前回のエントリで、伊吹さんがインタビューしたH氏、当時証言したOTくんとも、まだ野球部を引退していなかったのに、当日は試合に出るためではなく見るために東中へ向かったと証言しています。堀兼中野球部の部員数は不明ですが、当時の堀兼中は1学年3クラスのこぢんまりとした中学であり、3年生が2人もベンチ入りもできないほど競争が激しかったとも思えません。つまり、当日堀兼中学野球部は試合がなかった可能性がかなり高いと思います。
そうなると、A先生の証言の信憑性が疑われてきます。
まず、A先生の証言を確認しましょう。ただし、ご存じの通り、A先生は公判の証人としては呼ばれていないため、野間宏さんの『狭山裁判』から、野間さんの取材に対してA先生が話した内容の引用です。
(A先生)はこの日、県の体育大会の野球の試合が三時半にあり、それに間に合うように生徒を引率して、三時前後、この第二ガードの前を通りかかった。そして、ガードの入り口の向かって左側のところに、うつむき加減に立っている(被害者)を見つけた。
普段とは様子がちがう。ふだんの(被害者)さんなら、元気で、むこうから声をかけてくるはずである。「どうしたの」とこちらから声をかけた。するとはにかんで、足で石をつつくような仕草をした。そして何もいわない。言葉はかえってこなかった。いつもなら、はっきりと「……してるんです」というほうであるのに、なんの返事もなかった。その仕草で誰か人を待っていたのかなと、わたしには考えられると、(A先生)はいった。(中略)
(A先生)はガード下の(被害者)さんをそのままにして、時間におくれないようにと試合場に向かった。雨がぽつぽつ降りだし、シートノックをはじめたら、雨で試合は不可能であると中止に決定、ふたたび生徒を引率して三時半頃、帰りにそこを通ったのだが、すでに(被害者)さんはそこにはいなかった。
このA先生の証言が事実でないとすると、狭山事件の真犯人推理という点からはかなりオオゴトになります。
- 第二ガードでの被害者の待ち合わせがなかったことになると、目撃証言のつなぎ合わせによる被害者の足取りが全く異なってくる
- A先生はなぜそのようなウソをついたのか。伊吹本にもあるように、A先生は上記の内容を事件の翌日(5月2日)には同僚の先生に話しており、その時点で記憶違いが発生するとは考えられない。そうなると故意のウソということになるが、なぜそのようなウソをついたのか。さらに、事件から12年たった時点の野間氏のインタビューに対しても同じウソを続けたのはなぜか。
- 実際のところ、A先生証言はどこまで信頼できるのか。全部がウソなのか、一部だけがウソなのか。
まずは、A先生の証言がどこまで信頼できるのか、から考えてみたいと思います。A先生証言を分解して考察してみます。ただし、この考察は現時点での私の個人的な考えです。
証言 | 考察 | |
---|---|---|
1. | 県の野球試合に出場するために | これはほぼ確実にアウト。試合がなかったことは現時点ではほぼ確実といっていいと思います。しかし、「シートノックをはじめたら」など奇妙に具体的な描写もあり、A先生の意図がどこにあるのか、微妙なところです。 |
2. | 野球部の生徒を引率して | 少なくともH氏とOTくんの2人は先生と同行していなかったことを証言しています。しかし、彼ら以外の生徒がA先生に同行していた可能性はまだあります。私の脳内妄想的可能性としては、A先生は「とりあえず一度は東中に試合を見に行け。もし先生と一緒に行けるなら一緒に行け」と野球部員に通告していて、下級生は素直に先生に引率されたが、3年生は既に敗退していたこともあってアホらしくて遊んでから個々に遅れて東中に向かったという可能性を考えています。 |
3. | 三時前後に | この時間にも疑問が残るところです。決勝戦が終わったのは遅くとも3:40頃と思われ、3時に第二ガードを通っていたのでは試合の後半しか見ることができません。 |
4. | 第二ガードで被害者と出会った | A先生証言の中核となる部分です。もしこれが事実でないならば、A先生証言には何の意味もないことになり、全部を無視してかまわないことになります。しかし、しつこいようですが、A先生は事件の翌日に事件のことを聞くと、すぐに同僚であるY先生に被害者に会ったということを話しており、伝えられるA先生の性格からも、たとえば目立つためにこういうウソを言ったということは考えにくいと思います。そもそも、目立つためにこのようなことを言い出したのであればその後マスコミ等に売り込みに行くはずですが、そういった動きも見られません。 |
5. | 雨で試合が中止になり、三時半に | 3.と同様に、この時間経過は多少疑問が残ります。記録によると、3:26~3:39まで小雨が降ったようですがすぐやんでおり、その後4:20に本降りになるまでの間はほとんど雨が降っていません。 |
6. | 学校に戻る途中には第二ガードに被害者はいなかった | 4.と同様です。 |
要約すると、試合があったこと、生徒を引率していたことは事実ではなさそうですが、だからといって第二ガードで被害者に会ったことまで否定するのは尚早ではないかというのが現時点での私の考えです。
一部「被害者の足取りと野球の試合」に記したコメントと重複しますが、「事件当日の野球試合」「被害者の足取り」「A先生証言」に関して、これまで判明している事実および証言のうち確実と考えられるもの、ほぼ事実とみて良いものを時系列で組み直してみました。
(☆=確定事項 ○=ほぼ確実と思われる事項)
☆当日は「学徒総合体育大会」が行われ、堀兼中もこれに参加していた。
☆授業は午前中のみで、昼食のあと、各運動部がそれぞれ試合会場となる学校へ出かけていた。
☆運動部に所属していない生徒は自由に応援に行ってよいことになっていた。
○当日は給食があった。
☆A先生は午後(1時頃?)、東中に出掛けている(東中では生徒たちと一緒にいた)。
☆少なくてもOT君含む4名の野球部員が、遅れて東中に向かっている。
○堀兼中はトーナメント1回戦で敗退しており、当日試合予定はなかった。
☆被害者の通う学校の終業時刻は2時35分(「被害者は授業終了後、すぐに帰った」との複数証言あり)
※参考=A先生証言「堀兼中は3時半から試合予定があり、部員たちを引率して会場(東中)に向かったが、その途中第2ガードで3時前後に被害者と出会った。試合は雨のため3時15分頃に中止が決定、部員たちを連れてまた同じ道を引き返したが、3時半頃再び第2ガードを通りかかった時には被害者の姿はなかった」
☆野球部員の1人、OT君は東中に向かう途中、被害者とすれ違っている(時間は2時50分~3時の間とみられる=※被害者の下校後の足取りから考えれば「2時50分過ぎ」か「3時50分過ぎ」しかありえないが、「3時50分過ぎ」では雨との関連で決勝戦が成立しなくなってしまう)。
☆OT君が東中に着いた時は決勝戦が3回を回ったところだった。
☆被害者の最終下校時間は3時23分。
○被害者はその後、郵便局→毛糸店?→東中(3時40分頃まで野球観戦)をへて第1ガードに向かっている。
☆被害者は第一ガードで待ち合わせをしているような姿を主婦Nさんに目撃されている(時間は3時45分過ぎ?)。
○野球試合はすべて7回制。第1試合は「入間中対奥富分教場(3位決定戦)」で、行われていたのは1時過ぎ~2時半前。第2試合=決勝戦は「東中対西中」で、行われていたのは2時半前~3時40分。
☆決勝戦は7回終了まで行われ、西中が優勝。
☆A先生メモには「決勝戦 東中 4時」との記述あり(※試合ではなく、4時から「閉会式」「表彰式」などが行われていた可能性が高い。A先生もおそらくこれに参加)。
☆その日の天候は「曇り時々小雨」。4時20分からは本降りになっている。
☆A先生は堀兼中に戻り、生徒たちの下校を確かめて午後5時過ぎに帰宅している。
☆当日東中に観戦に行った生徒は「自由解散」。決勝戦終了後、生徒達はバラバラに帰宅している。なお、加佐志街道を使って帰宅した生徒3名はその後警察に呼ばれ、「帰り道で被害者に出会わなかったか」と聞かれている。
☆PTA会長は翌朝8時半に堀兼中校長室で、校長およびA先生・Y先生・M先生(この3名は被害者の3年・2年・1年時の担任)に対し事件の概要を説明している。
☆PTA会長はA先生に捜査協力を依頼。
☆A先生は事件翌日、同僚教師に「第2ガードでの出会い」について語っている。
☆A先生は「第2ガードでの出会い」について、事件翌日PTA会長には何も話さず、また同日一緒に狭山警察署へ出頭した際も何も話していない。
☆A先生の5月2日メモには「善枝の死を確信」との記述あり。
☆PTA会長はA先生とともに佐野屋の張り込みに参加。
☆A先生は翌5月3日になってから、PTA会長および読売新聞記者・週刊文春記者にも「第2ガードでの出会い」について語っている。
[伊吹の見解]
問題の「A先生証言」(「野球部員を連れて東中に行く途中で、Y枝さんと『第2ガード』で出会った」というもの)ですが、その内容が具体的かつリアルであることからみても、やはり出会ったこと自体は本当の話だったのだと思います。なお、もし事実とすれば、時刻についてはOT君とY枝さんが出会う直前以外ありえず(「3時50分以降」では決勝戦=大会が終了してしまっているため)、それは自ずと「2時45~50分頃」に限定されることになります。
ただし、やはり証言の一部には嘘が含まれている(「野球部員と一緒だった・・」などの部分)と考えるほかありません。実際どうであったかは不明ですが、一つこんな仮説も立てられるかと思います。
「A先生は1時頃に数名の部員を連れて東中に行き、第1試合を途中まで観戦して、一旦単独で中学に帰校(理由は分かりませんが)。その後再び決勝戦観戦・閉会式参加のため、1人で東中に向かう途中、『第二ガード』で被害者に出会った」
そして、その際にY枝さんの口から「これからM君(PTA会長の息子=野球部OB=Y枝さん片思いの相手)たちと会うことになってるんです」などの言葉が出たため、翌日PTA会長には何も話さず(=翌々日になって話したが、その際もM君の件は伏せた)、さらには野球部員たちに疑いの目が向かないよう、アリバイ証明をするような嘘(=「部員たちは全員自分と一緒にいた」)までついてしまった・・・といったことも考えられるのではないかと思います。
なお、中学時代の被害者は野球部男子たちと仲が良く、その一部とは卒業後も付き合いを続けていたようです。私は最近、そうした事実が何らかの形で事件に関係していたのではないか、とも考え始めています。
確定事項について若干追記します。
☆「第2ガード」証言は1972年8月31日発行「狭山事件 第1集」(亀井トム・著)にも掲載されており、A先生が荻原佑介氏に対し、事件直後~8、9年後の間に証言しているのは確実である。
※参考・・・同著には「(A先生は)野球部の生徒二十名をつれ・・・(中略)同行の生徒の多くもY枝に気づいている」とある。
☆A先生は1975年3月17日の野間宏氏のインタビューに対しても同様の証言を行っている。
☆A先生は同年の某市民団体の聞き取り調査に対しても同様の証言をしている。
☆某市民団体は当時の野球部員たちに対しても聞き取り調査を行ったが、「事件の日に被害者を目撃した」という者を見つけ出すことは出来なかった。
☆某市民団体は「OT少年の証言は、時間的な間違いなどはあるものの基本的に正しい」「A先生証言は信用できない」と結論づけている。
☆A先生は弁護団聞き取り調査に対してもやはり同様の証言を行っている(1977年発行の「上告趣意書」に記載あり)。
なお、甲斐仁志氏は野球部員の中に被害者を目撃した者がいないことや雨の状況などから、「A先生と被害者の第2ガードでの出会いは、6日前(4月25日)のことで、A先生はそれを間違えて証言した」と結論づけています。
しかし、下記3点からみて、これは成り立たないように思います。
・A先生は事件翌日・翌々日には周囲の人々にその話をしており、事件の日と1週間前の出来事を混同したとは考えにくい。
・4月25日には堀兼中は西中と対戦しており、東中が試合会場だったとは考えられない。
・堀兼中はその試合で西中に敗れており、「シートノックをしていたが、雨のため試合中止になった」という証言と一致しない。
そもそも「1週間前の記憶と混同―」というのでは、「野球部員の中に目撃者がいない」ことの説明にも全くなっていません。
やはり、A先生証言は「完全な嘘」か「一部嘘」で、「一部嘘」であったとしてもそれは5月1日のことであった、と考えるほかないのではないでしょうか?
4月25日の試合についてですが、肝心要の、取材を基にしている伊吹様の見解自体が、27日ともコメントをされていて、二日に渡っており、はてさて一体どちらなのかとその後のコメントを待っておりました。
因みにこの日、大宮をメインにしている高校野球の春季大会に於いては、3試合中2試合が、雨の為延期になったのは確認致しました。
一方Yさんの日記では、小雨と記されておりますので、狭山市内の野球の試合が、延期になったのかどうかまでは分かりませんでした。
そこで大変遅くなりましたが、H中の試合が、25日だったのか27日だったのか、特に伊吹様の見解をお伺いできたらと思い、質問させて頂きます。宜しくお願い致します。
結論から先に言ってしまうと、堀兼中の試合(市内トーナメント)出場日がいつだったのかは、今もよく分かっていません。「25日説」「26日説」「27日説」があり、甲斐仁志氏は著書の中で「25日説」を採用していましたが、最近になって「その日試合はなく、観に行っただけかもしれない」とも述べておられます。また、この時の堀兼中の対戦校も未だ不明のままです。1975年に某団体が、当時の堀兼中・西中日誌と関係者の証言を元にトーナメント表を復元しているのですが、これも明らかな誤りや矛盾が多く、やや信憑性には欠けるものです。私は今のところ「27日・西中対堀兼中」だったとみていますが、「26日・(同試合)」だったことも十分有り得ると思っています。
Aさんが読売と文春の記者にYさんの目撃を話したというのは、野間宏の狭山裁判だと思いますが、そこでは記事の引用はしてないんですよ。Aさんが読売の記者にたしかに話してるなら、それはスクープなので確実に載ったはずです。野間も1963年5月の、読売の朝夕刊を、ぜんぶ見たはずです。ところが記事としてあげてない。OTさんの目撃は別の新聞に載ったので、それをあげているのにです。野間はAさんの証言の裏をとるために、新聞をひっぺ返したが、結局記事を発見することができなかったんじゃないでしょうか。
なぜ野間は記事として紹介してないのか。それは記事を探したけど見つからなかったからだとしか、思えない。
もし読売や文春にたしかに載ったのだとするなら、それは5月の何日のものなんでしょう。そもそもAさんの証言は記事として、新聞や雑誌に、たしかに載ったんでしょうか。記事として現存してるんでしょうか。それを引用してる人もいないように思えます。私も図書館をいくつか回りましたが、昭和40年より前の縮刷版は、置いてないことが多いし、読売はないことが多いのです。
>もし読売や文春にたしかに載ったのだとするなら、それは5月の何日のものなんでしょう。そも>そもAさんの証言は記事として、新聞や雑誌に、たしかに載ったんでしょうか。記事として現存>してるんでしょうか。
私も当時の新聞・雑誌にはひと通り目を通していますが、A先生証言が掲載されているものはありませんでした。初出は間違いなく、「狭山事件 第1集」(亀井トム・著)です。
>Aさんが読売の記者にたしかに話してるなら、それはスクープなので確実に載ったはずです。
ところがそうとも言えないんですね。そのあたりが狭山事件の不思議というか、気味の悪いところでもあるのですが・・・。例えば、死体第一発見者などは確実に取材を受けているはずなのに、「カバン発見」のスクープは全く報道されませんでした。また、佐野屋張り込みの際に、犯人の声を最も間近で聞いているのは実は長兄氏とA先生で、そのことは当時の雑誌にも掲載されているのに、コメントは何一つ表に出ていません。警察によって報道に何らかの圧力がかけられていた可能性もありますが、今となってはその理由も全く不明です。
>私も図書館をいくつか回りましたが、昭和40年より前の縮刷版は、置いてないことが多いし、読>売はないことが多いのです。
クメラさんがどちらにお住まいなのかは存じませんが、国会図書館の新聞閲覧室に行けば当時の各紙縮刷版は簡単に見られますよ。
久しぶりに書き込みさせていただきます。
>伊吹様
すいません。貴殿の書き込みの中で気になる箇所があります。
>~~犯人の声を最も間近で聞いているのは実は長兄氏とA先生で、~~
この長兄氏とは、Y枝さんの兄である「N田K治」氏でしょうか?
これまで、佐野屋の張り込みに立ち会ったのは、A沢教諭とPTA会長のみと記憶していました。
K治氏が足りこみに立ち会ったというのは、「ウラ」の取れた確かな情報なのでしょうか?
ご教示願います
私は今日、読売の縮刷版の置いてある図書館に行き、1963年の5月6月分を見ましたが、Aさんの証言は、載ってませんでした。載っていたのは、5月6日夕刊にOTさん。5月27日夕刊にNIさんのふたりの目撃だけです。
Yさんの遺体が4日の朝に発見されてるわけですから、それ以降は新聞も雑誌も報道制限はなくなってたはずです。みんな独自の取材を進めてたわけで200人くらい狭山に入ってたというでしょう。しばらくは自由報道の洪水の時期だったんじゃないないでしょうか。
Aさんが読売と文春の記者にはなしたのが3日だとすると、記者がつかんだ一番早い目撃証言ということになります。これはスクープですから、4日の夕刊から5日には報道されてるはずです。OTさんのはまだ出てないし、最初の目撃報道になります。警察が報道に制約を加えねばならない理由は何ひとつないと思われます。それなのに報道されてない。
6日夕刊でOTさんの目撃を報道し、その何日かあとにそれが錯覚の可能性があるとも報道しています。つまり、目撃の真偽は別にして報道はしてるんですよ。握りつぶして国民に何も知らせないという姿勢ではありませんし、そもそもOTさんのほうは伝え、Aさんのほうは伝えないという理由が読売にあるとは思えません。文春になると雑誌ですからゲリラ的で、なおさら警察が圧力なんてかけられないと思います。
ですから、読売と文春という二大マスコミは、Aさんの目撃をつかんでいながら、あえて報道しなかったのではなく、そんなことは知らなかったから報道しなかった、報道できなかったのではないでしょうか。
つまり読売と文春の記者はAさんに取材はした。Aさんもそれにこたえた。しかし、ふたりの記者はYさんの目撃のはなしをAさんから聞かなかった。それが読売や文春に、Aさんの目撃が記事化されることのなかった真の理由なのではないのでしょうか。
糊というのはまちがいです。
横やりで申し訳ありません。A先生の証言に関し、「狭山裁判 上」(野間宏)の引用ですが、第二審の公判調書によれば、橋本紀徳弁護士が、諏訪部証人に対し、「A先生という名前の先生、覚えていませんか。」という前振りのあと、「これも新聞その他の報道でわれわれは少し知っている程度ですがね、ガードの付近で被害者を見たと、あるいは被害者らしき人物を見たということをいっておるようなんですが。」との質問をしているようです。この「新聞その他の報道」がいつの時期かわかりませんが、少なくとも、この証人尋問の時期までの時点では、A先生の証言に関し、「新聞その他の報道」があった、ということでしょうか。また、疑問としては、この証人尋問の時点で、被告弁護人の橋本弁護士は、A先生の証言の存在を「新聞その他の報道」で認識していたのであれば、なぜ、弁護士自身がA先生に会って直接話を聞こうとしなかったのか、という点です。この点については、橋本弁護士は、今なお現役の弁護士として法律事務所に所属されているようですので、橋本弁護士に直接お聞きできるのであればお聞きしたいですね。
S.Tさんへ
>K治氏が足りこみに立ち会ったというのは、「ウラ」の取れた確かな情報なのでしょうか?
A先生と同じく、「犯人が現れた場所から道を隔てて反対側の畑の中にいた」と掲載されていた記事が確かにあったのですが、掲載誌名を忘れてしまいました(←すみません。雑誌だったと思いますが・・・。また改めて探してみます)。なお、A先生が犯人と道路を隔てて対峙していたことは、複数の雑誌に掲載されているほか、本人も直接証言しているので確実です。また、K治氏は1日の張り込みにも参加していて、佐野屋の北西50mのところにいたことが公判調書に記録されています。2日の張り込み参加についての「ウラ」は取れていませんが、1日の張り込みに参加している以上、2日も参加していたと考える方が自然だと思います。
糊さんへ
>読売と文春という二大マスコミは、Aさんの目撃をつかんでいながら、あえて報道しなかったのではなく、そんなことは知らなかったから報道しなかった、報道できなかったのではないでしょうか
その可能性も十分にあると思いますが、今となっては確かめようがありません。はっきりしているのは、本人が「3日になってから読売と文春、増田に話した」と語っている、ということだけです。
ただ不思議なのは、佐野屋の張り込みの際も、A先生が最も犯人に近い位置にいてその声を聞いているはずなのに、警察は調書も取らず、マスコミも一切そのことについては触れていないんですよね。全体を通してみても、事件発生直後から「A先生の証言はすべて黙殺する」という了解がマスコミ・警察間で出来ていたように思えてなりません。それがなぜなのかは全く分からないのですが。
禅公案さんへ
>この証人尋問の時期までの時点では、A先生の証言に関し、「新聞その他の報道」があった、ということでしょうか
「新聞その他の報道」は間違いだと思います。繰り返しになりますが、全紙をチェックしてもそれに類する記事は1つも見当たりませんでした。
>この証人尋問の時点で、被告弁護人の橋本弁護士は、A先生の証言の存在を「新聞その他の報道」で認識していたのであれば、なぜ、弁護士自身がA先生に会って直接話を聞こうとしなかったのか、という点です
石川氏の支援団体(当時は直接弁護団とも繋がっていたようです)が聞き取り調査を行っていたので、そのテープを聴くだけで済ませてしまっていた可能性もあるかと思います。
伊吹さん
ご教示頂きまして、ありがとうございました。重ねての質問となりまして、申し訳ありませんが、
上記コメントの履歴の中で、伊吹さんは、以下の「☆」を「確定事項」とされていらっしゃるかと思います。
☆A先生は翌5月3日になってから、PTA会長および読売新聞記者・週刊文春記者にも「第2ガードでの出会い」について語っている。
上記の「☆」の事項を伊吹さんが「確定事項」とされる根拠を教えていただけないでしょうか。
『「A先生」が「読売新聞記者・週刊文春記者」に「出会い」について「語っている」という「語ったという事実」それ自体』は、第三者の証言や他のエビデンスにより、確認でき、かつ「確定」できる、ということでしょうか。
禅公案さんへ
確かにこれはウラの取れていない情報ですから「☆」より「○」とすべきでしたね。訂正させて頂きます。ただ、堀兼中学の宿直室は確かに読売新聞の詰所になっていましたし、文春も僅かであれ確実にA先生に対して取材を行っていますし、その点は証言とも一致しているんですよね・・・。なお、A先生は確認できているだけでも計4回、「第二ガードの件についてはPTA会長に話した」と語っておられます(いずれもウラは取れていません)。
繰り返しになりますが、佐野屋張り込みの際、最も犯人に近い位置にいて声を聴いているのはA先生のはずなのに、なぜかA先生はそれについて警察に調書も取られず、マスコミの取材を受けることもなかったんですよね。。私は著書出版後、同僚の元教諭に本を届けに行った際、そのことに関してもう1度伺ってみたのですが、その方は「(A先生は)聞かれなかったから何にも話さなかった、ってことだと思います。聞かれたらちゃんと答えたんだろうけど・・・。ご本人も当時はかなり不満だったみたいですよ」と話しておられました。5月3日の時点で警察・マスコミが揃って「A先生証言は完全に無視する」と決めていたのだとしたら(理由は皆目見当がつきませんが)、「第二ガード」の件が報道されなかったとしても別に不思議ではないと思います。
伊吹さん
ご教示頂きましてありがとうございます。
以前、本ブログの管理人さんが記事に掲載された写真(東京新聞昭和38年5月4日付朝刊)に、A先生も写っています(新聞のキャプションを信用した場合)。その東京新聞の記事にも、A先生の証言は記載されていない、ということですね。被害者の元担任で、事件後も被害者宅に出入りしていたA先生は、マスコミからすれば恰好の取材対象だったはずです。マスコミの取材がなされているにもかかららず、A先生の証言がマスコミの掲載記事にならなかったいうのは、「何らかの意図」を疑ってしまいます。
よしのぶちゃん事件に続く犯人取り逃がしによって、マスコミの非難集中、柏村警察庁長官のクビが飛んでますよね。マスコミ対警察では、マスコミが圧倒的に優位の状況であり、警察はマスコミに気がねしなきゃいけない弱い立場だった。その警察が、新聞や出版社に記事差し止めの圧力をかけたら、彼らは屈従するでしょうか?
記者たちは結束反発して、記者会見し、報道の自由に対して警察権力の介入があったということを、国民に向けて大々的に告発するという反撃に出たんじゃないんでしょうか。そしたら、警察はさらに威信失墜ということになり、新長官のクビも飛んだんじゃないでしょうか。
警察はマスコミに記事差し止めを要求できる立場にはなかったと思いますし、反権力的な新聞も出版社もミニコミも、いくらもあったし、ガリ版刷りで、道行く人に手渡しで伝える方法もあった。記者たちは、第2ガード目撃証言を、どんな方法を使ってでも国民に知らせたんじゃないでしょうか。
刑事罰に問われることもないし、発行停止になるわけでもないのに、全マスコミが亀井トムの本が出るまで、9年近くにわたってAさんの目撃を知りながら、警察の要請をうけ、記事化することなく、国民の目から隠し続けるという協同隠蔽工作が成り立つ余地はなかったと私は思います。
Aさんは警察の監視対象下に置かれていたわけでもなく、荻原さんも普通に取材できたわけで、そこで第2ガードが初めて出てくる。マスコミ人として、この証言を知る最初の人が荻原さんだったのじゃないでしょうか。次に亀井さんがそれを知り本にのせ、それによって初めて国民はAさん証言を知ったわけでしょう。石川さんの弁護団でさえ、そこではじめて知るのではないでしょうか?亀井さんが本を出すときに圧力がかかったというはなしもないし、
新聞や出版関係者や当時の記者で、圧力による自主規制があったという人はいないし、インターネットにそんな匿名のはなしも、まったくないように思います。
圧力を示唆するコメントは48年たってもないのではないのでしょうか?
記者も弁護団もライターもジャーナリストも、誰も第2ガード目撃など知らなかった。だから約9年にわたって新聞にも雑誌にものらなかった。そこから浮かびあがってくるもの。それはAさんは、マスコミにYさんの目撃などはなしてはいないということ。
荻原氏が、どうやら最初に知った人であり、それ以前には、いなかっただろうということではないか。
>警察が、新聞や出版社に記事差し止めの圧力をかけたら
表立った「記事差し止め」ということではなく、例えば記者からA教諭の証言の真偽について問われた警察が「あれは誤りと判断しているので報道しないで貰いたい」と回答した、といった程度の
ことならば十分有り得たように思います。
>マスコミ対警察では、マスコミが圧倒的に優位の状況であり、警察はマスコミに気がねしなきゃいけない弱い立場だった。
このケースでは当てはまりませんが、一応ご参考まで。
世論の盛り上がりなどによって一時的に「マスコミ優位」のような形になる場合もありますが、実際に「マスコミ対警察」でマスコミ優位になることはまずありません。国家権力というのはそのくらい絶対的なものなのです。大事件になれば、警察上層部からマスコミのトップに圧力がかることもありますし(例:大昔の「ロッキード事件」の際の記事差し替えなど)、現場レベルでも「××について書くならば、今後そちらに情報(ネタ)は提供しない」といった形のプレッシャー掛けは頻繁に行われています。警察にとってマスコミはある程度まで自由に操れる存在です。例を挙げれば、よくTVでは「警察24時」なんて番組をやっていますよね?(←ちょうど昨日もやっていましたが)あれは警視庁のPR番組で、各局持ち回りで定期的に放送し続けることが事実上義務付けられています。時間帯も「基本、ゴールデンタイム2時間」と決まっていて、テレビ局はこれを拒否できません。これだけを見ても警察の力がどれほど強大なものか分かろうというものです。警察パワーをナメてはいけません。
>反権力的な新聞も出版社もミニコミも、いくらもあったし、ガリ版刷りで、道行く人に手渡しで伝える方法もあった。記者たちは、第2ガード目撃証言を、どんな方法を使ってでも国民に知らせたんじゃないでしょうか。
はっきり言って「第2ガード証言」はさほど重要な証言ではありません。そこから分かるのは「雨宿りか待ち合わせかは不明だが、被害者は第1ガードに立つ前後に近くの第2ガードにも立っていた」、ただこれだけです。何が何でも報道しなければ・・・といった内容でもありませんし、別段イコール「反権力」ということにもならないでしょう。実際、「被害者が東中にいた」との証言も報道している新聞は1紙だけですし、OT証言にしても取り上げた新聞・雑誌・単行本は一部だけです。A先生証言などはおそらくそれ以下の価値しかないと思います。
>Aさんは、マスコミにYさんの目撃などはなしてはいないということ。荻原氏が、どうやら最初に知った人であり、それ以前には、いなかっただろうということではないか。
A先生は同僚教師にも話していますが(PTA会長に話しているかは不明)、ライター・調査関係の人間で初めて話した相手は荻原氏だったかもしれません。石川氏が冤罪を主張し始めたのを見て、初めて話す気になった・・・ということも考えられるかと思います。
>石川さんの弁護団でさえ、そこではじめて知るのではないでしょうか?
確かに、弁護団は亀井本を読むまで何も知らなかったようです。
とにかく、不思議なのはA先生の存在自体がマスコミ・警察からも5月3日の時点で完全に「消されて」しまっている、ということです。何度も繰り返しますが、A先生は張り込みにも参加して犯人の声を聴いているはずなのに警察に調書は取られず、マスコミでも報道されず、最初から「いなかった」ことにされてしまっています(公判でもS捜査課長が「張り込みに参加した民間人は姉とPTA会長だけで、ほかにはいない」と証言しています)。ここには何か秘密が隠されているような気がするのですが、それが何であるかはまだ私にも分かりません。
あと、犯人は身代金を取りに現れた際、「そこに2人いるじゃねえか」と言っていますが、これは佐野屋の生け垣の内側にいた刑事のことではなく、もしかしたら向かいの畑にいたというA先生と長兄のことだったのではないか・・・なんてことも最近私は考え始めています。
警察が約9年にわたって、新聞や雑誌に圧力をかけ続け、記者もライターも知識人も、唯々諾々とそれに従い、Aさん証言を国民に知らせないように、情報圧殺体制を組んで、押さえ込むことは不可能だっただろうと私は思います。48年たっても、圧力によって報道の自由が侵害され、記事を書くことができなかったという、元記者や元ライター、元編集長、元新聞、出版社経営陣など、ひとりもいないというのは、圧力がなかったことを証ししてるように思えます。
Aさんが、3日に読売と文春の記者に、Yさんの目撃について、話したというのは、Aさんの偽りと考えてよいのだと思います。それ以降、荻原氏の取材に答えるまでに、何人かのマスコミ人がAさんのもとを訪れたのかも知れませんが、担任から見たYさんは、どういう生徒でしたか?という質問には答えたのでしょうが、第2ガードについては、はなさなかった。
記者から尋ねられることがなかったから、語らなかったのかも知れませんが。
結局、亀井氏の本が出るまで、第2ガード証言は、記者にも作家にも、弁護団にも知られることなく埋もれ続けたと考えてよいのだと思われます。
このはなしを、確実にAさんから聞いたと言えるのは、2日の同僚のYさんだけということになるのではないのか。
3日にMさんが聞いたというのだか、Mさんは警察に知らせていない。4回はなしたと、Aさんは言うのだが、それは自己申告で、重要なのは、Mさんは、それを誰かにはなしたのか?Mさんから、そのはなしをたしかに聞いたという人が、存在するのかということです。Mさんの公判調書にもAさん証言は出てこないんじゃないか。だとするとAさんがMさんに、はなしたというのも疑問符がつきます。
それからもうひとつ。NKさんT恵さんE作さんなども、このはなしを、Aさんから聞いてないのではありません?通夜告別式、49日などもAさんやH中の先生がたは参列してるだろうし、はなしてるはずなんだが、N家から、警察やマスコミに、このはなしは流れてないし、NKさんやT恵さんの公判調書にも、やはり出てこないのではないでしょうか。
☆A先生は弁護団聞き取り調査に対してもやはり同様の証言を行っている(1977年発行の「上告趣意書」に記載あり)。
上記は、「確定事実」なのですよね。(本来ですと、自分自身で、「上告趣意書」を読むべきなのに、怠慢ですみません)
>警察が約9年にわたって、新聞や雑誌に圧力をかけ続け、記者もライターも知識人も、唯々諾々>とそれに従い、Aさん証言を国民に知らせないように、情報圧殺体制を組んで、押さえ込むこと>は不可能だっただろうと私は思います。
それは絶対にないでしょう。ただ(これも繰り返しになりますが)、警察が初期の段階でA先生証言を否定し、マスコミ関係者たちも「大した情報ではない」「どうでもいい話」と判断したため、そのまま埋もれてしまった・・・ということならば十分ありえるかと思います。
なお、A先生証言が亀井本に載ったのは9年後ですが、荻原氏がどの時点でそれを知ったのかはまだ分かっていません。荻原氏は事件直後から活動を始めていますから、かなり早い段階においてその話を聞き付けていた可能性もあります。
話は若干横道に逸れますが、それより遥かに不思議なのは5月4日の死体第一発見者による「カバン発見」談が、全く漏れていないことです。私が著書刊行後にインタビューに行った際、発見者のH氏は「よく覚えていないんだけど、死体を発見するまでのこと(=カバンを先に見つけ、それが死体発見に繋がったこと)も、そのまま喋ったと思う」「別に警察から口止めなんかはされなかった」と話していました。これなど、「第二ガード証言」などとは比べ物にならないくらいの大スクープだと思うのですが。
>結局、亀井氏の本が出るまで、第2ガード証言は、記者にも作家にも、弁護団にも知られることなく埋もれ続けたと考えてよいのだと思われます。
A先生がいつから積極的に話す気になったのかは分かりませんが、私は石川氏が冤罪を主張し始めて以降ではないか、と推測しています。これは単なる想像ですが、A先生はY枝さんが待ち合わせをしているような様子だったことから、親しい人物の犯行を想定しており、それゆえに事件の全体像がはっきりするまで積極的に話すことをためらっていた・・・やがて、石川氏が犯行を全面自供したため完全に証言するのを止めてしまった・・・その後、死刑判決を受けた石川氏が冤罪を主張し始めたため、再びそのことを話す気になった・・・ということも考えられるかと思います。
いずれにしても、この件についてもう確認する術はありません。PTA会長、荻原氏、亀井氏、T恵さん、E作さんもすでに亡くなっていますし、当時の週刊文春記者、読売新聞記者も亡くなっている可能性が大です。A先生、NKさんはまだご存命ですが、事件に関しての証言を行うことは今後も絶対にないでしょう。
情報は出尽くしているということですよね。だとすると既出の情報の検討以外にやることなし、ということなんだと思います。
Hさんが、かばんをみつけていたのに、記事化されなかったというのは、マスコミの自主規制だったんでしょうか。遺体発見者は、ふたりいたのに、もうひとりのHさんは無視された。なぜだろう? このサイトのエントリーにあるんですが、栗崎ゆたかというライターが、この人に取材して、それが1970年の週刊朝日にのったんですが、それだと、記憶がややあやふやみたいなんです。栗崎さんも、この人のことを、どこかから聞いて取材し、初めて記事化されたということなんでしょう。Aさん証言より2年くらい早いですね。栗崎さんも第2ガードについては知らなかったということでしょうね。私が思うに、Hさんが、芋穴で見たのは、間違いなくかばんだったと、言ってないことが問題なのではないでしょうか。伊吹さんのおっしゃってるのは、このHさんなのではないでしょうか?
このHさんだとすると、私が見たのは、たしかに、かばんだったと、明確な記憶で5月4日から、語っていたんでしょうか?
Aさん証言は、あやふやな点がなく、ぶれがなく、一貫してます。Yさんらしき少女を、ではなく
言葉までかけてるんだから、Yさんにまちがいないんです。ならなぜ、警察にいって供述しなかったの?ってはなしになってしまうわけで、Aさんが、
私は第2ガードでYさんに会いました。私はYさんの中3のときの担任です。私がYさんを見間違えることはありえません!
こう刑事たちに主張したら、刑事たちが無視することができると思いますか?
私は刑事たちに、Yさんと第2ガードで会ったことをはなしました。しかし刑事たちは、なぜか私の供述をとろうとしませんでした。
こうAさんが、記者やライターに語ったらどうなります。
狭山署は、マスコミの集中砲火を浴び、署長のクビは飛んだんだじゃないんでしょうか。
AさんはMさんに4回はなしたと言っているが、Mさんからこのはなしをたしかに聞いたという人は、いないようですね。MさんからN家の人たちに、伝わっててもおかしくないんだけど、N家の人たちに、このはなしへの言及やコメントが、まったくないわけですよね。
AさんがMさんに、まったくはなしていないか、Mさんが何か事件の核心に気づいて、あえて口をつぐむことにしたのかのどちらかでしょうね。
>Aさん証言より2年くらい早いですね。
A先生証言が亀井本に掲載されたのは事件から9年後ですが、だからといって「A先生が証言したのも9年後」ということにはなりません。調査を進めていた荻原氏がかなり早い段階で聞き付けていたことも十分に考えられると思います。
>栗崎さんも第2ガードについては知らなかったということでしょうね。
そうとも限りません。栗崎氏自身が「第2ガード証言」にまったく注目していなかった可能性もあります。
>伊吹さんのおっしゃってるのは、このHさんなのではないでしょうか?
>このHさんだとすると、私が見たのは、たしかに、かばんだったと、明確な記憶で5月4日から、語っていたんでしょうか?
確かに私がインタビューしたのは栗崎氏と同じH氏です。H氏は栗崎氏には少し自信なさげに話していますが、私にははっきり「かばん」と言っていました。また栗崎氏に対しても、「見つけたのは、いずれにせよY枝さんの持ち物だった」旨証言は明確に行っています。事件から時間が経っているため記憶が一部ぼやけているようですが、死体発見当日であれば当然それははっきり覚えていたはずです。
>Aさんが、私は第2ガードでYさんに会いました。私はYさんの中3のときの担任です。私がYさんを見間違えることはありえません!
こう刑事たちに主張したら、刑事たちが無視することができると思いますか?
出来ると思います。事実、A先生が「佐野屋の張り込み時に犯人の声を聞きました」と言っても、警察は平然と無視しているのですから。
>私は刑事たちに、Yさんと第2ガードで会ったことをはなしました。しかし刑事たちは、なぜか>私の供述をとろうとしませんでした。
>こうAさんが、記者やライターに語ったらどうなります。
>狭山署は、マスコミの集中砲火を浴び、署長のクビは飛んだんだじゃないんでしょうか。
集中砲火も浴びませんし、署長のクビも飛びません。何度も繰り返しますが、A先生証言というのは、はっきり言って「殆どどうでも良い話」です。A先生証言が事実だったとしても、それによって犯人が浮かび上がるわけでも、事件の全体像が変わってくるわけでもありません。そこから分かるのは、「Y枝さんは第1ガード下に立つ前に近くのガード下にも立っていた。雨宿りかもしれないし、そうじゃないかもしれない」、ただそれだけです。
>AさんがMさんに、まったくはなしていないか、Mさんが何か事件の核心に気づいて、あえて口をつぐむことにしたのかのどちらかでしょうね。
私もそう思います。M氏がPTA会長で、子息がH中野球部OBだったことから考えれば、息子や現役野球部員たちが事件に巻き込まれるのを恐れて口をつぐんだことも有り得ると思います。
なおA先生証言の真偽についてですが、「向かって左側の橋に立っており・・『おい中田、こんな所で何をしてるんだ』と声を掛け・・足で石をつつくような仕草をしており・・自転車があったかどうかは記憶していません・・」といった一連の供述は非常にリアルですし、私は作り話とは考えていません。何より考慮しなくてはならないのは、「A先生がそのような嘘をついたところで何のメリットも無い」ということです。強いてそれを挙げるならば、「野球部員全員が、自分と一緒に東中に行った」と話すことで、現役野球部員たちのアリバイを証明することにはなるのかもしれませんが・・・。
伊吹さんへ
≫何度も繰り返しますが、A先生証言というのは、はっきり言って「殆どどうでも良い話」です。 A先生証言が事実だったとしても、それによって犯人が浮かび上がるわけでも、事件の全体像が 変わってくるわけでもありません。そこから分かるのは、「Y枝さんは第1ガード下に立つ前に 近くのガード下にも立っていた。雨宿りかもしれないし、そうじゃないかもしれない」、ただそ れだけです。
A先生の証言に関し、こだわるようで申し訳ありませんが、「殆どどうでもよい話」とは、あまりにも極端な評価と思えてなりません。被害者の下校後の行動に関する、数少ない証言の中で、A先生の証言は、被害者が「特定の時間帯」に「特定の場所」にいたことを内容とする、貴重な証拠になるうるのではないでしょうか。被害者が「特定の時間帯」に「特定の場所」にいたことは、下校後の被害者の行動の軌跡を推測するにあたり、「殆どどうでもよい話」とは思えないのですが。
確かに被害者が「特定の時間帯」に「特定の場所」にいたことの証明にはなると思いますが、ではそれで何かが変わってくるのか? といったら何も変わってこないんですよね。。被害者がそこで「××さんを待っているんです」と言ったり、怪しげな人物が現れたり・・・といったことでもあればまた別なのですが。
誰かのアリバイを証明するとか、誰かの犯行を裏付ける、といったものにもなりませんし(そもそも目的が「雨宿り」だったのか「待ち合わせ」だったのかすら分かっていないのですから)、時刻も「3時前後」とすると、被害者の最終的な下校(午後3時23分)後や行方不明になって以降(3時50分以降)の足取りを示すものにも成り得ません。
もちろん「丸っきり無意味」とまではいいませんが、情報としての価値はせいぜい「東中で3時40分頃まで野球観戦していた」「毛糸店で針刺しを買った」という証言等と同程度だと思います。
あと1つ、A先生証言には時間的な面で「OT証言を補強する」という意味もあるかと思います。ただ、これも「1度学校を出てまた戻っている」ことの傍証にはなるかもしれませんが、直接それに繋がるものにまでなるかどうかは不明です。「現役野球部員たちのアリバイを証明―」という話も書きましたが、東中では到着後「自由解散」だったのですから、これにしても完全なアリバイ証明には成り得ません。いずれにしても、警察が躍起になって潰そうとしたり、マスコミが大騒ぎするほどのネタでなかったのは確かでしょう。
禅さんへ
>☆A先生は弁護団聞き取り調査に対してもやはり同様の証言を行っている(1977年発行の「上告趣意書」に記載あり)。
上記は、「確定事実」なのですよね。
遅くなりましたが。これは確定事実です。「上告趣意書」にきちんと記載されています。
余計な話になりますが、私は5月14日~17日の現地取材で、A先生―H中に関するかなり衝撃的な事実を掴んでしまいました(事件に直接関係するようなものではありませんが)。これについては、いずれきちんと整理した上で発表させて頂きたいと思っています。
i伊吹さんへ
ご丁寧にご回答いただきまして、ありがとうございました。
第二審の証人尋問の時点では、「これも新聞その他の報道でわれわれは少し知っている程度ですがね」といった弁護士の認識でしたが、A先生の証言に関し、その後、弁護団による聞き取り調査がなされたということは、弁護団にとっても、A先生の証言への関心が高まった、ということでしょうか。
それよりも、「A先生―H中に関するかなり衝撃的な事実を掴んでしまいました」が気になります。発表を心待ちにしております。よろしくお願いいたします。
まったく謎めいているAさんの第2ガード証言から、どういう解釈が、なりたちうるか、それを考えてゆく道筋が、そのまま事件の核心につながってゆくと私には思います。Aさんこそが、この事件の核心を握る人物であることは、まずまちがいないと、みてよいのだと思われます。
Aさんは5月2日に同僚のYさんに第2ガードについてはなした。Yさんは存命で伊吹さんの取材にも答えられた。Yさんは張り込みに参加してないので、当然警察に、このはなしはしていない。事件後Yさんのところに取材にきたマスコミもいないんじゃないでしょうか?
もし来てたら、Yさんは、このはなしをしただろうからです。そしてN家のひとたちに、第2ガード言及がまったくないことから推察するに、Yさんが、このはなしをN家のひとにしたことはないと考えられます。
Aさんが唯一このはなしをしたと考えられるのがYさん。
Yさんは、おそらく機会なく、警察、ライター、N家のひとに、このはなしをすることはなかった。Yさんが、このはなしをしたのも限られたひとだった。だから、このはなしは、あまり広まることなく、一握りのひとのみが知るはなしとして潜行していった。
Iさんは無実じゃないかと、もっとも 早い段階で気づいたのが荻原氏で、彼は現地取材の過程で、ついに、このはなしを掘り当て、そしてAさんに取材して、証言を引き出したと考えられるんですが、荻原氏はIさん無罪論のひとなんだから、早い段階で知ってて弁護団に知らせないことは、ありえないでしょう。荻原氏のAさん取材と、亀井氏が本に書くまでの時間が、かなり空いていたとは思えないですね。
5月2日の朝、Mさんは、学校にきて事件を知らせるわけだが、このときに、Aさんが目撃をはなすのが、セオリーなんです。ところがAさんは黙ってます。これは意図的に黙った以外にありえないので、元担任の行動としては、あまりに不可解です。Aさんは何か知っていたと、考えない限り解釈できません。
そのあとで、AさんはYさんに、はなし、再びMさんと会い警察に行くんだが、また黙っている。
Yさんには、はなすが、Mさんと警察には、はなさない。
警察もMさんから、Y枝さんの担任だったと紹介され、Aさんの張り込み参加を容認したのであって、第2ガードの目撃者と知ってれば、参加を容認したはずがありません。
Aさんは、警察にもMさんにも、黙っていたからこそ張り込みに参加できたと言えると思います。
>Aさんの第2ガード証言から、どういう解釈が、なりたちうるか、それを考えてゆく道筋が、そのまま事件の核心につながってゆくと私には思います。
A先生は確かに一部嘘の証言をしているようですが、犯人についてはおそらくぼんやりとした想定があるのみで、はっきりしたことは分かっていなかったのだと思います。もちろん、A先生自身は明白なアリバイがあるのですから、「犯人」ということは絶対有り得ません。従って、第2ガード証言の真実が解き明かされたとしても、事件の核心部分には何ら触れるものにはならないかと思います。
>事件後Yさんのところに取材にきたマスコミもいないんじゃないでしょうか?
Y先生を初め、H中の教師は1人として警察の事情聴取もマスコミ取材も受けていません(A先生の張り込み参加が僅かに報じられたのみ)。まったく不思議というほかない話ですが。
>荻原氏はIさん無罪論のひとなんだから、早い段階で知ってて弁護団に知らせないことは、ありえないでしょう。荻原氏のAさん取材と、亀井氏が本に書くまでの時間が、かなり空いていたとは思えないですね。
弁護団がA先生証言を「上告趣意書」に記載したのは、亀井本が出てから5年後です。被害者が待ち合わせをしていたことの傍証とはなり得るものの、特に大きな意味を持つ証言とは考えていなかったことが伺えます。
>5月2日の朝、Mさんは、学校にきて事件を知らせるわけだが、このときに、Aさんが目撃をはなすのが、セオリーなんです。ところがAさんは黙ってます。これは意図的に黙った以外にありえないので・・・Aさんは何か知っていたと、考えない限り解釈できません。そのあとで、AさんはYさんに、はなし、再びMさんと会い警察に行くんだが、また黙っている。
私も同意見です。私の場合、やはりこれは被害者の口から「今日M君(野球部OB)たちと会うことになっているんです」等の言葉が出たため、としか考えられないのですが。
>警察もMさんから、Y枝さんの担任だったと紹介され、Aさんの張り込み参加を容認したのであって、第2ガードの目撃者と知ってれば、参加を容認したはずがありません。
A先生に張り込み参加を直接依頼したのは間違いなくPTA会長でしょう。会長は最初H中に行った際も「脅迫状の筆跡と比べてみたいから生徒(被害者と同期卒業生を含むと思われる)たちの書いたものをみせてくれ」と頼んでいますし、少なくても初期の時点においてH中の同期卒業生または在校生の犯行とみていたことは確実です(イタズラの場合含む)。A先生に張り込み参加を頼んだのは、彼を「生徒の声が聞き分けられる人物」とみていたからではないでしょうか?
管理人様、伊吹様ブログの更新と書き込みに対する返信興味深く読ませて頂いております。
A先生発言については多少の嘘(沈黙)があるにせよ、それは事件に関係していると当時A先生が庇った(元)生徒の存在があるからと捉えて宜しいのでしょうか?
それにしても、どうして当時緻密に調査して然るべき場所に発表した人間がいなかったのか不思議でなりません。
そして何も殺害までしなくても…とY枝さんが不憫でなりません(合掌)
山紫様
まとめっぽくになりますが、A先生の証言のうち「被害者と出会った」という部分が本当だとすれば、残る大きな謎は2つ、ということになります。
①なぜ事件翌日、警察やPTA会長にそのことを話さなかったのか
②なぜ、「当日はH中の試合があった」「被害者と出会った時も帰り道も生徒を引率していた」などというウソをついたのか
①は、やはり自分と関係する人間の犯行(野球部OB、野球部員など含む)が予想されたため、とみるほかないでしょう。もし被害者の口から「××さんたちと会うことになっているんです」などの言葉が出なかったとしても、高校に入学したばかりの少女が「待ち合わせをしているふう」に立っていたとしたら、中学同期生が絡んでいるのでは・・・と考えるのはごく自然なことだと思います。
②これはアリバイ(=その日、生徒たちは全員行き・帰り・会場でずっと自分と一緒にいた)を主張することで生徒たちをかばったのかもしれませんが、そこにはもう一つ、〝警察に対するけん制〟という側面もあったように思います。つまりは、「H中野球部員は無関係だから、もう調べるな!」という意味での無言の抵抗ではなかったか、ということです。
A先生とすれば、張り込みに参加しているにも関わらず「最初からいなかった」ことにされ、調書も取られず、それでいて自分が顧問を務める野球部の生徒は4名も引っ張られて行っているのですから、警察に対する相当な不信・不満があったとして不思議ではありません。伝え聞くところによると、A先生はかなり攻撃的な性格だったようですから、感情的に昂ぶればそういう行動に出ることも十分ありえたのではないでしょうか?
伊吹さんのコメントにある「A先生―H中に関するかなり衝撃的な事実」に関して、伊吹さんの取材報告エントリを上げました。こちらをご参照ください。
コメントが30にまでなって白熱してきたので間をおきました。
再び第2ガードについてですが、伊吹さんは、Aさんは、Mさんに4度はなしたが、N家のひとにもはなした、とは書いてません。Aさんは、自己申告としてもN家のひとに、はなしたとは言っていないということになりますね。
つまり、AさんはN家のひとにも何もはなしてないということですな。
Aさんは、Y枝さんの元担任であり、その資格において張り込み参加を許可され、新聞の写真にも載ったように、N家の土間で、Y枝さんの無事を祈るN家のひとたちや、MH君などとともに、Y枝さんの自転車を囲み、夜を明かしたわけでしょう?山捜しにも参加し、Y枝さんの葬儀にも参加したでしょうし、遺体となったY枝さんの顔も見てるはずです。なのに遺族であるN家のひとたちに、
私は1日に第2ガードでY枝さんに会い言葉をかけました。そのときのY枝さんの様子は、こういう感じでした。
と、はなしてはいないということになるわけです。
これもAさんは、意図的に黙ったということでしょう。
E作さん、T恵さんNKさんが、このはなしを聞いて、口をつぐまねばならない理由なんて何ひとつないわけですから、やはり聞いてなかったのだと解釈せざるをえません。
それともうひとつ張り込みについて。
伊吹さんは、Aさんが犯人であることは絶対にありえないと、書いておられますが、その言葉が成立するためには、畑から男が出現したときのAさんのアリバイが立証されてなければなりません。そしてアリバイの立証には、他者の証言がなければなりません。自己申告ではアリバイは成立しません。自己申告は真実とは限らないからです。畑から男が出現したとき、Aさんは確かに、こちらの畑のこの辺りにいましたという、NKさんか、刑事の証言があるんでしょうか?もしあるなら、Aさんのアリバイは確定しており、かの男ではありえません。しかし、他者の証言がないなら、アリバイが確定しているとは言えず、Aさんは、かの男では絶対ないと言うことはできなくなります。つまり、Aさんが、かの男である可能性が残ることになり、Aさんが、犯人であることは絶対にありえないという伊吹さんの言葉は、不成立ということになるかと思われます。
①A先生がN家家族にも「第2ガード」の件を話していなかったのは確実だと思います。
②張り込みの件ですが、報道によれば(自己申告なのかどうかは不明ですが)、A先生は「犯人が現れた畑から通りを隔てて向かいの畑の中でしゃがんでいた」ということになっています。T恵さんの「付き添い」として参加していて、佐野屋側にいなかったとすれば、この位置にいたのはごく自然なことだったと思います(ただの民間人なのですから、全く違う場所で警官と一緒に張り込みなど行うはずがないでしょう)。
A先生は2日からPTA会長やT恵さんとずっと一緒にいた訳ですし、もちろん2人には声もよく知られていたはずです。ですから、張り込みに参加しながら、途中で向かいの畑に入り、声色を使ってT恵さんに呼び掛け、また元の位置に戻った・・・などというのは余りにもマンガ的な発想かと思います。
その場合ですが、実際に行ったとすればおそらくは次のようなやりとりになったでしょう。
犯人「オイオイ、来てんのか」
T恵さん「あら先生、何してるんですか」
それに向かいの畑に移動して、また元の位置に戻るとすれば、PTA会長やT恵さんの目の前を1往復しなければなりません。そんなことを気づかれずにできるはずはないと思います。
あと以前にも書きましたが、A先生は事件発生当日、午後5時過ぎまではH中校内にいたことが別の教師によって確認されています。少なくともA先生が「殺害犯」「身代金を奪いに来た犯人」である可能性はないと思われます。
Aさんは当時32才。T恵さんは23才。T恵さんもY枝さんと同じくH中に通ったと思われますが、そうすると8〜10年前となり、13〜15才の頃になります。Aさんは22〜24才の頃で新人教師の頃ですね。問題はT恵さんがH中の生徒だった時に、AさんがH中の教師だったのかということです。もしそうならば、T恵Y枝姉妹は、ともどもにAさんと、教師と生徒という関係だったことになります。であれば、AさんとT恵さんは、旧知の仲であると言えると思います。しかし、その後没交渉であれば、8年ぶりの再会の可能性もあります。しかもY枝さんの生命に赤信号が点っていた。ふたりが挨拶をしたあと会話がはずんだでしょうか。普通こういう場面においては、重苦しい雰囲気が支配し、言葉は少なくなるんじゃないでしょうか。久しぶりに会ったAさんの声を記憶するほどの会話の量があったかどうか。
Xの指定した時刻が迫るにつれT恵さんの緊張感も高まったに違いありません。T恵さんは佐野屋の前に立つのを嫌がります。T恵さんの対応如何によってはY枝さんの生命が断たれるという、ぎりぎりの場所に立ちたいはずありませんから。渋るY枝さんを、8時半頃から3時間かけて説得したのがE作さんとMさんだった。つまりT恵さんが覚悟を決めて、N家を出た11時半より前の3時間というのは、この3者協議に費やされたのです。T恵さんには父とMさんの声と言葉が、Mさんには、E作さんとT恵さんの声と言葉が、強く印象づけられたに違いありません。この協議にAさんが加わっていたというはなしはありません。8時半以降Aさんは、MさんT恵さんとはなしをしてないし、N家にいなかったということでしょう。
MさんはT恵さんと同じ頃N家を出たと思われる。Mさんは3時間かけてT恵さんを説得し、役目を果たしたといえる。また狭山署の刑事や警官、県警から来た警部等を迎え対応しはなしたでしょう。食事の手配などの指揮を取ったのもMさんでしょう。Mさんは大車輪で2日は、もっとも忙しかった人といえるわけで、はたしてAさんを気にかけ、声を記憶するとこまで言葉を交わしたでしょうか。当日の張り込みの主役は警察であり、Aさんはゲストみたいなもんだ。2日は授業は2時半まであったのではないでしょうか?
だとするとAさんがMさんとともに警察に行ったのは、2時半以降になるんじゃないでしょうか? Aさんが午前中からM宅や警察に行っても、やることないですからね。
訂正です。E作さんとT恵さんとMさんと織物工場経営で元議員の、もうひとりのMさん宅における4者協議でした。その、そのもうひとりのMさん宅が捜査本部で、T恵さんとE作さんは、N家からそこへ来たわけですな。そして説得を受ける。Aさんもそこにいたが、協議には加わっていなかったということでしょうか。NKさんの運転する車にT恵さんは刑事二人とともに、そこを11時半に出るわけですね。刑事たちは佐野屋に10時に配置についたわけですから、9時半すぎに、そこを出、Aさんもそのときに、一緒に出たということなんでしょうかね。
A先生は5月2日朝にPTA会長から事件の説明を受け、その日に2人で狭山署に出頭、夜には張り込みにも参加しています。従って、この日は終日PTA会長と行動をともにしていた、とみるのが自然でしょう。1か月半前まで担任していた生徒が誘拐され、すでに殺されているか、これから殺されるかもしれないという時に、のんびり授業など行える訳がありません。張り込みに参加している以上、当然事前の打ち合わせにも参加しているはずで、T恵さん説得の場にも絶対にA先生はいたはずです。
問題は、A先生がずっとPTA会長と共にいて、最も近距離で犯人の声を聞いている〝最重要証人〟であるはずなのに、なぜか翌日になってから完全に「最初からいなかった人」にされてしまっていることです。刑札ばかりかPTA会長やT恵さんまでもが、以後A先生に関する話は一切していません。張り込みの際に〝何か〟があり、全員で示し合わせてそのようにしたことは間違いないと思われますが、それが一体何であるのか、未だに私も突き止められずにいます。
管理人様、伊吹隼人様はじめまして。
関東の民俗学やアイヌ語起源風の地名(ムサシとかカサシetc)に
関心があり、いつの間にか昨年狭山事件に辿り着きました。
伊吹さんの著作でY枝さんの日記を読んで自分の
15歳の頃とは比べるべくもない(多分I先生にビンタをされた
であろう学習態度でしたので)、しっかりとした文章に
衝撃を受けてこちらのサイト様を時々拝見し、自分なりに
Y枝さんT江さんの墓参などをかねて現地を歩いたりして
おります。
話が逸れてしまい申し訳ございません。
伊吹様のコメントから察するに、A先生には5月1日ガード下目撃と佐野屋
張り込み体験を併せて考えると、誰か心当たりのある人物の影が直接又は
間接的に浮かんで来てしまった。そしてそれは、何故か捜査側やN家に
とっても隠したい事柄だったということでしょうか?
野球部人脈又は同じ中学ににメッセンジャーがいた場合の件と併せて、もしも
PTA会長の息子さんのMさん伊吹さんの取材に応じてくださったら
なにか手がかりの一旦が分かりそうな気もしてます。
慌て者故の行ずれお詫び致しますm(._.)m。
×同じ中学にに
◯同じ中学の卒業生に
の誤記でした。
①刑札は事件発生翌日(5月2日)朝、すぐに堀兼中PTA会長に対して捜査協力を依頼している。
②PTA会長はそのまま堀兼中に向かい、「生徒(または善枝さんと同期OB)の筆跡を見せてくれ」と教師らに依頼している。
③PTA会長は善枝さんの中学3年時の担任(=野球部顧問)・A先生に対して協力を要請。当日夜の張り込みにも参加するよう頼んでいる。
④A先生もこれを受け、実際張り込みに参加している。
⑤刑札は、堀兼中教師たちに対して事情聴取を行っていないものの、現役野球部員4名に対してはそれを行っている。
⑥PTA会長はA先生とともに、その後独自の調査を開始している。
これを見る限り、初期の段階で刑札・PTA会長・A先生が揃って堀兼中生徒(=野球少年? 善枝さんと同期OB含む)の犯行を疑っていたのは明白です。はっきりした理由は分かりませんが、やはりそこには何らかの心当たりがあったとみるべきでしょう。
「M君が犯行に関与」というのはあり得ないと思っていますが、ただ彼は「何か」を知っていそうな気がします。是非一度、話を伺ってみたいとは思っているのですが、以前の私の取材依頼に対しても声を荒げて電話を叩き切ってくるような調子なので、今後もそれはまず無理でしょうね・・・。
伊吹様
コメントいただきまして感謝します。
僕もM君が犯行に関与は無い、と思います。
A先生らとN家を訪れたM君{実に賢そうな顔をされていますね)の沈痛な面持ちには胸が痛くなります。
ただ、何か少なくとも呼び出し又は待ち合わせのメッセンジャー役の人物については心当たりがあるのでは、と感じています。
それだけでも判決文のストーリーはひっくり返りかねない大きな情報かとも思います。
善枝さんのご遺体発見後や葬儀などの機会に故人偲んでを直近のエピソードを含めて家族や親しい人たちと語り合うと思うのです。僕も親友が事故で急死した際に最後に話したのが自分だと分かったので、遺族からもたくさん、手繰り寄せる様に、最後の会話を詳しく教えて欲しい、と請われました。
それは、あくまで想像ですが、例えばA先生の場合でしたら、1日ガード下で見た時は、こうだったのにこんなことになるなんて、一体あのあと何があったんだろう、誰と待ち合わせしてたのだろう。。などと遺族や葬儀に集った人々に話していることが自然な気がしています。
もしそうだとすると、仮想メッセンジャー少年を誰(たちか)、なんとなく想像がついた生徒OBたちも複数いた気がするのです。
上記のようなやりとりが無いとすると、刑札が極めて早い段階からA先生に緘口を依頼したか、A先生が自発的(心当たりのメッセンジャー少年を庇うためetc)に多くを語らなかったのが謎に感じます。
このスレッドにこのまだらだらと書くことは不適切かも知れませんがお許しくださいm(._.)m。
ぼくは日本人としてはやや大柄で、大股で歩く癖がありますが、現地巡りをしてみて(さすがに善枝さん地蔵尊にはタクシーで向かいましたが)何人たれとも(スパイ映画の主人公でも無い限り)、単独犯はあり得ないと確信しています。昼間に舗装路を歩いての実感です。
そして、ご遺体の紐類や玉石からは、土葬を複数回見てきた世代の人物の存在を感じました。
礫川全次さん監修の
「タブーに挑む民俗学―中山太郎土俗学エッセイ集成」 [単行本]
や別の民俗学者の書いたいくつかの葬送儀礼に関する文献を読むと、ご遺体の上に置かれていた長い紐は、土葬に向かう葬列のうち、親族がお棺を引く為の長い紐を連想しました。
また、仮に主犯格又は発案者がが逆恨み含む怨恨が主な動機だとしたら、清純な存在である善枝さんを敢えて、犯罪者や変死した行旅人のように逆さに埋めることで、最初から殺害する計画だったこと、はずかしめにより恫喝の効果を増大させたのではないか、と思うに至りました。
タブーに挑む民俗学の葬送儀礼のページには犯罪者や変死者を村の辻や橋などに逆さに埋めることが紹介されています。ただし、この著作では縦方向に逆さなのか、うつ伏せなのかは分かりませんでた。
また、他所の村からの婿入りに当たって「裸揉み」という神事に名を借りた村の男衆からの激しいリンチの習俗も紹介されています。残念ながら他所の村からの嫁入り時についての民俗は例をあげるとキリがない、として紹介されておりません。
また、
善枝さんの母方のおばあちゃんの代から美形であり、何か「複雑な」経過を辿ってN家に嫁入りして来た時に土葬を模した土饅頭が出来ていたことは、民俗としてある程度よくあるタイプの定型的なものなのか、あるいは、土地の中年~高齢の人には分かるが、滅多にないが強い怨念渦巻く民俗文化上の「表現」なのか、はたまた全く行為者オリジナルの嫌がらせなのか気になるところです。
玉石についてですが、頭や顔を保護しているとも、墓石とも感じます。朝日選書の「被差別部落の暮らしから」の葬儀関連ヶ所を見ますと、割と最近まで土葬で金銭的に逼迫している場合は拾って来た丸い石を墓石にした、そしてまさかお墓に立ち小便する人はいないだろうから、時々、その丸石(墓石)を里帰りさせて漬物石として利用したことが紹介されています(近年では、衛星管理上十分な土地や担ぎ手、その他人員確保から土葬はかなりの経済力が求められるようです)。
真犯人側に土葬が当たり前の世代がいて、被差別部落方面に疑いを向ける為の玉石かとも思えますが、玉石+土葬の組み合わせ、しかも終戦前後というお墓はちょっと田舎に旅行すればしばしば見つかりますし、神奈川に住む友人の祖父母のお墓はまさにその形式でした。
ご遺体発見時にKさんがパチパチと写真を撮っていたエピソードを初めて読んだ時、死体愛好とか、失礼かつ、甚だ誤った邪推が一瞬思い浮かびました。
しかし、今想像しているのは、Kさんは、ご遺体の縛り方や逆さの埋め方などに、犯人側のメッセージがあると考えて写していたという可能性です。
それで、手記は、石川さんが真犯人ではない、つまり真犯人は
分かってるぞ、と言うことを匂わせつつ、基本的に降参(真相は追求しないよ)、と言うトーンになったのでは、と想像してしまいました。
例えば宮沢賢治の妹の死を悼んだ無声慟哭などとは、比べるべくもなく、何故死んでしまったんだ、生きかえって欲しい、妹の霊とはどこにいけば会える、などの悲痛な悲しみが失礼ながら手記からは感じられず、やけにあっさりした印象を受けます。
とりとめのない駄文をつらつらと失礼いたしました。
野球部周辺のメッセンジャー少年はいたと思っております。そして、現地巡りの経験から単独犯はあり得ないことを確信しております。また、これも狭山事件と名のつくいくつかの文献を読んで見ての現段階で想像ですが、養豚場には仮に事件全容をしらなくても、下請け、又は下請けの下請け(斥候役など)の人物がいたような気がしています。
僕は高校時代から民俗学が好きで当然に部落の方々の暮らしはそこに、古いもの(習俗)の中に良いものを感じています。
特に鎌倉から横浜市戸塚区を通り入間川に向かう鎌倉古道沿いには死んだ馬の解体や刑吏、川の水運などは歴史民俗上欠かせない大切な文化であったと思います。しかし、部落の人=みんな良い人、というのは差別の一形態かとも思います。部落の人でも、外の人でも必要性や環境や人脈により同じ様に犯罪に巻き込まれることはある筈で、そこに差異などないと思います。
その意味で、発案者又は真犯人側が逆恨み含む怨恨や利権からみの動機としても権現橋と堀兼地区の地勢を地図だけではなく実際に目の当たりにしたとき、下請けレベルの人はいたのでは、と感じました。
ご遺体の埋設状況を宗教と言うよりは、民俗学(特に葬送儀礼や特殊民俗学)の専門家が分析したら、なにか少しでも犯人側の意図的なものが垣間見えないものなのでしょうか?
最後に管理人様、伊吹様の知識又はご見解をお聞きしたいのですが、敷地が広いとは言え、解剖をなぜ小さな弟さんのいる自宅で行なったのでしょうか?
これは当時の農村ならありがちなことなのでしょうか。
そうではないとしたら、5月4日の時点で刑札は解剖結果にも隠したいことでもあったのかと邪推したくなります。ここを疑いだすと精液に関することまでフィクションが含まれているかもしれない、、、などと確かめようのない事にも疑問を感じてしまいます。
ご見解をご教示いただけましたら幸甚と存じますm(._.)m。
>ご遺体の上に置かれていた長い紐は、土葬に向かう葬列のうち、親族がお棺を引く為の長い紐を連想しました。
「玉石・荒縄」を「葬送儀礼」とみるか、「後頭部加撃の際の凶器+運搬用の縄」とみるかは、私も未だ判断がつかない状態です。想定される犯人(実行犯)像も、前者ならば「中年以上、儀礼を重視=ある程度のインテリ」、後者ならば「10代~30代くらい、体力あり、粗暴」といったあたりで異なってくるように思います。
>N家に嫁入りして来た時に土葬を模した土饅頭が出来ていたことは、民俗としてある程度よくあるタイプの定型的なものなのか、あるいは、土地の中年~高齢の人には分かるが、滅多にないが強い怨念渦巻く民俗文化上の「表現」なのか、はたまた全く行為者オリジナルの嫌がらせなのか気になるところです。
堀兼~上赤坂にそのような風習はありませんし、当時40代の方でさえ「変な出来事」として語っているくらいですから、これは全くの〝行為者オリジナルの嫌がらせ〟なのでしょうね。。
>敷地が広いとは言え、解剖をなぜ小さな弟さんのいる自宅で行なったのでしょうか?
特に深い意味は無かったと思います。当時は周辺に大きな病院もなく、受け入れてくれるところも見つからなかったため、自宅裏で行った、というだけの話ではないでしょうか? まあ、確かに今ならば絶対ありえない話だとは思いますが・・・。
伊吹さんは、このエントリーで以前こう書いておられます。
A先生が犯人と道路を、隔てて対峙していたことは、複数の雑誌に掲載されているほか、本人も直接証言しているので確実です。
佐野屋張り込みの際、もっとも犯人に近い位置にいて声を聴いているのは、A先生のはずなのに、なぜかA先生は、それについて警察に調書も取られずマスコミの取材を受けることもなかったんですよね。同僚の元教諭は、聞かれなかったから何にも話さなかったってことだと思います。聞かれたら、ちゃんと答えたんだろうけど〜
と、言っておられました。
複数の雑誌に掲載されたというのは、事実なんでしょうか?だとすると、当時雑誌記者がAさんに取材に行き、それにAさんが答えたということになります。記事の載った複数の雑誌が公刊されたということは、沢山の人が読んだということです。刑事もライターも弁護士も、当然目に触れているはずです。であるなら、このAさんの対峙の話しは、知識として早い段階から共有されてないといけないと思うんです。ところが、そうは、なっていない。
Xと道路を挟んで対峙してるわけですから、距離にするとどれくらいでしょう。10から15メートルくらいになるのでしょうか。正確な数字はわかりませんが。T恵さんとXとの距離が30メートル。Aさんのほうが、はるかに近いのは、誰にもわかります。Xの声も、Xが着ていたという白い服も、Aさんのほうが、T恵さんより明瞭に、わかったはずです。雑誌を読んだ刑事も、ライターも弁護士も、それに気づかないはずがありません。当然Aさんのところに聞き込みに、いくはずです。ところが、そうなっていない。
警察も調書を取ることない、ライターも弁護士も何もしない。これは普通では、ありません。考えられるのは、第2ガードの時と同じように、この話しは、記事として雑誌に載っていないのではないのか、ということです。Aさんが同僚のYさんに話したのは、確実でしょうが、問題は記事として雑誌に、たしかに載り現存するのだろうか、ということです。
A先生の張り込み参加の件は、事件直後の『週刊文春』に掲載されています。
「(前略)Mさんのほかにも、二日の夜張り込み現場にはもう一人の民間人がいた。それはY枝さんの担任だった中学校のA先生である。A先生は県道をへだてた向かい側の麦畑にしゃがんで、T恵さんと犯人とのヤリトリをやきもきしながら聞いていたのだ(後略)」
また、このほかA先生の張り込み参加の件は亀井本にも記載されています。
A先生はPTA会長から張り込み参加を依頼されたと思われ、このことは当然警察にも連絡されているはずです。A先生は事件後、同僚のY先生と弁護団、荻原佑介氏に張り込み参加の話をしており、PTA会長もA先生が当時張り込みに参加していたことをはっきり認めています。
にもかかわらず、A先生は調書を取られることもなく、調査も受けず、以後マスコミで報道されることさえありませんでした。また、A先生に張り込み参加を依頼したPTA会長・刑札は、裁判でもA先生の存在を認めず、「最初から現場にはいなかった」旨供述しています。
理由は分かりません。全くの謎です。