こちらのコメントで書いた内容の続きです。
私は、筑波本に都井睦雄の作品として紹介されている『雄図海王丸』も、筑波昭氏による創作である可能性が高いと考えています。いくつか理由はあります。
- 『雄図海王丸』のプロットは矢野龍渓の『浮城物語』とまったく同一であり、文体を「子供向けに」書き直した程度である
- 『浮城物語』は矢野龍渓の代表作の一つであり、矢野龍渓の名前は『雄図海王丸』の冒頭にも出ているので、ちょっと調べればわかるはずなのに、筑波氏がぼかした書き方をしている
- 睦雄が生きていた昭和10年代前半における本作品の入手可能性に疑義がある
- 「津山事件報告書」に『雄図海王丸』が全く出てこない
- 『雄図海王丸』の原稿の写真も「津山事件報告書」にない
『浮城物語』はこちらで全文読むことができます。
国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」内『浮城物語』
関係する時系列をまとめると下記の通りです。
- 1851年(嘉永3年):矢野龍渓生誕(豊後(現在の大分県))
- 1890年(明治23年):郵便報知新聞に『報知異聞』(『浮城物語』の原題)を連載
- 同年:『浮城物語』単行本発行
- 1931年(昭和6年):矢野龍渓逝去
- 1938年(昭和13年):津山事件発生・都井睦雄自殺
- 1940年(昭和15年):『浮城物語』岩波文庫版発行
- 1943年(昭和18年):『浮城物語』現代語版発行
単行本には徳富蘇峰や中江兆民、森鴎外といった錚々たる面々が跋文を寄せており、それだけでも当時におけるこの作品の影響の大きさがわかります。
『雄図海王丸』のプロットは『浮城物語』のほぼ丸写しで、主要な登場人物の名前(「作良義文」「立花勝武」など)も共通していますので、パクりとはいわないまでも少なくとも参考にしていることは間違いありません。岩波文庫版が出たのが昭和15年であったことを考慮すると、睦雄が本当に『雄図海王丸』を書いたのであれば、いつどのようにして『浮城物語』を読んだのか、という疑問が残ります。ご存じの通り睦雄は昭和13年(1938年)の津山事件当日に自殺しており、その時点では『浮城物語』は50年近く前の、文庫にも未収録の作品ということになるからです。
国会図書館で検索した限りでは『浮城物語』は明治39年や大正5年にも改訂版が発行されていますし、昭和に入ってからも改訂版は出版されていたと思われます。それを睦雄が何らかの形で入手したり、あるいは学校の図書室にその本があって、それを元に子供向けに『雄図海王丸』を書いた可能性はゼロではないと思います。しかし、『雄図海王丸』は、例えば「班超伝」の引用などかなり詳細な部分まで『浮城物語』と一致しており、図書室で読んだ本のうろ覚えのあらすじを元に書いた、というレベルではありません。手元に『浮城物語』があって、それを元に言葉遣いを改変して書いたとしか考えられない内容です。
「津山事件報告書」にも『雄図海王丸』や『浮城物語』に関する言及が全くないことからも、青年時代に『浮城物語』の岩波文庫版あるいは現代語版を読んだ筑波氏(昭和3年生まれ)が、それを改変して創作に利用した可能性の方が高いのではないかと思います。