先般、当ブログへのコメントで「岡山一中ではなく津山中なら自宅からも通えたはず」というご指摘をいただきました。
実は、mixiにて同様の指摘を読んで「なるほどなあ」と思っていたところでもあり、今回は取り急ぎその点をとりあげてみたいと思います。
mixiで、「よしの番長」というハンドルの方が書いていらっしゃる内容は下記の通りです。
- 筑波本では、睦雄は岡山一中あるいは二中への進学を目指し、下宿しなくてはならないためにおばやんに反対されて断念されたことになっている。
- しかし、当時津山には津山中があった。因美線も開通していたので、津山中なら貝尾から通うことが可能であったはず。
- そもそも、高等小学校を卒業した睦雄が進学できるのは師範学校であり、尋常小学校卒業で進学するのが普通だった中学校への進学は難しかったと思われる。
- 当時の中学校の学費は年間100円で、貝尾の家と畑を買う500円を作るのに倉見の山林を売り払った都井家に負担できる金額ではない。
- 授業料無料でなおかつ全寮制の師範学校であれば経済的な問題はクリア可能であった。
- 師範学校は津山にはなかった(岡山市内にしかなかった)。
- 師範学校は全寮制。
- 師範学校の生活は基本的にプライバシーが存在せず、おばやんとの2人暮らしでも屋根裏部屋を作って引きこもった睦雄のような人間には耐えられなかったと思われる。
- 「おばやんが反対したから」というのは口実で、実は睦雄自身も師範学校には行きたくなかったのではないか。
この点はこの書き込みを読むまで全く気づきませんでした。また、非常によく背後関係を調べられていることに感心します。mixiとか2ちゃんを覗いていると、ときどきこういうレベルの高い書き込みが見つかるのでやめられません(えらそう)。
以下、一応検証です。
まず、当時の学制についてはこの図を参照してください。
基本的に、
- 金持ちの子弟・エリート養成コース: 尋常小学校→中学校(→高等学校→大学)(中学途中から陸軍幼年学校あるいは海軍兵学校というコースも超エリートコースだった)
- 貧しいが優秀な男子: 尋常小学校→高等小学校→師範学校(→高等師範学校→文理科大学というコースもなくはなかった)
- 金持ちの女子: 尋常小学校→高等女学校(→女子高等師範学校)
- 一般の子供(男女とも): 尋常小学校→高等小学校
という形で、階級や財産によって歴然とコースが別れていたことは確かなようです。そして、「高等小学校に進んでしまった睦雄が進学できる先は師範学校しかないので、高等小学校の先生が勧めた『上の学校』は中学ではなく師範学校のことではなかったか」という推測は妥当なものと思われます。
ただし、そのすぐ後に筑波本では、岡山一中と岡山二中の生徒の間で乱闘騒ぎがあったというラジオニュースに対して、「ほれみい。こないな学校さ往なんでよかったじゃろが」とおばやんが言ったというエピソードが描かれています。少なくともおばやんは本当に、睦雄が進学を希望している先は岡山一中だと思っていたのではないかと思います。
睦雄がどの程度当時の学制を理解していたかという話にもなりますが、もしかすると、教師からは師範学校と言われたのに、おばやんに対してはよりもったいをつけるために名門の岡山一中と言ったのかもしれません。
ちなみに、この時代の義務教育は尋常小学校まででした。進学率について、1932年(昭和7年)の「壮丁教育調査」によると、当時の徴兵検査受検者(概ね満20歳の男子)の「教育程度」は下記の通りとのことです。
- 不就学 0.6%
- 尋常小学校半途退学 4.2%
- 尋常小学校卒業 25.2%
- 実業補習学校前期修了 1.7%
- 高等小学校卒業 32.3%
- 実業補習学校後期修了 18.8%
- 中等学校在学および半途退学 3.8%
- 中等学校卒業 9.9%
- 専門学校卒業及在学 2.6%
- 大学学部卒業及在学 0.7%
尋常小学校卒業以下の学歴はおよそ3割程度で、7割の男子は高等小学校や中学など何らかの義務教育のレベルを超えた教育を受けていたことになります。中等学校(旧制中学と師範学校)以上への進学率は合計で17%程度となります。
この統計は当然男子についてのみですので、女子に関してどの程度女学校や高等小学校に進学していたのかは不明です。
学費について。Wikipediaには1929年(昭和4年)時点での東京の旧制中学の初年度の学費が年間146円だったことが書かれています。1935年(昭和10年)頃の岡山の学費は不明ですが、昭和ヒトケタ時代は不況のためほとんどインフレが進んでいなかったようなので、東京より安い100円前後であったという推測は妥当なものと思います。
他方で、睦雄は、事件を起こす前に田畑と家を抵当に岡山農工銀行と楢井部落の金貸しから合計1000円を借りています。最終的にはこれは武器弾薬と効果のない怪しげな結核治療薬などに散財されてしまいましたが、中学5年間の学費を出すことは不可能ではなかったとも思われます。
詳しくまとめて頂いた今回のブログで、かなり自分の中でも疑問の整理がつきました。ありがとうございます。
当時はあまり学問に対して価値観にウェイトを置くものでもなかったのでしょう。戦争と言う時代背景がなかったにせよ、男子は農業等、体一つで働いて即収入に結び付く、言わば実業系の仕事に就くことを望まれたでしょうし。
私事ですが、わたしの曾祖父は貧しい家の出で、自分も小学校(尋常か高等かまでは判りません)しか出ずして、後年町議まで勤めましたが、そのため【学】の重要性を誰よりも身につまされたようで、自分の一人息子(わたしの祖父)は旧制中学に、長女を除いた4人の娘(同じく大叔母)達は高等女学校に出す等しました。
決して高給取りでもなく、裕福な家庭でもありませんでしたが、当時としてはかなり前衛かつ画期的考えを持った人だったようです。
管理人さんや通りすがりさんの検証をするのに詳細な記事とか私事に関する個人の秘密まで書かれているのには、本当にありがたいです。あの時代に対してよく理解できます。
管理人さんの記事から察すると睦雄は中学は不可で師範学校が可能であつたとすれば、岡山一中の話は尋常小学校の6年生の頃の話だつたかも分かりません。この津山事件は考えると疑問点の多い事件です。言われていることがよく考察すると疑問が出てきます。こういう疑問をこのブログで考察してゆくのも良いです。
>通りすがりさん
私の祖父は近隣では神童で知られていたそうです。私事で恐縮ですが、私が東大に合格したときに祖母が近所の人から「そりゃー○○さんの孫じゃけぇ」と言われたくらい(もう祖父は亡くなっていました)有名だったようです。
その神童で知られた祖父も、高等小学校卒で学業を終え、ずっと農業をしていました。睦雄とほぼ同年代で、貝尾とはちょっと離れていますが中国山地の山奥で一生を過ごしています。一番近い駅から車で1時間かかる、倉見も裸足で逃げ出すようなド田舎です。
私の親(昭和10年代生まれ)の代では兄弟全員が普通に高校(新制高校)を卒業していますので、家が貧乏だったとか学業を軽視していたとかの理由ではないと思います。田舎の農家の子供は高等小学校を出たら農業を継ぐ(手伝う)のが当たり前で、中学校や師範学校に進学するなどということは考えもつかなかったのでしょう。
通りすがりさんのおじいさんの年齢は存じ上げませんが、私の祖父と同じかちょっと下の年代とすると、通りすがりさんのひいおじいさんが息子(おじいさん)や娘を中学や女学校に行かせたことは、確かに画期的なことだったと思います。
>yamaさん
筑波本には、睦雄が14歳(昭和5年)の時の冒頭に
という記述があります。
このあたり、次回エントリで詳しく書きたいと思いますので少々お待ちください。
>そもそも、高等小学校を卒業した睦雄が進学できるのは師範学校であり、尋常小学校卒業で進学するのが普通だった中学校への進学は難しかったと思われる。
>「高等小学校に進んでしまった睦雄が進学できる先は師範学校しかないので、
実際には高等小学校卒業者の旧制中学校進学は可能でした。
まず、当時の中学校は、今の大学並に、幅広い年齢層の生徒がいたという前提があります。
そのため、20歳とかになってもさほど問題なく入学することはできました。
また、引用されている学校系統図は、あくまで一例に過ぎないため、そこに書かれていない接続が不可能だったわけではありません。
(例えば現代だって、仮面浪人として大学入学後に別の大学に入学する例とか、高校に行かないで中卒後いきなり高認(大検)で大学に入学する例もありますが、そういった進学形態をこの種の図で表すことは困難ですね)
http://db1.pref.hiroshima.lg.jp/data/tone/s11/tosho-p01.xls
これは広島県統計書昭和11年版ですが、中学校入学者の直前学歴は、尋常小学校卒業が大多数ですが、高等小学校1年修了者もある程度おり、高等小学校卒業者も少し存在します。
また、これは年齢ではなく学歴であるため、この高小卒業者のうちには卒後何年かたっている例もあったことでしょう。
例えばこの表では、例年のように17歳や19歳で入学している人がおり、33歳で卒業している例もあります。
このことから、高小卒から旧制中学校に進学することは決して不可能ではなかったことが分かります。
なお、昭和1桁期に現役生比率が急増することがこの統計から読み取れますが、都井はちょうどこの過渡期が受験期だったと思われます。
地域差もあるので、ここはさらに詳しい研究が待たれるでしょう。
当時は現在のように、高校の同級生は同一年齢なのが普通だといった社会通念は薄かったのですが、学校制度は一言で表せないほど複雑であり、師範学校では中学校より同年齢度が強かったようです。
しかし全体的にいつでも回復の効く制度であり、現在の「15の春を泣かせるな」よりはよほど自由度が高かったのです。
ただ、やはりそういった高年齢者は少数派であり、制度上は進学可能であったとしても、都井は雰囲気あるいはプライド的に敬遠した可能性はありますね。
また、高等小学校卒業後の「上の学校」には実業学校という学校もありましたので、当然それも視野に。
高等小学校に進学したら中学校などのエリートコースに行くことが不可能になるような、無意味な制限はありませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E8%AA%B2%E7%A8%8B%E4%B8%BB%E7%BE%A9
旧制中学関連では、この記事の「日本における歴史」の段落と、そこの注釈が少し参考になると思います。
現在の高校が16歳以上の受験者を締め出しているケースがあるのと比べると、当時の中学校の方が制限のゆるい制度でした。
また、高年齢生徒は尊敬されたという話もあるようです。
そういった気風も、戦争激化で全員同じ年齢で訓練・徴兵が行われるようになるとなくなり、戦後もその戦時体制が続いてしまっていますが……
遅くなりましたがコメントありがとうございます。
いただいた資料で、例えば睦雄が高等小学校2年生だった昭和6年の中学校1年生は、86%が尋常小学校卒で入学し、高等小学校1年からの編入と2年卒からの入学が合計で13%ということになりますか。高小からもこれだけ入学者がいるということになると、ご指摘の通り「高小から中学へは上がれない」というのは間違いということになりますね。
ただし、中学に行くという話が出たとしても常識的には津山中学になるはずです。「津山事件報告書」には中学進学の話は一切出てこないことと併せて、この部分が筑波氏の創作である可能性は高いと個人的には(まだ)考えています。
自分の名前が出てて吃驚しました。ありがとうございます。
ところで、ここまで細かい話だと精度的に疑問なんですけど
筑波本を良く読むと、都井睦雄は教師から「どうだ、上の学校に行ってみんか」
と言われただけなんですよね。
で、家に帰った睦雄が「わし中学校に行きたいんじゃ」と勝手に言ったと言う。
ところで、まったく同じ時代に岡山2中の
(ほぼ)ノンフィクションの出来事を綴った本があります。鈴木隆の「けんかえれじい」と言う本です。
読み物としても、面白いですよ。
おお、ご本人からコメントをいただけるとは思っていませんでした。ありがとうございます。勝手に書き込みの内容を引用して申し訳ないです。
「上の学校」についてはご指摘のとおりです。現時点で私は、進学に関するおばやんと睦雄の会話はすべて筑波氏の創作であると考えていますので、事実として認定できるのは先生に「上の学校に行ってみんか」と言われて断った、ということだけだと思います。
「けんかえれじい」の件もご教示ありがとうございます。読んでみます。あと、映画にもなっているんですね。そちらも拝見してみます。