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津山事件: 中村一夫氏と中村病院

IMG_2098中村病院跡地

IMG_2099中村病院跡地(反対側)

NakamuraMap1998年発行の地図

津山事件: 中村一夫『自殺―精神病理学的考察』のエントリに、中村一夫氏の「中村病院」は既に潰れており、現在も埼玉県内にある精神科の中村病院とは別物であるというコメントをいただきました。ありがとうございます。

なお、上記エントリにも書いたように、中村一夫氏の『自殺』は私が今までに読んだ津山事件本の中では最も正確性が高く、津山事件に対する愛があふれまくっていてマニアの方には是非一度読んでいただきたい本です。ただし、全部で200ページの本の中で津山事件関係の記事は40ページほどですので、その点はあらかじめご了承ください。

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下山事件: 五反野周辺の証言

IMG_1636公園から轢断現場付近に向かって撮影

全研究下山事件サイトにて、「五反野轢断現場周辺の目撃者証言」という記事が上がっています。

特に、各目撃者の位置と目撃時間をまとめた地図に関して、私自身もいつかはこれをやりたいとは思っていたのですが、先にしかも私が考えていたのよりも精緻な形でまとめられています。その努力に敬意を表すとともに、下山事件に興味がある方は是非とも一度ご参照ください、とおすすめしておきます。私が知る限り、ここまですべての証言を地図上にまとめたものは今までなかったのではないかと思います(もしどこかにあればご教示ください)。

この地図、特に(2)の方を見ると、「下山総裁は短い時間の間にあちこちで目撃され過ぎではないか」という疑問が出るかもしれません。しかし、(2)の地図下にある縮尺を見ていただくとわかるように、この地図の端から端までで300m程度です。悩みながらゆっくり歩いたとしても成人男性の足では5分もかからないでしょう。一般的に不動産の「徒歩○○分」は徒歩1分=80mですので、300mなら徒歩4分たらずということになります。

ちなみに、常磐線、東武線と小川が作る三角形の地帯は現在公園になっていて、当時の面影はありませんが実際に線路際を歩いてみることが可能です。ただし、線路は現在かなり厳重に囲われてしまっていて、土手に登ることはできなくなっています。本日の写真は、子供を遊ばせているお母さんたちに不審そうな目を向けられながら公園の中の遊具に上って轢断現場方面を撮影した写真です。

津山事件: 70年目の新証言 その2

以前ちらっと書いた週刊朝日2008年5月23日号の「実録 津山30人殺し 『八つ墓村』事件70年目の新証言」についてのことだと思いますが、コメントでご質問をいただいたので検証してみます。

質問なのですが「津山事件報告書」には、犯行当日の夜に貝尾部落のお堂で
睦男と村人たちが宴会をした模様は書かれていますでしょうか
こんどお暇の時にでもご回答をお願いいたします。

結論から言うと、『津山事件報告書』には当日の夜睦雄と村人が宴会をしたという記述はありません。記事を書いた小宮山明希記者の勘違いか捏造かのいずれかであろうと思います。

まず、週刊朝日の当該の記述を確認しましょう。
shuukanasahi-080523週刊朝日2008年5月23日号より
これを見てわかるように、

その後、都井は自宅の裏手のお堂で、村の若者ら6、7人とともに宴会に参加していたという。宴会が終了したのは深夜0時頃。惨劇はその約1時間後に起きた-。

この記述はおじいさんの発言ではなく地の文として書かれています。「宴会に参加していたという」のソースは示されていません。

他方で、上述の通り『津山事件報告書』にはそのような宴会があったという話も、睦雄が参加していたという話も書かれていません。さらに、これまで70年間、筑波本や清張本をはじめ、誰一人としてそのような宴会があったという話をしていないことから考えても、宴会の存在はほぼ「ありえない」と否定してよいと思います。

もう一つ、宴会がなかったであろう証拠を。
事件の年の8月に近くの寺(真福寺)で合同慰霊会が開催され、その際に津山警察署長や西加茂村長、さらに村人たちが参加して「座談会」が開かれました。一部は筑波本(『津山三十人殺し』)にも引用されていますが、筑波本で省略されている発言に以下の内容があります。
houkokusho-seinenkaijpg『津山事件報告書』より

署長 当地には結核患者を故らに嫌う風習がありますか

寺井勝 左様なことはありません

署長 犯人の遺書には部落の人が結核に対する理解がない様に書かれて居りましたね

寺井勲 近所の者は皆結核と思うて居なかったのに都井は自分から結核であると言うて居ったのです

寺井勝 私は本人に対し君は勉強が過ぎて神経衰弱になって居るので結核ではないと云うてやって居りました、年末の夜警や青年の集会等には何時も都井君行こうではないかと誘うてやって居りましたが本人は何時も行けたら行くからと云うて丁寧な返事をして居りました。しかし大勢寄り合う場所は都井自身が避けて居りました、従て消防の年末夜警にも都井を組み合わせに入れませんでした、兎に角我々は本人に対し非常に同情して居ったので新聞紙に報道されて居た様に部落の者が嫌うた事はありません

もし当日に宴会があり、睦雄がそこに参加していたのであれば、この時に「当日も青年の集会があり、都井も珍しく参加しておりました」などと村人たちが睦雄を受け入れていた例として話に出すはずです。「実はその宴会はいわゆるヤリコンで、だから村人たちはその存在を隠しているのだ」という反論もあるかもしれませんが、それならそういう宴会だったことを伏せて話をすれば済むことであり、警察署長に村の親和性をアピールする格好の材料になったことでしょう。

また、貝尾には西加茂村役場書記の西川昇が住んでいたことも見逃せません。彼は職業柄警察の聴取に対して極力情報を提供しており、そのような宴会があれば彼を通じて警察に情報が提供されることは間違いないと思います。

そもそも、5月下旬は蚕の世話で忙しい時期であり、村人の一人(寺井元一)は

事件のあった夜、私は蚕の方が忙しくて、夜の一時半頃寝ました。

と証言しています(寝てすぐ事件で騒ぎになって起こされたとのこと)。この証言と、養蚕室で仮眠をしている時に襲われた被害者が多かったことから考えても、0時前に働き盛りの青年が集まってのんびり宴会をするような季節ではなかったと思われます。これも宴会がなかったであろう傍証です。

この点以外でも、今になってこの週刊朝日の記事を読み返すといろいろとツッコミどころが多いですね。当時私が書いたエントリでは薦めてますが、正直あまりオススメできる内容ではないことに改めて気付きました。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: アルネ津山問題

しばらく更新できそうにないと書いた舌の根も乾かないうちの新エントリですいません。

「アルネ津山問題」というのが存在することを先日初めて知りました。

津山市の中心部に存在している総合商業・文化施設「アルネ津山」について、税金の無駄遣いだからヤメろという話があり、2005~2006年の市長リコールと出直し選挙はそのあたりが争点だったようです。

そのへんの政治的なお話しは、地元住人ではない私(本ブログ管理人)にはよくわかりません。しかし、個人的に2005年くらいから津山事件の調査を本格的に始めたこともあって、アルネ津山問題には共感できる部分もあります。アルネ津山は津山市の中心にある商店街のアーケードと続いています。商店街の駐車場にレンタカーを駐めてアルネ津山にある図書館へ歩いていく最中に、地方都市によくあるシャッター商店街を実感しました。インター近くにあるジャスコや、さらに郊外のホームセンター・スーパーの盛況も見ていますので、市の中心部に税金を投入してデパートを誘致するというやり方の有効性にはかなり疑問を感じたことも確かです。アルネ津山は隣接して音楽文化ホールも抱えており、私が訪問したときも地元の高校の音楽部による発表会が組まれていました。単純に商業的・経済的な問題だけを語るのは間違いかもしれません。しかし、結局のところ、よく言われる「ハコモノ」だけ作って中身のソフトをないがしろにしたツケが、ここでも「アルネ津山問題」として噴出しているのではないかと感じました。

ここで一つ提言です。現時点で、津山市近辺に津山事件に関する常設展示は存在していません。「八つ墓村」という大ヒット映画の題材にもなったこの事件を観光資源として活用しないのは、あまりにも「もったいない」と考えます。例えば、アルネ津山の中にある津山市立図書館にコーナーを設けるとか、加茂町歴史民俗資料館に常設展示を作るとか、その程度でもある程度の誘客効果はあるでしょう。常設までいかなくても、大手旅行代理店とタイアップして「津山事件ツアー」を組めば、それなりの誘客効果はあると思います。洋学博物館やその他の津山市として売り込みたいものと組み合わせて、例えば「津山ホルモンうどんと津山事件を訪問する2日間」でもいいと思います。

「このような凄惨な事件を見せ物にするのか」という遺族感情から来る反対意見はあるでしょう。しかし、このような凄惨な事件(私が知る限り、世界でもトップ5に入る大量殺人事件です)だからこそ、現代にも通じる教訓や、現代人にも共感できる部分があると思います。

「負の世界遺産」というものがあります。広島の原爆ドームや、アウシュビッツの収容所など、人類がこの世に引き起こした悲惨さを後世に伝えるために「世界遺産」に指定されたものです。津山事件に関しても、内容に充分配慮する必要はありますが、地元に相応の利益を配分しつつ観光資源化する方法はあるのではないかと考えます。関係各位のご検討をいただけると幸いです。

狭山事件: 両墓制について

「埋め墓」
「埋め墓」:詣り墓からは100~200mほど離れた、寺の裏手の墓地のはずれにある

「詣り墓」
「詣り墓」:「拝み墓」とも。寺の表側の墓地にある

前回エントリで再度調査・確認の必要があるとした、被害者宅における「両墓制」の可能性について、改めて現地調査を行いました。参加者は、伊吹隼人氏と新井泉氏です(「狭山事件を推理する」サイト管理人氏は都合により不参加)。

結論から申し上げると、「両墓制」は宗派とは関係ない土着の習俗に近いものであり、真言宗智山派だから両墓制ということはないこと、狭山市内で両墓制を行っていた区域は入間川沿いの一部の区域(被害者宅とは相当離れた地区)に限られることが改めて確認されました。従って、「狭山事件を推理する」サイトにおける被害者宅は両墓制ではなかったという議論は、現時点では妥当なものであることがほぼ再確認されたと言ってよいと思います。

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狭山事件: Y枝地蔵

Y枝地蔵Y枝地蔵

被害者宅の前から撤去されたあと行方がわからなくなっていたY枝地蔵について、「現在別のところに移転されている」という情報をコメントでいただき、独自に調査したところ実際にありました。情報ご提供者の意志を尊重し、詳しい場所は差し控えますが、写真のみ証拠としてアップさせていただきます。

台座の部分に「枝地蔵」と書かれているのがご覧いただけると思います。

なお、この地蔵が現在安置されているお寺は被害者家(N家)の菩提寺で、宗派は真言宗智山派とのことです。狭山市内で両墓制を行っていた寺と同じ宗派ということになりますので、一度はほぼ否定された「被害者宅が両墓制だった」という説について、再度確認・調査が必要になってくるかと思います。