2名が堀兼中校長宅で警察に事情聴取されたことになっている話を見たが、それを見ると「そういうこともあったかな」という感じ。警察に何かを聞かれたという記憶はある。自分を含めた3名だけが呼ばれた理由はわからなかった。
  • 警察には、「東中に行く途中」ではなく「帰り道で被害者に会わなかったか」と聞かれたと思う。
  • 警察に話を聞かれた他の2人のうち、1人はもう亡くなっている。1人は川越に転居している。
  • 被害者のことはもちろん事件前から知っていた。たかだか100人程度、3クラスの学校で小中ずっと一緒に過ごすのだから、ほとんどの人のことは自然に覚えてしまう。被害者は学校でも目立つ存在だった。
  • 当時、駅方面に出かけたこともほとんどなかった。事件の日にどの道を通って東中に行ったのかも記憶していない。
  • 事件後も学級内や野球部内で事件のことが話題になったことはなかった。
  • ただ、校庭がヘリコプターの発着場になったのでみな騒いでいた。友人とそれを見に行った思い出はある。

この中では、「OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった」という証言が最も重要でしょう。事件当日の細かいことは忘却の彼方であっても、こういう大きなくくりでの日程感は年数が経っても間違えようがないと思います。まだ引退していなかったH氏が事件当日に試合をした記憶がないこと、同じく現役野球部員だったOTくんも、試合をするためにではなく試合を見るために遅れて東中に行っていることから、当日堀兼中は試合がなかったことはほぼ確実と言ってよいと思われます。そうなると、A先生の証言の、少なくとも一部については信憑性に疑問符が付くことになります。

 

狭山事件: 「腹違い」と「種違い」

zoku-muzainoshinjijitsu
『狭山事件 続無罪の新事実』

亀な紹介ですいません。以前にとりあげた「被害者は腹違いではなかったか」という質問が裁判で出てきたことに関して、「狭山事件を推理する」サイトにて「おそらくは根拠のない噂レベル」という話が出ています。

『続無罪の新事実』の記述を確認しましたが、確かに亀井氏自身が「僕のある記事にヒントを得て」と明記しています。そもそも亀井本は事実関係にかなり疑義があることはこれまでも本ブログで見てきたとおりです。さらにこの部分は、「狭山事件を推理する」サイト管理人氏も指摘しているとおり、いわゆる「荻原文書」の受け売りであると思われます。したがって、信憑性はほぼゼロといっても差し支えないでしょう。

そういうわけで、今後何か新事実が出てこない限り、この「被害者は腹違い(種違い)」という話は、狭山事件真犯人推理の上ではガセネタとして扱うべきであると思います。

 

狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その3

前回のエントリに伊吹さんからいただいたコメントを読んで、一つ重要なことを書き忘れたことに気がつきました。

4月29日の日記でもう一つ、「今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに」も気にかかっています。

  • 当時の狭山工業高校は男子校だったようで、女子高生である被害者が何のために誰を訪れる予定だったのか
  • この呼び出し/待ち合わせはどうやって伝えられたのか
  • そもそもこの伏せ字になっている「××××」は何(あるいは誰)なのか
  • 刑札はこの「予定」について裏付け捜査をしたのか。したのであれば記録は残っていないのか

などなど、疑問は尽きないところで、情報が少なすぎて推理すらできません。

当初「狭山工業高校の××××」に行く予定だったのが学校行事で行けなくなったとすると、被害者の方から「ごめんなさい、行けなくなりました」という連絡をしたと思われ、その際に「じゃあ、5月1日に待ち合わせて…」という話になった可能性もあります。しかし、そうなると(しつこいようですが)なぜ5月1日の待ち合わせを日記に書いていないのかという疑問が残ります。

伊吹さんのご指摘のように事件前日の4月30日分が公開されていないことを含めて、前後の日記に何かしら事件と関係ある記述があったのではないかという気がします。一刻も早い全面的な開示を望みます。

狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その2

前回の続きです。

第一ガード・第二ガードにおいて目撃された際の状況から考えて、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことはほぼ確実と思います。しかし、当時の女子高生が全然関係ない人に呼び出されてそれに応ずることはまずないとも思います。また、前回も書きましたが(新伊吹本でも指摘されていますが)、当時はケータイも出会い系もありません。知人に事前に呼び出されていたとすると、考えられる可能性は下記の通りになります。

  1. 家族: 前回書いた長兄説など。(以下3月16日追記)コメントで伊吹氏からご指摘をいただいているように、この可能性は低いと私(管理人)も考えます。あくまで可能性ということで列記しています
  2. 学校: 川越高校入間川分校別科のクラスメイト16人(1クラスのみ)は全員女子であり、しかも4月に入学したばかりでまだ数週間しかたっていない状況でした。その中で誰かが被害者とそのような待ち合わせの話をしていれば、何かの形で他の生徒にも伝わると思われるため、この可能性は低いと思います
  3. 登下校(通学路): 新伊吹本にあるように、被害者は朝、近所の高校生(中学時代の同級生)と一緒に登校することがあったとのことです。そのメンバーの誰かであれば、待ち合わせを伝えることは可能という伊吹氏の指摘に同意します
  4. 出身中学関係: 被害者は出身中学に時々遊びに行くことがあったようです。その際に昔の同級生と会って伝言されることが考えられます
  5. 学校行事関係: 日記を見ると、事件の直前の4月29日(月曜日、天皇誕生日(当時))にも被害者は学校行事に参加して群馬へ行っています。その際に待ち合わせについて話をした可能性はあると思います

上の5.について、4月29日の日記には以下のような内容があります。

4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。

(大きく間が空いて)

今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。

川越から伊勢崎まで約60km、関越自動車道(1971年開通)がない当時の道路事情では、バスで片道2時間程度でしょうか。そのバスの中で、他校に行った中学時代の同級生と会って「誕生日にお祝いをしよう」と誘われて呼び出された可能性があるのではないか、と個人的に思っています。

その一番の理由は、5月1日の日記に待ち合わせが書かれていないからです。以前にも書いたように、被害者は日記の左の方にあらかじめその日の予定を書き込んでおいて、当日が終わってから本来の意味での日記を右の方から書いていたと私は考えています。つまり、予定を書き込む時点で待ち合わせの話があったのであれば日記に書かれているはずで、ある程度直前になって予定を伝えられたのではないかと思います。もちろん、当日(5月1日)あるいは前日(4月30日)の登下校の際に伝言されたということもありうるでしょうが、事件の2日前の4月29日に、同年代の高校生と同じバスで往復4時間も揺られていたというのはタイミングが良すぎるような気がします。
家族に見られることをおそれて待ち合わせを書かなかったという推理もできるかもしれません。しかし、被害者はMHくんに対する熱烈な恋心も日記に包み隠さずに書いていますので、待ち合わせだけ書かないということはないと思います。

交歓会に参加した埼玉県側の200人の生徒のうち、「メッセンジャー」役が務まる人物-被害者の中学時代の同級生で、犯人グループともつながりがある生徒-はいなかったのでしょうか。

狭山事件: 被害者の日記 その5

「女性自身」昭和38年5月20日号「女性自身」昭和38年5月20日号

「女性自身」に掲載された被害者の日記シリーズ、最後のページです。

本日の引用部分で真っ先に目に付くのは、4月26日の部分です。

4月26日(金)晴
(前略)これからのバカンスのことを考える。
今晩も涙を流し、眠りに入った。
つらい。苦しい。それもみんなおこづかいのことだ。涙が枕元を流れた……
(原注)(ゴールデンウイークのこづかいが少ないことで(被害者)さんはなやんでいた。姉の(次姉)さんは、あとでこの日記を見て、「生きているうちに、もっと好きなことをさせてあげたかった」と泣いていた)

これはどういう意味なのでしょうか。

Read more… →

狭山事件: Y枝地蔵

Y枝地蔵Y枝地蔵

被害者宅の前から撤去されたあと行方がわからなくなっていたY枝地蔵について、「現在別のところに移転されている」という情報をコメントでいただき、独自に調査したところ実際にありました。情報ご提供者の意志を尊重し、詳しい場所は差し控えますが、写真のみ証拠としてアップさせていただきます。

台座の部分に「枝地蔵」と書かれているのがご覧いただけると思います。

なお、この地蔵が現在安置されているお寺は被害者家(N家)の菩提寺で、宗派は真言宗智山派とのことです。狭山市内で両墓制を行っていた寺と同じ宗派ということになりますので、一度はほぼ否定された「被害者宅が両墓制だった」という説について、再度確認・調査が必要になってくるかと思います。

狭山事件: 被害者の日記 その3

「女性自身」昭和38年5月20日号「女性自身」昭和38年5月20日号

被害者の日記の話の続きです。

日記は事件の年の1月1日から書き始めたとのことで、それ以前のものは存在していないようです。この点について、上の記事中の写真で次姉が胸に抱いている日記帳に「記念」という文字が見えますので、何かの記念(中学の卒業記念等)で日記帳をもらったことをきっかけに書き始めたのではないかという推測も可能です。ただし、この写真で見えている日記の表紙は、別のところで日記の表紙として公開されているものと明らかに異なりますので、単純に写真撮影の時に適当な本を次姉に持ってもらって撮影したということも考えられます。

日記の内容としては、まず、中三~高一としては文章がしっかりしているという印象を受けます。「今日は○○のスィーッを食べに行ったょ。チョ→ぉぃしかった♥」みたいな文章はさすがに時代的にも書かないでしょうが、それにしても背伸びした中にもういういしさの残る、好感が持てる文章です。

「姉さんが、アルバムからはがしてくれた」という被害者の写真が右上にあります。これは学生証の写真と同じものだと思います。この時期(5月20日号=5月13日頃発行なので、取材時はおそらく5月10日前後)にはまだ学生証は刑札の管理下にあった可能性が高いので、学生証の写真そのものではなく、学生証の写真を撮りに行ったときに焼き増ししたものを、次姉がアルバムからはがして記者に提供したのではないかと思います。ただし、事件翌日には被害者の自転車が被害者宅に戻っていたことも明らかなので、確定ではありません。
また、これももうちょっと調べないと確定的には言えませんが、この写真はこの記事が初出かもしれません。事件直後に出回っていたのはもう少し幼い感じの写真(こちらの記事の上2つ)でした。

(2009年3月30日追記): この日記が掲載されていた「女性自身」を、当初「昭和38年6月10日号」と記載していましたが、「昭和38年5月20日号」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。また、それに伴っていくつか本エントリの内容を書き直しました。