Category Archives: 津山事件

津山事件: 筑波昭氏とのコンタクトに失敗

『津山事件報告書』を入手して以来、『津山三十人殺し』との差が気になってしょうがないため、筑波昭氏に連絡をとってみました。

周知の事実とは思いますが、筑波昭さんは黒木曜之助という別名義をお持ちで、ノンフィクションは筑波昭、推理小説は黒木曜之助とペンネームを使い分けていらっしゃいます。黒木曜之助名義の連絡先が公開されているので、そちらの方に手紙と電話で連絡をとってみました。

お伺いしたのは、

『津山三十人殺し』には、『津山事件報告書』には記載されていない内容がかなり描写されており、おそらくそれは筑波さんご自身の独自取材に基づくものと思う。その独自取材の概要について、お話しだけでも聞かせて頂けないか。

という内容です。

しかし、手紙のご回答はいただけず、お電話したところ「ちょっと仕事で忙しいので、ご返事できません」とのことでした。

一応、事実のみこの場を借りてご報告させていただきます。

筑波昭さんは昭和3年生まれとのことですので、今年で82歳でいらっしゃると思います。是非とも、後世のためにも「事実」がどうなのか証言して頂けないかと思うのですが、なかなか難しそうです。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 中村一夫『自殺―精神病理学的考察』

掲題の本を読みました。

感想。

「参りました」

津山事件に対する「愛」では人後に落ちるものではないと自負していましたが、この本の著者には負けました。それほど凄い本です。津山事件について書かれているのは本の中の1つの章で、全体で200ページ弱のこの本の中で40ページ程度だけですが、そこに著者の津山事件と都井睦雄に対する想いがぎっしり詰め込まれています。この本のオリジナルは1963年に出版されたものとのことですので、筑波本よりも20年近く前ということになります。

例えば、津山事件と都井睦雄について採り上げた章の冒頭には年表が出ています。
この年表は『津山事件報告書』にも出ていないもので、著者が独自に編集したものと思われます。その内容も「事実」だけを過不足なく採り上げており、ある意味で今後の津山事件研究のリファレンスは筑波本よりもこの本にするべきでないか、という気にすらさせられます。

著者はかなりの現地取材もしています。1960年代前半であり、睦雄を診察したことのある只友医院の院長も当時まだご存命で、直接話をして医師同士として意見交換しています。さらに、祖父が亡くなったのが大正7年7月であることにも言及しており、これも報告書には出ていない、現地へ墓を見に行かないと得られない情報です。そういう、さらっと書いてあることがいちいち深い本です。

新幹線もない、東名高速道路も中国縦貫道もない、東京から現地に行くだけでまる1日、下手をすると片道だけで2日かかるような時代に、専門外のことでこれだけの調査をする。そこに著者の津山事件に対する「愛」が感じられます。

もちろん、本題である睦雄の精神分析も頷かされるものがあります。

このような本があったことを知らずにいた自分の不明を恥じます。著者の中村一夫氏の名前が一般的すぎて、どういう経歴の方かネット検索だけだとよくわからないのですが、もしご存命であれば是非一度お会いしてみたい方です。

(2010年1月26日追記)
中村一夫氏について、この本の奥付には著者紹介が何も書かれていませんが、オリジナルである紀伊国屋新書版(1963年9月30日初版)の奥付によると下記の通りです。

1916年埼玉県生まれ。東北大学医学部卒。東京大学医学部精神医学教室。

1969年に出版された『日本の犯罪学』に論文を寄稿しており、その時には所属が「中村病院」となっていますので、大学をやめて開業された(あるいは親の病院を継いだ)ようです。ただ、埼玉県内に精神科専門の中村病院という病院があるので電話で問い合わせてみましたが、中村一夫なる人物には心当たりはないとのことです。

それと、復刻版がアマゾンで18,000円とかの「コレクター価格」のものしかないようなので、旧版のリンクも貼っておきます。内容はどれも一緒です。

(2011年1月12日追記)
その後の調査で、中村一夫氏の「中村病院」は現在も埼玉県内にある中村病院とは別物であることが判明しました。詳しくはこちらのエントリをご参照ください。

  

津山事件: 都井睦雄の写真 その2

toimutsuo3都井睦雄の写真『津山事件報告書』より

筑波本に掲載されていた都井睦雄の写真は、報告書の写真をトリミングしたもののようです。元の写真を置いておきます。

鹽田末平検事の論文によると、睦雄は身長5尺5寸(約167cm)、体重16貫位(約60kg)とのことです。昭和22年の「国民栄養の現状」によれば、昭和22年時点で31~40歳の男性(睦雄と同年代)の平均身長は160.6cm、体重は54.35kgとのことですので、それと比較してもかなり大柄かつ恰幅の良い体格だったことがわかります。写真でも頬がふっくらとしており、肩幅も広く体格の良さを感じさせます。

この写真で睦雄が着用している服は詰め襟になっています。ぱっと見たときは国民服かと思いましたが、国民服は同じ詰め襟でも立折り襟なので違うようです。青年学校の制服ではないかという推測もできます。
いずれにしても、犯行当日の服装は「黒の詰襟」であることが報告書にも明記されていますので、この写真の服ではないと思われます。

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津山事件: 都井睦雄の戸籍謄本

mutuo_koseki都井睦雄の戸籍謄本:『津山事件報告書』より

この戸籍謄本の画像はおそらく本邦初公開だと思います。もしどこかで既出であればご指摘下さい。

父は大正7年(西暦1918年)12月1日に、母は大正8年(1919年)4月29日に亡くなったとされています。以前、両親の墓に記載された死亡年月日と筑波本の死亡年月日が異なることから、「筑波昭さんは『津山事件報告書』を元に睦雄の両親の没年や死亡年月日を記載したのではないか」という推測を書きましたが、それを裏付けるものです。

なぜ戸籍と墓で死亡年月日が異なるかという点については、当時は戸籍の届出が適当だった、ということに尽きるのではないかと思います。例えば、津山事件の被害者には「内妻」の扱いの女性が数名いました。いわゆる「足入れ婚」の一種で、結婚しても子供を生むまでは妻を入籍しなかった風習の反映と思われます。それと同様に、戸籍と実情は異なるのが半ば当たり前だったということで、墓に記載されている方が実際の死亡年月日だと思います。

両親の生年月日については、この戸籍には記載がありません。報告書の他の部分にも記載がないようです。そもそも筑波本記載の生年月日が墓石記載の享年とつじつまがあっていないことはこちらのエントリでも疑問を示した通りで、どこから持ってきたものかよくわかりません。

戸籍謄本からわかることが他にもいくつかあります。

  • 大正7年に父親が亡くなったために睦雄が家督を相続し、まず母が、そして母の死後は祖母が後見人となっています
  • 上記の後見は昭和12年3月に睦雄が成人に達したことで終了しています。睦雄が岡山農工銀行へ600円の借金を申し込んだ(最終的には400円に減額されましたが)のは昭和12年4月なので、後見が終了して自分の判断で財産を処分できるようになったらすぐ行動に移ったことがわかります。
  • 都井家は昭和10年4月に倉見から貝尾へ本籍地を移動しています。睦雄が満18歳の時ということになりますが、理由はよくわかりません
  • 姉は事件当時まだ嫁ぎ先に未入籍で、都井家に戸籍が残っていたようです。睦雄と祖母の死亡届も、姉が「同居人」として届け出たことになっています。事件当時臨月だったとのことで、事件後の7月になって嫁ぎ先に入籍されています
  • 戸籍上は睦雄の死亡時刻は午前7時になっています。おそらくは遺体が発見された時間を記載したものでしょう
  • その割には祖母の死亡時刻は午前2時になっています

睦雄の死亡届は5月25日に提出されており、姉が嫁ぎ先へ入籍したのが7月25日ですから、その間の2ヶ月あまり都井家は姉が戸主(女戸主)だったことになると思います。しかし、そのあたりは謄本には何も書かれていません。

姉は事件当時臨月だったにもかかわらず、婚家で一時「分娩させない」という話まで出たとのことです。しかし、2ヶ月後には無事入籍されていることからも、最終的には嫁ぎ先に円満に受け入れられたことがわかります。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 津山事件報告書 その2 筑波本との比較について

一通り『津山事件報告書』を読んだところ、筑波本: 『津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)』に掲載されていた下記の内容は報告書には記載されていないことを確認しました。ただし、以下の内容は今後読み込んでいく中で予告なく変更・修正・追加する可能性があります。あらかじめご了承下さい。

  • 姉の証言: 報告書には、姉の証言は筑波本の一番最初に出ている刑札に対する証言(「私は都井睦雄の実姉であります」で始まるもの)だけしか掲載されていません
  • 「内山寿」関係: 報告書に掲載されているのは睦雄が内山寿に連れられて津山の売笑宿に登楼したという内容数行だけで、大阪で阿部定のいた住吉アパートに行ったとか、会話の内容はありません
  • 阿部定関係: 報告書には、阿部定に関することは全く出てきません
  • 雄図海王丸: 報告書にはタイトルも出てきません。ただし、この件に関しては筑波本に原稿の写真もあり、筑波氏の独自取材によるものであることはほぼ確実と思われます

特に、姉の話として紹介されているエピソードのほぼすべてが報告書には掲載されていないという事実は、今後津山事件ならびに都井睦雄の言動を論ずる上でかなり重要なことであると思います。ただし、筑波氏が執筆当時まだご存命だった姉に取材して書いたという可能性もありますので、さらに確認が必要とは思います。

一例を挙げると、この辺のエントリここでも論じた、中学進学に関するおばやんと睦雄と姉の会話は報告書には出てきません。岡山一中と二中のケンカのニュースを聞いて、「ほれみい。こないな学校さ往なんでよかったじゃろが」とおばやんが言った話もありません。報告書にあるのは、高等小学校の担任教師が「上の学校に行ってみないか」と言った話だけです。

一級下の武井孝子という少女の絵を描いて云々という話も出てきません。報告書には小学校時代の担任教師のコメント一覧もありますが、そこには一般的な性格や勉強に関することだけで個別のエピソードは出てきません。

また、内山寿関係については、筑波本にちらっと出てくる浅草で窃盗で捕まった際の「陳述書」が実在してそれが元になっている可能性もあります。ただし、内容に矛盾も多いので、これも筑波氏の創作である可能性は低くないと個人的に考えています。

以前から筑波本には筑波昭氏自身の創作にかかる部分が多いのではないかと個人的に思っていました。とりあえず、『狭山事件報告書』には掲載されていない部分が多いという事実だけ、ご報告します。

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津山事件: 津山事件報告書 その1

IMG_1887津山事件報告書 司法省刑事局編

あらかじめお断りしておくと、今回は釣りではありません。

事件の直後に作成された『津山事件報告書』をとうとう閲覧することができました。証拠として表紙の写真を掲載しておきます。筑波本(ハードカバー版: 『津山三十人殺し―村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか』)のグラビアにある「津山事件報告書」の表紙と見比べると、筑波本で黒塗りされていたのは通し番号であったことがわかります。

閲覧できたのは日本国内ではありません。ググればすぐにどこかわかるとは思いますが、はっきりした場所を書くのは差し控えます。公開したところでこの場所にマニアがわらわら来るようなことにはならないとは思いますが、あまり迷惑がかかってもいけないので。ここにたどり着くまでの四方山話も後ほど。

世の中の津山事件本の総元締めと言える筑波本も、基本的にはこの本の引き写しの部分が多いことが閲覧してわかりました。驚いたことに、筑波本の250ページあたりから掲載されている被害者の家の見取り図は、ほぼこの「報告書」にあったものののコピー(名前だけ仮名にしてある)でした。また、おそらくは、松本清張の「闇を駆ける猟銃」もこれを参照しています。

「報告書」と銘打ちながら、全部で500ページ近くある大部の本になっており、旧カナ旧字体であることもあって、読み込んでいくとそれだけで1週間くらいかかりそうです。いろいろな点で面白くて、書き始めると100本くらいこの本をネタにブログを書けそうな勢いでもあります。

今まだ海外にいること、泊まっているホテルのインターネット接続が安定しないこと、さらには報告書を読むだけでかなり時間がかかりそうなことから、とりあえずご報告だけアップして詳細は帰国してから改めてご紹介します。

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津山事件: アルネ津山問題

しばらく更新できそうにないと書いた舌の根も乾かないうちの新エントリですいません。

「アルネ津山問題」というのが存在することを先日初めて知りました。

津山市の中心部に存在している総合商業・文化施設「アルネ津山」について、税金の無駄遣いだからヤメろという話があり、2005~2006年の市長リコールと出直し選挙はそのあたりが争点だったようです。

そのへんの政治的なお話しは、地元住人ではない私(本ブログ管理人)にはよくわかりません。しかし、個人的に2005年くらいから津山事件の調査を本格的に始めたこともあって、アルネ津山問題には共感できる部分もあります。アルネ津山は津山市の中心にある商店街のアーケードと続いています。商店街の駐車場にレンタカーを駐めてアルネ津山にある図書館へ歩いていく最中に、地方都市によくあるシャッター商店街を実感しました。インター近くにあるジャスコや、さらに郊外のホームセンター・スーパーの盛況も見ていますので、市の中心部に税金を投入してデパートを誘致するというやり方の有効性にはかなり疑問を感じたことも確かです。アルネ津山は隣接して音楽文化ホールも抱えており、私が訪問したときも地元の高校の音楽部による発表会が組まれていました。単純に商業的・経済的な問題だけを語るのは間違いかもしれません。しかし、結局のところ、よく言われる「ハコモノ」だけ作って中身のソフトをないがしろにしたツケが、ここでも「アルネ津山問題」として噴出しているのではないかと感じました。

ここで一つ提言です。現時点で、津山市近辺に津山事件に関する常設展示は存在していません。「八つ墓村」という大ヒット映画の題材にもなったこの事件を観光資源として活用しないのは、あまりにも「もったいない」と考えます。例えば、アルネ津山の中にある津山市立図書館にコーナーを設けるとか、加茂町歴史民俗資料館に常設展示を作るとか、その程度でもある程度の誘客効果はあるでしょう。常設までいかなくても、大手旅行代理店とタイアップして「津山事件ツアー」を組めば、それなりの誘客効果はあると思います。洋学博物館やその他の津山市として売り込みたいものと組み合わせて、例えば「津山ホルモンうどんと津山事件を訪問する2日間」でもいいと思います。

「このような凄惨な事件を見せ物にするのか」という遺族感情から来る反対意見はあるでしょう。しかし、このような凄惨な事件(私が知る限り、世界でもトップ5に入る大量殺人事件です)だからこそ、現代にも通じる教訓や、現代人にも共感できる部分があると思います。

「負の世界遺産」というものがあります。広島の原爆ドームや、アウシュビッツの収容所など、人類がこの世に引き起こした悲惨さを後世に伝えるために「世界遺産」に指定されたものです。津山事件に関しても、内容に充分配慮する必要はありますが、地元に相応の利益を配分しつつ観光資源化する方法はあるのではないかと考えます。関係各位のご検討をいただけると幸いです。

津山事件: 都井睦雄の祖父母の墓 その3

前回エントリで、「結核で1年の間に家族3人が亡くなるものか」という疑問を提示しました。また、コメントでも、「実は死因はインフルエンザだったのではないか」というご指摘をいただきました。

私も、睦雄の両親と祖父の死因が結核ではなくインフルエンザだった可能性があると思っています。ただし、3人ともインフルエンザとすると、逆に今度は3人の死亡日が離れすぎていると思います。というわけで、最初の祖父はインフルエンザで、それが両親にうつって(もしかしたら、父親が軍隊で結核をもらってきて保菌状態だったのかもしれません)抵抗力が落ちて結核を発症、インフルエンザの影響もあって急速に悪化して亡くなったのではないかというのが現時点での推測です。その意味では、筑波本も合同新聞も間違ってはいない、と。

いずれにしても、1年以内に近親者3人を亡くしたおばやんのショックは大きかったでしょう。後年、睦雄が中学に入りたいと言ったときに「わしを置いていくのか」と反対したのも、夫と息子夫婦が相次いで亡くなった後に、ガランとした家にとり残された経験というか、トラウマが原因だったのではないかと思います。

睦雄の両親だけでなく祖父もほぼ同時期に亡くなっていたことを知ったときに個人的に衝撃的だったのは、以上のようなことを考えたことが理由です。中学に進学できなかったことは睦雄が津山事件を起こした理由の一つでもありますし、そもそも祖父と両親が健在なら、睦雄も山奥の中農の跡取りとして幸せな暮らしができただろうと思います。家族の不幸な歴史が、事件に向かって一直線に収束していくような、そんな錯覚も覚えます。