『狭山事件の真実』が尼で配送されてきたので読了しました。「岩波文庫版へのあとがき」以外、特に大きな加筆修正はなかったように思います。「文庫版へのあとがき」は、ハードカバー版が出た2004年以降の裁判の経過を詳しく解説しています。再読して、前回のエントリで書いた「冤罪事件としての狭山事件の解説における一つの到達点」という評価は変わりません。狭山事件初心者の方は伊吹本とこの本の2冊をとりあえず読まれることをお勧めします。
『狭山事件の真実』が尼で配送されてきたので読了しました。「岩波文庫版へのあとがき」以外、特に大きな加筆修正はなかったように思います。「文庫版へのあとがき」は、ハードカバー版が出た2004年以降の裁判の経過を詳しく解説しています。再読して、前回のエントリで書いた「冤罪事件としての狭山事件の解説における一つの到達点」という評価は変わりません。狭山事件初心者の方は伊吹本とこの本の2冊をとりあえず読まれることをお勧めします。
本件、こちらのコメントで教えていただきました。
2004年の鎌田慧さんの本『狭山事件-石川一雄、四十一年目の真実』が岩波現代文庫から再版されるとのことです。個人的には、この本が岩波というメジャーな出版社から再版されることで、再審へ向かっての世論の関心がさらに高まることを期待します。
これまで何度も取り上げていますが、「狭山事件」という用語には大きく分けて2つの意味合いがあります。
「狭山事件を推理する」サイトでも取り上げられている通り、伊吹さんの新著を上記1.の方面からの最高峰とすれば、鎌田本は2.の方面からの一つの到達点と言えるでしょう。もし「狭山事件」について何も知らないという方がいて、事件の概要を知りたいということであれば、この2冊を読めば全体は見えると思います。
本の性格から考えてあとがきを含めた加筆部分はそれほど多くないと思いますが、単行本の版元であった草思社が民事再生になったこともあり、事件に興味はあるがまだこの本を読んでいないという方がもしいらっしゃれば、一度目を通しておいて損はないと思います。
以下のしょーもないコメントは、名前を変えていますが全て同一IPアドレス202.221.129.10からの書き込みです。
そのIPアドレスをWHOISしてみたところ、以下のような状況でした。
Network Information: [ネットワーク情報]
a. [IPネットワークアドレス] 202.221.129.0/28
b. [ネットワーク名] SPR-ED-NET
f. [組織名] 札幌市教育委員会
g. [Organization] Sapporo Board of Education
m. [管理者連絡窓口] YT11426JP
n. [技術連絡担当者] SK12891JP
p. [ネームサーバ]
[割当年月日] 2002/01/15
[返却年月日]
[最終更新] 2009/08/17 14:50:08(JST)
IPアドレスでググってみると、このIPでいろんな掲示板に書き込みしたりHPを見に行ったりしてるようです。
札幌市教育委員会の内部から書き込みしてるのか、教育委員会からどこかの学校に貸し出したIPで生徒が書いてるのか、はたまたプロキシか何かを運用していてどっかの誰かにクラッキングされてるのか、事情は存じ上げませんが対策した方がよろしいんじゃないでしょうかね。書き込みしている時間も真っ昼間だし。
前回のエントリに伊吹さんからいただいたコメントを読んで、一つ重要なことを書き忘れたことに気がつきました。
4月29日の日記でもう一つ、「今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに」も気にかかっています。
などなど、疑問は尽きないところで、情報が少なすぎて推理すらできません。
当初「狭山工業高校の××××」に行く予定だったのが学校行事で行けなくなったとすると、被害者の方から「ごめんなさい、行けなくなりました」という連絡をしたと思われ、その際に「じゃあ、5月1日に待ち合わせて…」という話になった可能性もあります。しかし、そうなると(しつこいようですが)なぜ5月1日の待ち合わせを日記に書いていないのかという疑問が残ります。
伊吹さんのご指摘のように事件前日の4月30日分が公開されていないことを含めて、前後の日記に何かしら事件と関係ある記述があったのではないかという気がします。一刻も早い全面的な開示を望みます。
前回の続きです。
第一ガード・第二ガードにおいて目撃された際の状況から考えて、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことはほぼ確実と思います。しかし、当時の女子高生が全然関係ない人に呼び出されてそれに応ずることはまずないとも思います。また、前回も書きましたが(新伊吹本でも指摘されていますが)、当時はケータイも出会い系もありません。知人に事前に呼び出されていたとすると、考えられる可能性は下記の通りになります。
上の5.について、4月29日の日記には以下のような内容があります。
4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。
(大きく間が空いて)
今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。
川越から伊勢崎まで約60km、関越自動車道(1971年開通)がない当時の道路事情では、バスで片道2時間程度でしょうか。そのバスの中で、他校に行った中学時代の同級生と会って「誕生日にお祝いをしよう」と誘われて呼び出された可能性があるのではないか、と個人的に思っています。
その一番の理由は、5月1日の日記に待ち合わせが書かれていないからです。以前にも書いたように、被害者は日記の左の方にあらかじめその日の予定を書き込んでおいて、当日が終わってから本来の意味での日記を右の方から書いていたと私は考えています。つまり、予定を書き込む時点で待ち合わせの話があったのであれば日記に書かれているはずで、ある程度直前になって予定を伝えられたのではないかと思います。もちろん、当日(5月1日)あるいは前日(4月30日)の登下校の際に伝言されたということもありうるでしょうが、事件の2日前の4月29日に、同年代の高校生と同じバスで往復4時間も揺られていたというのはタイミングが良すぎるような気がします。
家族に見られることをおそれて待ち合わせを書かなかったという推理もできるかもしれません。しかし、被害者はMHくんに対する熱烈な恋心も日記に包み隠さずに書いていますので、待ち合わせだけ書かないということはないと思います。
交歓会に参加した埼玉県側の200人の生徒のうち、「メッセンジャー」役が務まる人物-被害者の中学時代の同級生で、犯人グループともつながりがある生徒-はいなかったのでしょうか。
保坂展人さんのブログで、東京都青少年健全育成条例を審議した部会の部会長である首都大学東京の前田雅英教授が、保坂氏の国会委員会における対話を捏造してまで創作物規制論を進めたことが書かれています。
さもありなんというか、児ポ法を含めて創作物の単純所持規制を推進している人たちの人格や品性がよく現れている話だと思います。今回は国会委員会の議事録が残っていたので簡単に検証ができ、捏造であることが明らかになりましたが、これが記録に残らない話であれば「保坂氏が児童ポルノを推進しようとしてアグネス・チャン氏に論戦で圧敗した」という前田雅英氏の捏造が一人歩きして、保坂氏の人格や能力を貶める結果になったものと思われます。
前田教授をはじめとする規制推進派の人たちは、目的のためなら証言や証拠を平気で捏造することが実証されたと思います。青少年条例や児ポ法が成立したら、この調子でガンガン証拠が捏造され、冤罪が生み出されていくことでしょう。
冤罪事件における証拠捏造がいかに簡単に、一般的に行われているかについては以前のエントリで書きましたので、そちらをご参照ください。
新・伊吹本を読みました。
旧版と比べてかなり加筆がされています。ページ数も213ページから271ページへ、27%アップしています。ただし、文字組が変わっていますので、文章量としてはそこまで増えていない感じです。感覚的には15~20%くらいの増量かな?
大きな加筆部分は下記の通りです。
特に大きなトピックとして、「本物の」第一発見者のインタビューがあります。場合によっては石川一雄さんの裁判にも影響があるかもしれない内容です。ここで内容について詳しく書くのは差し控えますので、興味がある方は直接本をご参照下さい。
もう一つのトピックは、被害者の呼び出しについてです。犯人が被害者にどうやって最初の待ち合わせを伝えたかについては、これまでの推理本ではあまり重視されていませんでした。長兄犯人説が主流であったため、家で直接話をすれば済む、という考えだったこともあるかと思います。また、刑札・検察は石川さんの通りすがりの犯行というシナリオを書いてしまったため、そもそも待ち合わせを想定していません。
しかし、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことは各種の証言からほぼ間違いないと思われ、その上で外部に犯人がいるという立場に立つと、犯人(あるいは犯人グループ)がどうやって被害者に待ち合わせの日時を伝えたのかというのはかなり大きな問題になります。
昭和38年当時、当然ですがケータイなどというものはありませんし、インターネットの掲示板もケータイメールも、もちろん出会い系もありません。自宅に有線電話はありましたが、そこへ電話して被害者自身が出るとは限りません。被害者に限らず女子高生は暗くなる前に家に帰るのが当たり前(というより当時、途中の道には街灯もなく、暗くなると大げさでなく家に帰れないような場所でした……このあたりは新伊吹本の安田先生のインタビューを読むとよくわかります)でした。そうなると、家の外で待ち合わせの計画を伝えられる場所と機会は自ずと限られてきます。
すいません。この先を書き始めたら思ったより長くなりそうなので、日を改めてまとめさせていただきたいと思います。
一つだけ書いておくと、私の推理は伊吹氏とは多少(それほど大幅にではありませんが)異なります。
サーバの契約更新メールに気付かずに放置してしまい、本日一時的に本サイトが見られない状況となっていました。
ドメインも一時廃止になっていたため、DNSの関係でしばらく接続不調になるかもしれません。お詫びいたします。
伊吹隼人氏の改訂版『検証・狭山事件―女子高生誘拐殺人の現場と証言』が発刊されたとのことです。
まだ私も内容を確認していませんが、伊吹氏から伺った限りでは新証言を含むかなり大幅な改訂がされているとのことであり、狭山事件に興味がある方は是非ともご購読ください。
前回エントリで書いた場所が睦雄が自殺した場所ということでほぼ確定だと思うのですが、一つだけ気になることがあります。コメントの方に書かせていただいた、事件の翌年の5月に岡山地検の中垣検事が現地を訪問したレポートには、実は続きがあります。
麓で教わった場所も来てみると頗る漠然としていた。数尺、積み重なった杉の病葉を踏みしめ、灌木の繁みを分けて、それらしき処へ出て見た。そこからは貝尾の部落は一望の下にあった。遥かに西加茂小学校も俯瞰し得る。犯人の生地加茂町倉見も見えるとのことだが、わたしたちにはよくわからなかった。
ところが、上の写真で「山頂」から見える2つの学校は加茂小学校と加茂中学校で、旧加茂西小学校(現在のウッディハウス加茂の場所)は山の向こう側になって見えません。
なお、1975年(昭和50年)に加茂小学校と統合された加茂西小学校が現在のウッディハウス加茂の位置にあったことまでは、加茂小学校に直接問い合わせて確認しましたので確実です。昭和13年の西加茂尋常高等小学校が統合直前の加茂西小学校と同じ位置だったかどうかについては現在のところ確認する方法がなく未確定ですが、常識的に考えるとおそらくは同じ位置であろうと思います。
上の地図は、発行は昭和51年ですが現地調査は昭和48年とのことで、昭和50年に統合・廃校になった小学校が地図上に残っています。「山頂」からの写真と見比べてみていただけるとわかるように、加茂西小学校は手前の山のちょうど向こう側になって「山頂」からは見えないことになります。
上の地図でわかるように、昭和40年代まで加茂の中心部にはやたらとたくさん学校がありました。そのあたりの経緯はこちらのページに詳しく説明されています。ただし、その記述によると戦前の加茂小学校はいったん廃校になって中学校になったようなのですが、現在の加茂中学校は旧東加茂村地域にあり、どうもその辺がよくわかりません。ちなみに、現在の福祉センターや郷土歴史資料館があるあたりには(新制)高校もありました。おそらく昭和29年に加茂高校として設立され、津山東高校加茂分校に再編後昭和60年に廃止(津山東高校へ統合)されています。
話を元に戻すと、一番ありそうなのは加茂小学校を西加茂小学校と見間違えたということです。中垣検事が加茂を訪れたのはこのときが初めてのようですので、この山間の町にこんなにたくさん学校があるとは思わなかったのでしょう。