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津山事件: 都井睦雄が自殺した場所

昨日ふたたび荒坂峠を訪問しました。その気になったのは、「加茂の三十人殺し」Webページの記事がきっかけです。

前回は目が節穴で気がつきませんでした、先ほど居た青いビニールシートの小屋が見える!
貝尾部落もばっちし見えます。(肉眼でも地理に詳しければなんとなくわかる)
睦雄はここより高い山頂で眺めたし当時木も雑木で低いはずだし懐中電灯の灯りなら確認できるはず。
まして坂本(元)部落は手前で近く岡田家襲撃現場はよく見え電気もついているし騒ぎ声も聞こえたでしょう

前回の経験から木々の芽が吹き草花が生えるてしまえば景色どころか山歩きもしにくくなる。
今の現状はハゲ山状態に近く前回から心残りであった山頂達成が容易であると考えたからです。

前回と同じく右わきの登り道へ。本日はこの山の頂上まで行きました。
途中から山頂までは以前からあったような窪んだ道がありますがイバラ道で歩きにくく横上道から
登りました(お地蔵様設置場所から10分位で山頂へ)

これを読んで、以下の2点を確認したいと思って現地(荒坂峠)に赴きました。

  1. 荒坂峠からも貝尾が見えること
  2. 道路の頂上付近にあるお地蔵様の横から、上の方に登れること

特に1.に関して、私は荒坂峠から貝尾は見えないと思っていたので意外でした。ページにある写真でも確かに貝尾部落が見えていますので確実とは思うのですが、自分の目で確かめないと気が済まない性分なもので。

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お地蔵様

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お地蔵様の横から上がる道

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道は途中で一度、完全に草と木にふさがれてしまっています
(注)春以降はここより上に行くことはかなり難しいと思われます。特に、事件が起きた5月頃に現地行きを企画している方は、チェーンソーでも装備して草木を切り開く必要があるでしょう。そもそも今の季節でもかなり危険なので、よい子の皆さんは(悪い大人の皆さんも)マネをしないでください。何らかの損害を被った場合でも本ブログ管理人は一切責任を負いません。

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突破すると開けた場所に出ます。上のWebページで「頂上」と表現されているのはこの場所と思われます

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念のためさらに奥に行ってみると、小高い台地になっているところが見えました。これが「仙ノ城」山頂かな?

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さっき見えた「山頂」に何とかたどり着きましたが、実は後ろにもっと高い場所がありました。しかしさすがに体力が続かないので、とりあえず先ほど見えていた手前の台地に登りました。麓からずっと走って登ってきた睦雄の膂力に、改めて感嘆した次第です

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この「山頂」はほぼ平らになっています。「山頂眺望好き場所にして小松雑木等繁茂する中間の約十坪(引用注、約30平米)くらいの雑草地」という検視調書の描写にほぼ合致していると思われます。もしかしたら、後ろ側のもっと高い場所にもこういう見晴らしがいい場所があるのかもしれません

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「山頂」からの眺め。「眺望好き」というにふさわしい絶景です
「おーれはー かわーらーのー かれーすーすきー」と口ずさみたくなります
ちなみに、登りはじめのお地蔵さんは右下の森のさらに下の方になります

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上の写真の右の方をズームして撮影。確かに貝尾が一望できます
「加茂の三十人殺し」ページ内のこちらの写真と見比べると、見下ろす角度の違いがわかると思います

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現地で見たときはこの奥が倉見ではないかと思ったのですが、方角や見えている建物から考えて知和方面のようです。その先には物見や阿波があり、物見から智頭経由鳥取方面につながっています

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睦雄や父母の墓がある倉見は方角的にはこの写真のもう少し左の方。やはりここからは見えないと思われます

というわけで、以前書いた「荒坂峠の山頂から貝尾は見えない」というのは間違いでした。ここにお詫びして訂正させていただきます。

この台地が睦雄が自殺した場所である可能性はかなり高いと個人的には考えています。津山事件の現地行を始めて3年。ようやくここまでたどり着いたか、と柄にもなく感慨に浸ってしまいました。

今回の現地行のきっかけをいただいた加茂の三十人殺しサイト管理人様に、改めてお礼を申し上げます。

津山事件に関する本はこちら

 

下山事件: 吉松富弥氏証言

全研究下山事件サイトにて、吉松富弥氏の証言がアップされています。音声ファイル(YouTube)と文字起こしと両方あります。吉松氏は事件当時下山家の近くに住んでおり、長男(定彦氏)と友人だった縁もあって下山家に出入りして総裁とも顔見知りだったとのことです。

証言の内容は、平成元年7月21日付毎日新聞にも掲載された、

彼は下山氏の死亡が発覚した直後、直接芳子夫人から「夫は自殺したと思うが口外しないでほしい」という言葉を聞いておられます。

というものです。証言は他にもいろいろなエピソードをまじえており、当時の世相などを知る上でも参考になりますので、下山事件に興味がある方は是非ともご参照ください。

ただし、60年以上前のことでもあり、かなり明らかな事実誤認もいくつかあります。一番大きいのは、下山総裁の奥様を高木子爵の娘さんと誤認している点でしょうか。下山事件の前年(昭和23年)に自殺した高木子爵は高木正得さんで、芳子夫人の父は高木得三さんです。「得」の字が共通していますのでもしかしたら縁者である可能性は否定できませんが、芳子夫人がつぶやいたと言われる「高木子爵のようにならなければいいが…」という発言からしても、縁者である可能性も低いと思います。

他にもルミノール反応と死後轢断の鑑定を混同していたりなど、かなり大量にツッコミどころがあります。

そのことをもってこの吉松証言に信憑性がないというつもりはありません。逆に、吉松証言をもって下山総裁が自殺だったことが確定したなどと言うつもりもありません。ただ、非常に個人的に吉松氏の話に真実味を感じるのは、芳子夫人に誘われて教会に行ったくだりです。「賛美歌」と書いていたり(芳子夫人が吉松氏を連れて行ったのはカトリック洗足教会だと思われるので、正式には「賛美歌」ではなく「聖歌」です)、「お父さんの冥福を祈る」(キリスト教には「冥土」がありませんので「冥福を祈る」ことはありません)といったご愛敬はありますが、

ちょっと葡萄酒を飲んで、パンみたいなお煎餅みたいなものをいただいたりして、それは司祭さんから

という叙述には説得力があると思います。

私(本ブログ管理人)は一応カトリックの洗礼を受けた信者です。ミサにおいて、ご聖体を受けることができるのは洗礼を受けた成年の信者だけで、未信者(という単語も個人的にはどうかと思うのですが)は聖体拝領はできず祝福を受けるだけということになっています。しかし、未信者が多くミサに参加するような大きな教会では聖体を渡す前に「信者ですか?」と確認されますが、それ以外の普通の教会では確認もせず聖体を渡されることが多いのも事実です。また、この「聖体」は教義的には「パン」ですが、見た目は小さい煎餅のようなものです。そのあたりを踏まえると、この話は信者ではない吉松氏がカトリックのミサに参加した体験談として、かなりの信憑性を感じます。信者であればこういう間違いはしないだろうし、逆にミサに参加したことがなければこういう書き方はできないだろうからです。
また、普通の日本人の認識では、キリスト教の儀式を主宰するのは「神父」あるいは「牧師」でしょう。それを「司祭」(カトリックのミサの中で、実際に司祭のことを「また司祭とともに」などと言及します)と正しく表現しているところにもかなり高い信憑性を感じます。

一つ他殺説に有利な指摘をさせていただくと、カトリックでは自殺を否定しています。従って、夫人がカトリック信者だったことをもって総裁もカトリック信者だったと仮定すれば、総裁が自殺するのはおかしい、ということになります。しかし、総裁自身がカトリック信者だったという証拠はなく、そもそも夫人がカトリックに帰依するようになったのが下山事件の前だったのか後だったのか、確認するすべもありません。さらに、カトリックの国で自殺がまったくないわけでもありません。したがって、これも現時点ではどちらとも確認できないというのが公平なところではないかと思います。
事件後、夫人が「他殺」と言うようになった理由の一つには、カトリックが自殺を禁じていることがあるのかもしれません。

芳子夫人が事件後公式には「他殺」の線を押し通した理由について、証言の中では恩給が動機ではなかったかという指摘があります。下山家の財政が、その「国鉄総裁」という肩書きにもかかわらずかなり厳しかったのは確かなようで、その中で戸主である下山総裁が亡くなった後で4人の子供を育てるために恩給を得たいという動機が働いたのではないかという指摘は、私の個人的な推測と合致しています。

上記の感想はあくまでも私(本ブログ管理人)の個人的感想であり、絶対的な事実ではないことを改めてお断りさせていただきます。

津山事件: 玩具用ピストル

pistol『津山事件報告書』より

今回の画像もおそらく本邦初公開だと思います。キャプションの「玩具用」は「玩具様」の誤植かもしれません。とりあえず「玩具用」でも意味は通るのでそのままタイトルにしました。

スキャンした写真だと細かい部分がちょっと潰れてしまっていますが、見たところこれは手作りのようです。おもちゃとして遊ぶ程度の弾丸(例えば輪ゴムとか小石程度の)も撃てなさそうな構造なので、殺傷あるいは射撃練習が目的ではなく、おそらくは関係を迫る相手の女性を脅す目的で作成したものではないかと思います。暗がりでこれを突きつければ本物かどうかわからないだろう、ということでしょうか。

事件後に自宅から発見されたとのことで、いつごろ製作したものかわかりません。睦雄が本物の猟銃を手に入れたのは昭和12年7月頃であり、それ以前であることは確実ではないかと思います。睦雄が村の女たちに性的なちょっかいを出し始めるのが昭和10年~11年初頭、万袋医師に肋膜の診断を受けるのが昭和10年12月31日、寺井マツ子の供述にある

睦雄方に部落の電燈代の集金に行つたとき其の祖母が不在であった折同人から関係をしてくれと何度も言われたが夫ある身で左様なことは出来ぬと拒絶したところ、関係してくれなければ殺すといって脅かされた。

というのが昭和11年春頃とのことなので、おそらくは昭和11年~12年初頭頃に製作したものではないかと推測します。

いずれにしても、以前からこのようなものを自分で作っていたことから考えると、筑波本にある

この段階で銃を購入した真の理由は、第一に銃を所持することによって、西川とめたちに無言の圧力をかけて、彼女たちの悪宣伝の口を封じること、第二に金品でもなびかぬ若い娘たちを、銃で脅して自由にすることの二点ではないかと考えるのが、自然のように思える。

という推測は、ある程度当たっている気もします。ただし、その後の行動を見ると、かなり早い時期に具体的な殺意が固まっていたようにも思います。このあたりは、また改めて論じさせて頂きたいと思います。

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津山事件: 珍案歩哨

shounenkurabu少年倶楽部 昭和12年12月号 『津山事件報告書』より

本日の画像も相変わらず『津山事件報告書』からの引用です。少年倶楽部昭和12年12月号に掲載された漫画の切り抜きとのことで、鹽田(塩田)末平検事は

犯人は少年倶楽部を愛読し居りその犯行当時の服装も左の切抜漫画からヒントを得たるに非ざるかと思われる。

と書いています。
今だったらマスコミが大喜びで「マンガ脳が生んだ悲劇」「検事も認めたマンガの危険性」などと書き立てることでしょう。

松本清張氏は犯行当日の都井睦雄の格好について

この地方では、夜間川漁をするとき懐中電燈一個を手拭などで頭上に結びつける風習がある。睦雄はこれにヒントを得たものと思える。が、また一方では、彼が愛読していた雑誌「少年倶楽部」昭和十二年十二月号第十頁に剣付銃を構えた日本兵が中国人を誰何している画が載っているので、これに着想を得たようにもとれる。

と書いています。この描写を読んだだけではなんのことやらわかりませんが、本日の画像を見て頂くと意味がわかるのではないかと思います。

個人的に、松本清張氏は「闇に駆ける猟銃」を書くにあたって現地取材はしていないのではないかと思うので、上記の「この地方では…」以下の部分の信憑性には多少の疑問を持っています。しかし、本日ご紹介した画像をもって「睦雄はこの絵を参考に鉢巻きに懐中電燈を結びつける装束を考えた」と言い切るのもどうか、この辺、何かまだ明らかになっていない「元ネタ」があるのではないかという気もします。あくまで単なる個人的意見ですし、推測ばかりで申し訳ないですが、現時点ではそう考えています。

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津山事件: 筑波昭氏とのコンタクトに失敗

『津山事件報告書』を入手して以来、『津山三十人殺し』との差が気になってしょうがないため、筑波昭氏に連絡をとってみました。

周知の事実とは思いますが、筑波昭さんは黒木曜之助という別名義をお持ちで、ノンフィクションは筑波昭、推理小説は黒木曜之助とペンネームを使い分けていらっしゃいます。黒木曜之助名義の連絡先が公開されているので、そちらの方に手紙と電話で連絡をとってみました。

お伺いしたのは、

『津山三十人殺し』には、『津山事件報告書』には記載されていない内容がかなり描写されており、おそらくそれは筑波さんご自身の独自取材に基づくものと思う。その独自取材の概要について、お話しだけでも聞かせて頂けないか。

という内容です。

しかし、手紙のご回答はいただけず、お電話したところ「ちょっと仕事で忙しいので、ご返事できません」とのことでした。

一応、事実のみこの場を借りてご報告させていただきます。

筑波昭さんは昭和3年生まれとのことですので、今年で82歳でいらっしゃると思います。是非とも、後世のためにも「事実」がどうなのか証言して頂けないかと思うのですが、なかなか難しそうです。

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津山事件: 中村一夫『自殺―精神病理学的考察』

掲題の本を読みました。

感想。

「参りました」

津山事件に対する「愛」では人後に落ちるものではないと自負していましたが、この本の著者には負けました。それほど凄い本です。津山事件について書かれているのは本の中の1つの章で、全体で200ページ弱のこの本の中で40ページ程度だけですが、そこに著者の津山事件と都井睦雄に対する想いがぎっしり詰め込まれています。この本のオリジナルは1963年に出版されたものとのことですので、筑波本よりも20年近く前ということになります。

例えば、津山事件と都井睦雄について採り上げた章の冒頭には年表が出ています。
この年表は『津山事件報告書』にも出ていないもので、著者が独自に編集したものと思われます。その内容も「事実」だけを過不足なく採り上げており、ある意味で今後の津山事件研究のリファレンスは筑波本よりもこの本にするべきでないか、という気にすらさせられます。

著者はかなりの現地取材もしています。1960年代前半であり、睦雄を診察したことのある只友医院の院長も当時まだご存命で、直接話をして医師同士として意見交換しています。さらに、祖父が亡くなったのが大正7年7月であることにも言及しており、これも報告書には出ていない、現地へ墓を見に行かないと得られない情報です。そういう、さらっと書いてあることがいちいち深い本です。

新幹線もない、東名高速道路も中国縦貫道もない、東京から現地に行くだけでまる1日、下手をすると片道だけで2日かかるような時代に、専門外のことでこれだけの調査をする。そこに著者の津山事件に対する「愛」が感じられます。

もちろん、本題である睦雄の精神分析も頷かされるものがあります。

このような本があったことを知らずにいた自分の不明を恥じます。著者の中村一夫氏の名前が一般的すぎて、どういう経歴の方かネット検索だけだとよくわからないのですが、もしご存命であれば是非一度お会いしてみたい方です。

(2010年1月26日追記)
中村一夫氏について、この本の奥付には著者紹介が何も書かれていませんが、オリジナルである紀伊国屋新書版(1963年9月30日初版)の奥付によると下記の通りです。

1916年埼玉県生まれ。東北大学医学部卒。東京大学医学部精神医学教室。

1969年に出版された『日本の犯罪学』に論文を寄稿しており、その時には所属が「中村病院」となっていますので、大学をやめて開業された(あるいは親の病院を継いだ)ようです。ただ、埼玉県内に精神科専門の中村病院という病院があるので電話で問い合わせてみましたが、中村一夫なる人物には心当たりはないとのことです。

それと、復刻版がアマゾンで18,000円とかの「コレクター価格」のものしかないようなので、旧版のリンクも貼っておきます。内容はどれも一緒です。

(2011年1月12日追記)
その後の調査で、中村一夫氏の「中村病院」は現在も埼玉県内にある中村病院とは別物であることが判明しました。詳しくはこちらのエントリをご参照ください。

  

津山事件: 都井睦雄の写真 その2

toimutsuo3都井睦雄の写真『津山事件報告書』より

筑波本に掲載されていた都井睦雄の写真は、報告書の写真をトリミングしたもののようです。元の写真を置いておきます。

鹽田末平検事の論文によると、睦雄は身長5尺5寸(約167cm)、体重16貫位(約60kg)とのことです。昭和22年の「国民栄養の現状」によれば、昭和22年時点で31~40歳の男性(睦雄と同年代)の平均身長は160.6cm、体重は54.35kgとのことですので、それと比較してもかなり大柄かつ恰幅の良い体格だったことがわかります。写真でも頬がふっくらとしており、肩幅も広く体格の良さを感じさせます。

この写真で睦雄が着用している服は詰め襟になっています。ぱっと見たときは国民服かと思いましたが、国民服は同じ詰め襟でも立折り襟なので違うようです。青年学校の制服ではないかという推測もできます。
いずれにしても、犯行当日の服装は「黒の詰襟」であることが報告書にも明記されていますので、この写真の服ではないと思われます。

津山事件に関する本はこちら

 

その他: 足利事件のDNA鑑定について

足利事件のDNA鑑定について、「インサイドアウト脳生活。」さんにて専門家による解説がなされています。

さすがに専門家だけあって、わかりやすく詳細な内容です。この手の科学の話は、妙に一部分だけ引用するとその部分だけが文脈から離れて一人歩きしてしまう危険もありますので、是非ともリンク先で原文をお読み下さい。「DNA鑑定」の実際がよくわかります。

ただし、「後編」の最後から2番目の段落(「冤罪の確率」)に関してはあまり賛同できません。当時の技術的限界によって誤判定が生まれ、そのために結果的に冤罪となってしまったのであれば誰も何も非難しないでしょう。足利事件で非難されるべきなのは、検察・警察が当時のDNA鑑定の科学的限界を承知した上で、DNA鑑定装置の予算を確保するために故意に菅家さんを冤罪に陥れた点にあると思います。

「検察や警察がそのようなことをするはずがない。妄想に決まっている」という方は、下記の時間経過をご覧下さい。

1990年5月12日 足利市内でMちゃんが行方不明に。翌日遺体発見。
11月 菅家さんを警察がマーク開始
1991年8月21日 菅家さんの捨てたゴミ(を無断で警察が回収しもの)にあった精液を大阪府警科警研にDNA鑑定依頼
8月28日 警察庁がDNA鑑定機器を全国へ導入するための概算要求
12月1日 菅家さんを任意同行。同日、DNA鑑定の結果を突きつけられた菅家さんが「自白」
12月26日 DNA鑑定機器導入が復活折衝で認められる

(この時系列は雑誌「冤罪File」 No.03より引用しました)

結局のところ、足利事件は、警察や検察の担当者がたかだか1億円程度の予算を確保するために故意に引き起こした冤罪事件であると私(当ブログ管理人)は判断しています。

そして、その目的のためにマスコミを利用するのが警察や検察のいつもの「手」であり、マスコミも嬉々としてそれに積極的に荷担してきたことは、下記のエントリで確認したとおりです。「100万人から1人を絞り込む能力」「スゴ腕DNA鑑定」などという明らかに実態にそぐわないキャッチフレーズは、どう考えてもマスコミの独自取材ではなく、警察や検察が記者に話したことを無検証・無批判で掲載しただけでしょう。

実は、これは今(2010年1月)問題になっている小沢一郎氏の政治資金問題と同じ流れです。小沢氏周辺が取り調べを受けていることを「国策捜査だ」と言っている人や政党がありますが、アホかと。あれは明らかに検察という一組織が可視化法案潰しのためにやっている組織防衛行動であって、「国策」などではないと思います。
念のために書いておくと、私は小沢氏が無実だとか小沢氏を逮捕するべきではないと言っているわけではありません。その辺は実際に証拠があるならどんどんやるべきでしょう。しかし、その捜査に検察を駆り立てている動機は明らかに可視化法案潰しであり、そのために最も効果的であろう小沢氏を狙い、さらにはいつものようにマスコミを使って世論形成を図っていると私は考えています。

この辺は長くなりそうなのでまた改めて。

津山事件: 都井睦雄の戸籍謄本

mutuo_koseki都井睦雄の戸籍謄本:『津山事件報告書』より

この戸籍謄本の画像はおそらく本邦初公開だと思います。もしどこかで既出であればご指摘下さい。

父は大正7年(西暦1918年)12月1日に、母は大正8年(1919年)4月29日に亡くなったとされています。以前、両親の墓に記載された死亡年月日と筑波本の死亡年月日が異なることから、「筑波昭さんは『津山事件報告書』を元に睦雄の両親の没年や死亡年月日を記載したのではないか」という推測を書きましたが、それを裏付けるものです。

なぜ戸籍と墓で死亡年月日が異なるかという点については、当時は戸籍の届出が適当だった、ということに尽きるのではないかと思います。例えば、津山事件の被害者には「内妻」の扱いの女性が数名いました。いわゆる「足入れ婚」の一種で、結婚しても子供を生むまでは妻を入籍しなかった風習の反映と思われます。それと同様に、戸籍と実情は異なるのが半ば当たり前だったということで、墓に記載されている方が実際の死亡年月日だと思います。

両親の生年月日については、この戸籍には記載がありません。報告書の他の部分にも記載がないようです。そもそも筑波本記載の生年月日が墓石記載の享年とつじつまがあっていないことはこちらのエントリでも疑問を示した通りで、どこから持ってきたものかよくわかりません。

戸籍謄本からわかることが他にもいくつかあります。

  • 大正7年に父親が亡くなったために睦雄が家督を相続し、まず母が、そして母の死後は祖母が後見人となっています
  • 上記の後見は昭和12年3月に睦雄が成人に達したことで終了しています。睦雄が岡山農工銀行へ600円の借金を申し込んだ(最終的には400円に減額されましたが)のは昭和12年4月なので、後見が終了して自分の判断で財産を処分できるようになったらすぐ行動に移ったことがわかります。
  • 都井家は昭和10年4月に倉見から貝尾へ本籍地を移動しています。睦雄が満18歳の時ということになりますが、理由はよくわかりません
  • 姉は事件当時まだ嫁ぎ先に未入籍で、都井家に戸籍が残っていたようです。睦雄と祖母の死亡届も、姉が「同居人」として届け出たことになっています。事件当時臨月だったとのことで、事件後の7月になって嫁ぎ先に入籍されています
  • 戸籍上は睦雄の死亡時刻は午前7時になっています。おそらくは遺体が発見された時間を記載したものでしょう
  • その割には祖母の死亡時刻は午前2時になっています

睦雄の死亡届は5月25日に提出されており、姉が嫁ぎ先へ入籍したのが7月25日ですから、その間の2ヶ月あまり都井家は姉が戸主(女戸主)だったことになると思います。しかし、そのあたりは謄本には何も書かれていません。

姉は事件当時臨月だったにもかかわらず、婚家で一時「分娩させない」という話まで出たとのことです。しかし、2ヶ月後には無事入籍されていることからも、最終的には嫁ぎ先に円満に受け入れられたことがわかります。

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