「伊吹本」にて個人的にかなり衝撃的だったのが被害者の日記です。一応、狭山事件の公判調書類には一通り目を通していたつもりだったのですが、上告趣意書に詳しく被害者の日記の内容が書かれているというのは見落としていました。自らの不明を恥じると共に、きっちりと資料を読み込んでおられる伊吹氏の姿勢には頭が下がります。
本日の画像は、そこからたどっていって確認した、「女性自身」昭和38年5月20日号に掲載された被害者の日記です。
「伊吹本」にて個人的にかなり衝撃的だったのが被害者の日記です。一応、狭山事件の公判調書類には一通り目を通していたつもりだったのですが、上告趣意書に詳しく被害者の日記の内容が書かれているというのは見落としていました。自らの不明を恥じると共に、きっちりと資料を読み込んでおられる伊吹氏の姿勢には頭が下がります。
本日の画像は、そこからたどっていって確認した、「女性自身」昭和38年5月20日号に掲載された被害者の日記です。
被害者とOGの当日の行動を時系列的にまとめてみました。事項の取捨選択は私(管理人)の主観によります。時刻については証言者本人が一番最初に言った時間を採用しています。時刻に関しては後で刑札が「つじつまが合わない」として変更させていることも多く、関係書籍ではその変更後の時刻が採用されていることも多いのですが、最初に言い出した時刻には証言者本人なりの根拠があると思われること、「原証言」としての価値があると思われることからその取り扱いとしています。もし異論があればコメントでご指摘ください。
第一ガード、第二ガード、S自転車店等の位置関係については、事件関係地図も参照してください。大きい地図の方でいうと、ほとんどの関係地点が一番左側の方(西武線の線路沿い)に集まっています。
「狭山事件を推理する」サイトの方で、著者インタビューの第二弾が掲載されています。
前回(インタビュー其の一)と併せて、インタビューの中で明かされている内容と本サイトでこれまで検討してきた内容についていくつかコメントさせていただきます。
ようやくPCが戻ってきました。まる1ヶ月以上更新が滞ってしまいましたが、今後できるだけ更新していきたいと思っています。
さて、先日殿丘駿星さんのメルマガ「コラム・ゆりかもめ」において、狭山事件被害者の後頭部に残された傷について指摘がありました。とりあえず当該の写真をうpしておきます。上の写真はふつうにスキャンしたもの、下の写真は、頭の上に置いてある目盛りが見えるようにコントラストを上げたものです。この目盛りについて、1目盛りの大きさは明記されていませんが、頭の大きさ(16歳女子なので頭の幅は15~20cm程度でしょう)から考えると一目盛りは1cm、従って傷の大きさは1.5cmというところと思われます。後頭部に1.5cmというのはかなり大きな傷であり、殿岡さんが指摘しているように生前に受けた傷であればここから相当量の血液が出たと思われます。しかし、裁判における弁護側の再三の証拠開示請求にもかかわらず裁判所と検察は「殺害現場」の血液反応検査結果を開示していません。日本で初めてルミノール液による血痕反応の検査が行われたのは昭和24年の下山事件の捜査でしたので(ある意味(笑))、昭和39年の狭山事件当時には当然のように「現場」(「殺害現場」だけでなく、一時的に死体を隠していたという「芋穴」や、その途中の運搬経路とされる農道を含めて)のルミノール検査は行われたはずです。このようなかなり基礎的な事項についても裁判所と検察が証拠開示を行わないという事実が、狭山事件が「暗黒裁判」と言われる一つの大きな要因になっています。
2008年12月23日追記: 後頭部の傷は、公判調書で公表された鑑定書(五十嵐勝爾埼玉県警技師医師作成)によると長さ1.3cm、幅0.4cmとのことです。こちらもご参照ください。
すいませんまた間が空きました。
「洋裁生殺し」の概要ならびに狭山事件との関連性については、以下の記事も参照してください。
今回の画像は、事件が起こった地元の北海道新聞で、犯人が妻と心中した直後に出た記事です。
最近、「不思議ナックルズ VOL.15」に「津山三十人殺し 七十年目の真実」という記事が、「漫画実話ナックルズ」増刊Vol.8 THE WORSTに「津山30人殺し 隠された血の宿命」と題する記事が相次いで掲載されました。