睦雄が自殺した後、遺体は都井本家があった倉見まで運ばれ、葬儀が行われたそうです。
お姉さんは「立派な石塔を作ってあげたい」と願ったものの、姉の夫の反対で倉見川から拾ってきた石を墓石代わりにしたとのこと。
睦雄が自殺した後、遺体は都井本家があった倉見まで運ばれ、葬儀が行われたそうです。
お姉さんは「立派な石塔を作ってあげたい」と願ったものの、姉の夫の反対で倉見川から拾ってきた石を墓石代わりにしたとのこと。
最初に:「津山事件 写真」あるいは「都井睦雄 写真」で検索してこちらに来訪された方は、こちらのエントリをご参照下さい。こちらのページもどうぞ。
津山事件直後の新聞記事です。
都井睦雄が射撃練習をしていた松の木の写真、使った猟銃(5連発を9連発に改造したもの)などが掲載されています。松の木には150発以上の弾丸が撃ち込まれていたとのことです。前回のエントリに書いたとおり、海外の同様な銃乱射事件では、無差別にぶっ放すだけなので死者と同じくらい負傷者を出していますが、睦雄の場合は死者30人に対して負傷者3人で、狙った相手にはきっちりぶち当てていたことがよくわかります。悪口を言わなかった相手は見逃したりしていますし、その気で無差別でやっていればもう少し記録は伸びたことでしょう(不謹慎)。
犯人の都井+殺された30人で合計31個の棺は当局が手配したと書かれています。都井自身はこの村ではなく倉見(祖母の嫁ぎ先、事件があった貝尾部落からは4~5km北)に葬られているので、 そこまで棺に入れられて運ばれたんでしょうか?
今日は津山事件の方を。
この事件は通称「津山事件」と呼ばれていますが、実際には津山郊外の西加茂村で起こった、22歳の若者が同じ村の村民30人を銃や日本刀で殺害、3人に重軽傷を負わせた後自殺した事件です。詳しくはこちら。
この事件の被害者の一人で、事件の原因ともなった女性(筑波昭の『津山三十人殺し』で「寺井ゆり子」という仮名になっている女性)が逃げ込んだ先の娘さんが事件について語っています。
前回のエントリで採り上げた品触の写真が真っ黒になっていて見えにくかったので、毎日新聞の方からもう少し見やすい写真を。
広○さんが第一発見者として採用されなかった理由は、広○さんが死体と共に「あるもの」を発見したからではないか、とされています。
ここで重要な証言として、ご本人が、(イモ穴の)「中をのぞくと一目瞭然(被害者)ちゃんの所持品と思われる ものが見えた。だからこの近くが怪しいと思って探したんだ」と言っています。事件から7年経っていることもあってか、その「一目瞭然所持品とわかるもの」が何だったかについては「カバンだったか上着だったか…」とあやふやになっていますが、いずれにしても、すぐ近くのイモ穴にのぞいてすぐわかるような状態でそういったものを捨てていたということは、犯人は死体を隠すつもりがなかった(ある意味では早く発見してほしかった)ものと考えられます。
また、これがルポライターの栗崎氏が言うようにカバンだったとすると、どこへ行ってしまったのでしょうか?刑札で保管されていて、後に「三大物証」の一つとして「自白」に基づいて「発見」されたカバン(このカバンについてもいろいろ疑惑が持たれたりしていますが、それはまた別の機会に)になったんでしょうか。
死体発見者が2人いた、という話です。この項、「発見者」お二人の名前のイニシャルがたまたま同じなのと、記事中でも完全に伏せてしまうとわけがわからんので、仮に橋×さんと広○さんと させていただきますが、橋×さんが法廷に呼ばれて死体発見の経過を証言したのに対して広○さんは呼ばれもしなかったとのことです。この証言を読むだけでもめちゃくちゃですね。死体が埋められていた深さが30cmくらい(実際には90cm)だったり、「固いために、いや、やわらかいために…」(どっちなんだ)と言ってみたり。(次回に続く)
6月にはこんな報道もされていました。
確定判決通りの時間経過であれば犯人が自転車を納屋に持ってきたのは7時30分~40分の間で、当日は土砂降りの雨だったためほぼ真っ暗な状態だったと考えられます。そんな時に門の前から庭にいた人間の顔が見えるはずもなく、「それが石川さんに似ていた」というのは証言としては何の意味もないと思います。しかしこの、「7時過ぎに被害者宅で自転車を押している人を見た」というのは事実なんでしょうか?そういう人間が存在していたとすると、「自転車はどこかに置かれていたものを長兄が車で持って帰ってきたのではないか」という推理は成立しないことになります。自転車のサドルは濡れていなかったとされているので、自転車を押している人がいたということ自体が刑札のでっち上げである可能性が高いのですが、ちょっと気になる証言です。