津山事件: 都井睦雄の進学先 その2

一昨日のエントリにて、睦雄が「岡山一中に進学する」と言って祖母に反対された件について、疑問点をまとめました。

実は、一番の疑問点は、なぜ筑波昭さんがこの記述をしたのか、というところにあります。

筑波昭さんは昭和3年生まれで、最終学歴は日本大学芸術学科中退とのことです。おそらくは旧制中学を卒業し、旧制高校在学中に終戦を迎えたのではないかと思います。旧制の学制を「肌で知っている」世代であり、高等小学校に進んだ睦雄が進学できるのは師範学校しかないことは、言われるまでもなくわかっていたのではないかと思います。

さらに、これも以前コメントでご指摘をいただきましたが、睦雄が射撃練習する銃声を「津山中学の演習じゃろが」と言って細君を安心させる村人の話を紹介している部分もあり、津山中学が存在していたことも充分認識していたものと考えられます。

さらにさらに、昭和5年の冒頭には以下のような記述もあります。

小学校を卒えるとき、中学進学についての話が出たかどうかは不明だが、都井はそのまま同校の高等科一年(現在の中学一年に当る)へ進んでいる。

要するに、中学に進むとすれば尋常小学校卒業時点であるという認識もあったと思われます。

にもかかわらず、睦雄が岡山一中に行きたいと言っておばやんに反対されて断念したエピソードをそのまま紹介しています。
私は、これは、筑波氏が『津山三十人殺し』を書く上で一番の典拠とした警察の捜査報告書にあった姉の証言を、そのまま紹介したということではないかと考えています。その後にある岡山一中と岡山二中の生徒の間の乱闘騒ぎのニュースに「ほれみい。こないな学校さ往なんでよかったじゃろが」とおばやんが言ったというエピソードも姉の証言と考えられる(他にそのような内容を証言できる人がどう考えてもいない)ことも理由の一つです。そして、姉自身も睦雄が進学を希望したのは岡山一中であったと信じているため、特に注釈やそれに対して批判的な内容は書かれていないのではないかと思います。

要するに、睦雄は、先生には岡山の師範学校に進まないかという話をされたのに、おばやんと姉には「(名門の)岡山一中への進学を勧められた」と言ったのではないでしょうか。そして、「中学」や「師範学校」などは別世界のものだと思っていたおばやんや姉は「津山にも中学はあるじゃろう」とも「そりゃ師範学校の間違いじゃろが」とも反論できずそのまま信じてしまい、それが警察の報告書にも残された、ということではないかと思います。

筑波氏は、そのあたりをそのまま引用して紹介することで、睦雄の大言壮語ぶりを表現しようとしたのかもしれません。あるいは、筑波氏自身にとっては高等小学校から中学へは進めないというのはあまりにも当たり前のことで、単純に注釈を入れるのを忘れただけかもしれません。いずれにしても、旧制学制に疎いわれわれ(私)にとっては、指摘されるまでそれがわからない、ということになってしまっています。

このあたりを確認するためにも、是非とも一度警察の報告書の現物を見てみたいと思っています。草思社版『津山三十人殺し』には表紙の写真が掲載されていますし、何回かTV番組でも紹介されていますので、現存することは確かです。

(2010年1月30日追記)
『津山事件報告書』を確認したところ、上記の会話も含めて、睦雄と祖母と姉の間での進学に関する会話は一切記載されていないことが判明しました。

津山事件に関する本はこちら

2 thoughts on “津山事件: 都井睦雄の進学先 その2”

  1. 度々お邪魔します。
    睦雄は良くも悪くも、相当プライドの高い人物だったんでしょうね。
    若しくは大事にされ過ぎたが故に、些細なことにも傷付きやすく、打たれ弱い性格だったのか。
    その自己愛を上手くコントロール出来たなら、睦雄のようなインテリ少年にはたとえ生きにくい時代であったにせよ、もっと違う意味で後世に名を残せた可能性もあっただろうに…凡庸な言い方しか出来ませんが、生まれてくる時代が早過ぎたんでしょうか。
    文庫版筑波本の巻末の一文
    【西加茂村尋常小学校始まって以来の秀才と目された彼の意識は不条理な屈折の果てに、空前絶後の大量殺人というかたちにおいて、はじめて自己顕示の完全を遂げたのかもしれない】

    は、恐らくどんな形だったにせよ歪んだ表現でしか自分の力を使えなかった睦雄の、生き様全てをその一文に集結して述べているのだ…と、文字通り刺すかの如く痛感させられます。

  2. 通りすがりさんの筑波本の巻末の一文はこの事件最後を飾る文章としては最適です。
    ただこの文章の中で西加茂村尋常小学校となつているが、普通街では尋常高等小学校と呼んでいたようですが、私の出た小学校でも戦前は- – – – 尋常高等小学校と呼んでいたと聞いた事があります。
    西加茂村尋常小学校は中国山脈の山間部にあり、冬は積雪の為に多くの学童は登校しなかつたのではないだろうか、それと農繁期には特に女子は登校しなかつたのではないでしょうか、普通は6年で終える尋常教育も、これでは到底終えられなかつたので、高等科とはなつているが、補習としてもう2年学業についたのではないでしょうか。こういう情況は十分に考えられることだと思いますが。

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