Category Archives: 狭山事件

狭山事件: 堀兼中野球部員の証言 その2

伊吹隼人さんから追加の取材報告です。

今回インタビューした相手は、前回の証言とは別の方で、堀兼中3年時に被害者と同学年で野球部員だったSM氏と、その弟のST氏の2人です。

SM氏:

  • (A先生)はとんでもない暴力教師だった。
  • (A先生)は英語教師で、半月前教えたことを覚えていなかったりすると、それだけで殴ったりしていた。
  • 男も女も廊下に並ばせて鼻血が出るまで殴り続けたりしていた。
  • 今だったら絶対に卒業式で〝お礼参り〟されていると思う。
  • 少し前、スナックでたまたま堀兼中の人間と会って喋ったことがあったが、その時も「(A先生)はひどかった」という話が出た。
  • 当時の堀兼中は教師の暴力によって支配されている感じだった。
  • (「(A先生)は嘘をつくようなタイプかどうか」との伊吹さんの質問に)それはどうか分からない。
  • (A先生)は他校に試合に行く時も、怒鳴りながらビシッと生徒を揃えて連れて行く感じだった。
  • 自分もあの頃のことはもう思い出したくない。(A先生)につながるような記憶は思い起こすだけでも不愉快になってくる。
  • 事件のことはいやな記憶なのでもう思い出したくない。
  • 学内には札付きのワルも2~3人いた。
  • (被害者父の「被害者の時の卒業式では酒を飲んで暴れた生徒がいた」との証言を聞いて)そういう記憶はない。ただ、その2~3人ならやってもおかしくない感じだった。
  • それでも、殺人事件をやるほどのワルでは無かったと思う。
  • 当時の堀兼中で男女交際の噂などはなかった。
  • 100人、3クラスしかない学校なので、付き合っている男女などいればすぐに分かったと思う。
  • (「被害者さんはまじめな優等生だったと言われているが…?」との伊吹さんの質問に対して)そうだったと思う。

ST氏:

  • 自分はSMの5歳下の弟。事件当時は堀兼小学校に通っていた。
  • 事件の後は、駐在所の巡査が聞き込みにきた。巡査は今、病院に入院している。
  • 自分はその後教師になった。教育委員会では(A先生)やY先生と一緒になった。
  • 自分も事件に興味を持って調べていたことがあった。親戚が来た時に現場を案内したこともある。
  • 教育委員会を辞める時には、「何か後で役立つかもしれない」と思って、当時の学校の日誌を持って帰って来た。そこには事件当日の野球の試合のことなども書かれてあった。残念ながらそれはボロボロになっていて、「もう使うこともないだろう」と思ったので1週間前に捨ててしまった。
  • 教師の間でも「長兄がおかしい、変だ」という話はあった。「何で脅迫状が届いた時も自分で取らないで弟に取らせるのか」と言っていた。
  • 「被害者宅は家族関係が複雑で、そのため長兄が妹を始末したのではないか」との噂もあった。
  • この付近は、戦後山林を開いて開拓したところ。農地改革の後、小作人上がりの人間たちが開拓にあたった。こちらは貧しく、当時はひどい生活を強いられていた。そのため、最初警察は「そのことに耐えかねたこの地区の人間による犯行ではないか」と疑っていた。

また、伊吹さんによる本ブログへのコメント1コメント2は、この取材を踏まえているものと思います。併せてご参照ください。

以下は私(本ブログ管理人)の感想です。

ST氏について:

  • A先生についてはかなり恨みがあるようで、ここではとても掲載できないような表現で口を極めて罵っています。なお、上記では(これでも)マイルドな部分のみを選んで掲載しています。
  • 個人的な何らかの恨みはあるにしても、A先生のイメージが根底から変わるような証言です。
  • 「(A先生)は他校に試合に行く時も、怒鳴りながらビシッと生徒を揃えて連れて行く感じだった」というのはかなり重要な証言だと思います。A先生が高圧的・暴力的な教師だったという前提に立つと、OTくんやH氏が事件当日にバラバラに試合会場に向かっていたことは、やはり事件当日に堀兼中は試合がなかったことを意味するでしょう。
  • ST氏自身は、事件当日のことは思い出したくないと証言拒否のようです。
  • このA先生像を出発点にすると、A先生証言の意味合いや信憑性も再検討が必要になると思います。

SM氏について:

  • さすがに「(日誌を)1週間前に捨ててしまった」というのは話ができすぎなような気がします。
  • しかし、当時の学校の日誌が実在したとすれば野球の試合については最終決着がついたわけで、惜しい気もします。
  • 最後の証言は、長兄手記にある「農村という古くからの何ものか」を彷彿とさせます。

 

狭山事件: 現地調査告知

(6月11日追記)本件現地調査は中止になりました。大変恐縮ですが、事情ご賢察の上ご了承ください。

伊吹隼人さんより、狭山事件現地調査のお誘いです。以下、ご本人からの連絡をそのまま記載いたします。私(本ブログ管理人)も参加させていただきたいと考えています。

■「狭山事件」現地調査会開催のお知らせ

平成23年6月12日(日)
集合場所:西武新宿線狭山市駅改札口(解説員が「調査会」の封筒を持って立っています)
集合時間:12時50分 出発時間:13時
歩行距離:約3km 所要時間:約3時間
最少催行人員:3名(先着15名まで) 参加費:100円(資料代)
雨天の場合(午後雨天の予報含む):中止
※終了後には駅前飲食店にて「意見交換会」を行います(希望者のみ)。

コース:狭山市駅~被害者通学路~旧入間川駅跡~荷小屋跡~西武通運跡~死体第一発見者宅~入間川分校跡~狭山郵便局跡~小沢毛糸店跡~東中学校跡~第一ガード~第二ガード~X字路~荒神様~OG新居跡~Wさん宅~殺害現場跡(確定判決による)~芋穴跡~死体発見現場~荒縄盗難地点~スコップ発見現場~IT宅跡、石川さん宅跡付近(※事務所には立ち寄りません)~白山神社~狭山市駅

参加ご希望の方は、お1人様1回、コメント欄にお名前(HNで結構です)および「参加希望」とだけお書きください(配布資料準備のため)。
本名・連絡先等のご通知は一切不要です。政治・思想的な背景は皆無の調査会なのでどうぞお気軽にご参加ください。主として「純粋に、狭山事件の内容・真相のみを知りたい」という方々のご参加をお待ち致しております。

管理人注1: コメントで参加表明をするのに気が引けるという方は、メールでblog@flowmanagement.jp(間の@を半角に変換してください)宛にご連絡ください。こちらも捨てアドで結構です。
管理人注2: 当日の天候が微妙な場合にはこちらのブログ上でも開催/中止のご連絡をさせていただきますので、ご確認ください

 

狭山事件: 野球の試合とA先生証言

前回のエントリで、伊吹さんがインタビューしたH氏、当時証言したOTくんとも、まだ野球部を引退していなかったのに、当日は試合に出るためではなく見るために東中へ向かったと証言しています。堀兼中野球部の部員数は不明ですが、当時の堀兼中は1学年3クラスのこぢんまりとした中学であり、3年生が2人もベンチ入りもできないほど競争が激しかったとも思えません。つまり、当日堀兼中学野球部は試合がなかった可能性がかなり高いと思います。

そうなると、A先生の証言の信憑性が疑われてきます。
まず、A先生の証言を確認しましょう。ただし、ご存じの通り、A先生は公判の証人としては呼ばれていないため、野間宏さんの『狭山裁判』から、野間さんの取材に対してA先生が話した内容の引用です。

(A先生)はこの日、県の体育大会の野球の試合が三時半にあり、それに間に合うように生徒を引率して、三時前後、この第二ガードの前を通りかかった。そして、ガードの入り口の向かって左側のところに、うつむき加減に立っている(被害者)を見つけた。
普段とは様子がちがう。ふだんの(被害者)さんなら、元気で、むこうから声をかけてくるはずである。「どうしたの」とこちらから声をかけた。するとはにかんで、足で石をつつくような仕草をした。そして何もいわない。言葉はかえってこなかった。いつもなら、はっきりと「……してるんです」というほうであるのに、なんの返事もなかった。その仕草で誰か人を待っていたのかなと、わたしには考えられると、(A先生)はいった。

(中略)

(A先生)はガード下の(被害者)さんをそのままにして、時間におくれないようにと試合場に向かった。雨がぽつぽつ降りだし、シートノックをはじめたら、雨で試合は不可能であると中止に決定、ふたたび生徒を引率して三時半頃、帰りにそこを通ったのだが、すでに(被害者)さんはそこにはいなかった。

このA先生の証言が事実でないとすると、狭山事件の真犯人推理という点からはかなりオオゴトになります。

  • 第二ガードでの被害者の待ち合わせがなかったことになると、目撃証言のつなぎ合わせによる被害者の足取りが全く異なってくる
  • A先生はなぜそのようなウソをついたのか。伊吹本にもあるように、A先生は上記の内容を事件の翌日(5月2日)には同僚の先生に話しており、その時点で記憶違いが発生するとは考えられない。そうなると故意のウソということになるが、なぜそのようなウソをついたのか。さらに、事件から12年たった時点の野間氏のインタビューに対しても同じウソを続けたのはなぜか。
  • 実際のところ、A先生証言はどこまで信頼できるのか。全部がウソなのか、一部だけがウソなのか。

まずは、A先生の証言がどこまで信頼できるのか、から考えてみたいと思います。A先生証言を分解して考察してみます。ただし、この考察は現時点での私の個人的な考えです。

  証言 考察
1. 県の野球試合に出場するために これはほぼ確実にアウト。試合がなかったことは現時点ではほぼ確実といっていいと思います。しかし、「シートノックをはじめたら」など奇妙に具体的な描写もあり、A先生の意図がどこにあるのか、微妙なところです。
2. 野球部の生徒を引率して 少なくともH氏とOTくんの2人は先生と同行していなかったことを証言しています。しかし、彼ら以外の生徒がA先生に同行していた可能性はまだあります。私の脳内妄想的可能性としては、A先生は「とりあえず一度は東中に試合を見に行け。もし先生と一緒に行けるなら一緒に行け」と野球部員に通告していて、下級生は素直に先生に引率されたが、3年生は既に敗退していたこともあってアホらしくて遊んでから個々に遅れて東中に向かったという可能性を考えています。
3. 三時前後に この時間にも疑問が残るところです。決勝戦が終わったのは遅くとも3:40頃と思われ、3時に第二ガードを通っていたのでは試合の後半しか見ることができません。
4. 第二ガードで被害者と出会った A先生証言の中核となる部分です。もしこれが事実でないならば、A先生証言には何の意味もないことになり、全部を無視してかまわないことになります。しかし、しつこいようですが、A先生は事件の翌日に事件のことを聞くと、すぐに同僚であるY先生に被害者に会ったということを話しており、伝えられるA先生の性格からも、たとえば目立つためにこういうウソを言ったということは考えにくいと思います。そもそも、目立つためにこのようなことを言い出したのであればその後マスコミ等に売り込みに行くはずですが、そういった動きも見られません。
5. 雨で試合が中止になり、三時半に 3.と同様に、この時間経過は多少疑問が残ります。記録によると、3:26~3:39まで小雨が降ったようですがすぐやんでおり、その後4:20に本降りになるまでの間はほとんど雨が降っていません。
6. 学校に戻る途中には第二ガードに被害者はいなかった 4.と同様です。

要約すると、試合があったこと、生徒を引率していたことは事実ではなさそうですが、だからといって第二ガードで被害者に会ったことまで否定するのは尚早ではないかというのが現時点での私の考えです。

 

狭山事件: 堀兼中野球部員の証言

身辺多忙のため、放置状態になったり変な英文が上がったりしていて申し訳ないです。

コメントの方で当日の野球試合と被害者の足取りについて、伊吹さんにいろいろと解説をしていただいています。その議論についてまとめる前に、前提となる情報として伊吹さんから当時の堀兼中野球部員にインタビューをした証言をいただいていますので、まずそれを掲載させていただきます。

以下は、事件当時堀兼中3年生で野球部員だったH氏に対して、伊吹さんが2010年12月17日にインタビューした内容です。本件、実は昨年末に伊吹さんからいただいていたのですが、取扱に迷っていたのとちょっと身辺多忙だったため掲載が遅くなりました。お詫び申し上げます。

  • 事件の日、堀兼中野球部は試合の予定はなかったと思う。
  • 自分もその日は東中に出かけたが、何のために行ったのかは全く覚えていない。
  • A先生と一緒に(引用注、東中に)出かけたわけではない。
  • (「第二ガード証言」の話を聞いた後で)A先生がすぐにバレるようなウソをつくとは思えない。A先生が「試合のために東中に行った」と行っているのなら、或いはそうなのかもしれない。
  • (「A先生証言によれば当日の堀兼中の試合開始予定は3時半だった」という説明を聞いた後で)3時半から試合開始というのは遅すぎると思う。
  • OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった。
  • 当日のことは時間、天候等について何も覚えていない。
  • インターネットで、自分と他の野球部員2名が堀兼中校長宅で警察に事情聴取されたことになっている話を見たが、それを見ると「そういうこともあったかな」という感じ。警察に何かを聞かれたという記憶はある。自分を含めた3名だけが呼ばれた理由はわからなかった。
  • 警察には、「東中に行く途中」ではなく「帰り道で被害者に会わなかったか」と聞かれたと思う。
  • 警察に話を聞かれた他の2人のうち、1人はもう亡くなっている。1人は川越に転居している。
  • 被害者のことはもちろん事件前から知っていた。たかだか100人程度、3クラスの学校で小中ずっと一緒に過ごすのだから、ほとんどの人のことは自然に覚えてしまう。被害者は学校でも目立つ存在だった。
  • 当時、駅方面に出かけたこともほとんどなかった。事件の日にどの道を通って東中に行ったのかも記憶していない。
  • 事件後も学級内や野球部内で事件のことが話題になったことはなかった。
  • ただ、校庭がヘリコプターの発着場になったのでみな騒いでいた。友人とそれを見に行った思い出はある。

この中では、「OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった」という証言が最も重要でしょう。事件当日の細かいことは忘却の彼方であっても、こういう大きなくくりでの日程感は年数が経っても間違えようがないと思います。まだ引退していなかったH氏が事件当日に試合をした記憶がないこと、同じく現役野球部員だったOTくんも、試合をするためにではなく試合を見るために遅れて東中に行っていることから、当日堀兼中は試合がなかったことはほぼ確実と言ってよいと思われます。そうなると、A先生の証言の、少なくとも一部については信憑性に疑問符が付くことになります。

 

狭山事件: 長兄の手記 その2


サンケイ新聞 昭和38年5月23日付夕刊 神奈川県立図書館蔵

sankei-s380523yu-Tokyo
サンケイ新聞 昭和38年5月23日付夕刊 国会図書館蔵

私(本ブログ管理人)もつい最近まで存じ上げていませんでしたが、『狭山事件を推理する』(本の方)の著者である甲斐仁志氏がWebページを開設し、そこで『狭山事件を推理する』の内容をほぼ全て公開されているようです。
 リンクはこちら: 狭山事件を推理する ホームページ復刻版

著者で上記ホームページ復刻版の管理人である甲斐仁志氏に、伊吹隼人さんがコンタクトされていくつか新しい情報を得ています。当方からも甲斐さんにコンタクトを試みていますが、現時点でまだご回答をいただいていないため、ちょっと取扱に迷っている部分があります。とりあえず、甲斐氏ご本人の了承なしで書ける部分をいくつか取り上げたいと思います。

今回判明した事実で最も重要なのは、甲斐仁志さんは石川一雄さんの支援団体に関係したことがあり、『狭山事件を推理する』の中でこれまで根拠が不明だったいくつかの記述が、実はそういった支援団体の調査に基づくものであったということでしょう。
私(本ブログ管理人)も、他の本で裏付けが取れない甲斐本の記述は、単純に事実ではないと考えていましたが、いろいろな状況を考えるとそうとも言い切れないような気がしてきています。

最もわかりやすい例として、長兄の手記の「犯人たるおまえに…」の記述があります。一応改めて問題となる記述を引用しておきます。

犯人たるおまえに なぜ善人に戻って呉れなかったのか、悪に取りつかれたおまえでさえ戻るのみの善をおまえはもって居た筈であり、その善は今日のこの日を待っては居なかった筈なのに……

私(本ブログ管理人)は、この記述が甲斐本以外に見当たらないことから甲斐氏の創作であろうと判断していました。しかし、甲斐氏によれば、これは実際に長兄の手記に書いてあった内容であったとのことです。本日の画像はその検証です。どちらもサンケイ新聞昭和38年5月23日付夕刊の、長兄の手記が掲載された紙面です。

上の画像は、神奈川県立図書館で閲覧したものです。下の画像は、国会図書館で閲覧したものです。いずれも縮刷版ではなく、当時配達された新聞を、神奈川県立図書館は実物の新聞のまま、国会図書館はマイクロフィルムで閲覧し、コピーしています。どちらも「第4版」になっているにもかかわらず、長兄の手記の画像が微妙に異なっています。具体的に言えば、上の画像では「お願ひ致します」と「苦しかった事だろう」の間に空白行があるのに対して、下の画像は「苦しかった事だろう」以下が「お願ひ致します」の行に寄せられていて、全体にコンパクトにまとめられています。

常識的に考えると国会図書館蔵の記事の方が神奈川より時間的に後の版であると考えられ、それは国会図書館版の方が地の文が増えていることでもわかります。そのスペースを捻出するために「苦しかった事だろう」以下を詰めて掲載したという推測も可能です。ただ、いずれにしても、サンケイ新聞による長兄手記の変造がこれだけ明らかに示されている以上、甲斐氏による「もっと早い版には『犯人たるお前に…』の記述があった」という主張は、ある程度の信憑性があるのではないかと思います。

 

狭山事件: 「腹違い」と「種違い」

zoku-muzainoshinjijitsu
『狭山事件 続無罪の新事実』

亀な紹介ですいません。以前にとりあげた「被害者は腹違いではなかったか」という質問が裁判で出てきたことに関して、「狭山事件を推理する」サイトにて「おそらくは根拠のない噂レベル」という話が出ています。

『続無罪の新事実』の記述を確認しましたが、確かに亀井氏自身が「僕のある記事にヒントを得て」と明記しています。そもそも亀井本は事実関係にかなり疑義があることはこれまでも本ブログで見てきたとおりです。さらにこの部分は、「狭山事件を推理する」サイト管理人氏も指摘しているとおり、いわゆる「荻原文書」の受け売りであると思われます。したがって、信憑性はほぼゼロといっても差し支えないでしょう。

そういうわけで、今後何か新事実が出てこない限り、この「被害者は腹違い(種違い)」という話は、狭山事件真犯人推理の上ではガセネタとして扱うべきであると思います。

 

その他: 徒然草

世にかたりつたふる事、まことはあいなきにや、おほくはみな虚事なり。あるにも過ぎて人はものを言ひなすに、まして年月すぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。

(徒然草)

世間で語りつたえる事は、ほんとうの事実はつまらないのか、たいていはみなでたらめだ。人は、事実以上にものごとを言いたてるうえに、まして年月もたち、場所もかけ離れたところだということになると、言いたいほうだいにでっちあげて、文章にまで記録してしまうと、それでもう事実ということになるのだ。

小西甚一『古文研究法』(上記・徒然草の文章の現代語訳)

学生時代の参考書を読み返していたら、非常に含蓄のある言葉が目に付いたので、今更ですが書き留めておきます。狭山事件でも、下山事件でも、津山事件でも、この言葉に当てはまる本や人が容易に思い浮かびます。

「年月すぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ」
この言葉は、本ブログを続ける限り心に留めておきたいと思います。

 

狭山事件: 『三億円事件の真犯人』について その2

joseijishin1女性自身 昭和38年6月24日号

joseijishin2女性自身 昭和38年6月24日号

こちらのエントリの続きです。かなりしょうもない小ネタです。興味がない人は読み飛ばしてください。

殿岡駿星氏の『三億円事件の真犯人』の中で、三億円事件の真犯人である「佐々木」は過去に人を殺したことがあるという設定になっていました。本人は「勝どき橋から女性を突き落として殺した」と言っていて、「町子さん」は「違うところで違う人を殺したことを隠蔽するためにそのように言ったのではないか」と推理しています。

で、私が個人的に「勝どき橋から女性を突き落とした」事件の元ネタじゃないかと思うのが本日の画像の記事です。
この記事はOTくんの目撃証言の記事の隣に出ているので、殿岡氏はこれにインスパイアされて橋から女性を突き落とした話を書いたんじゃないかな、と。場所も違うし(記事に出てくる橋は墨田区の源森橋です)、深い根拠はないのですが。

しかし、この事件もひどい話です。女性が突き落とされたのを目撃した男性が、「女性の特徴を詳しく覚えすぎている」などの理由で警察から犯人として疑われ、15時間ぶっ続けで取り調べを受けたとのことで、警察のリークに乗ってマスコミがこの男性を疑うような記事を書き立てたあたり、冤罪事件の典型的なパターンになっています。結局真犯人が見つかってこの男性は警視総監賞まで受けたそうです。逆に言えば、突き落とされたのを目撃して届けた程度で警視総監賞をもらえるものなのかな、という疑問も持ちます。単なる口止め料じゃないかと。

狭山事件: 署名のお願い

sayama_hagaki再審要望署名ハガキ

前回のエントリで書き忘れました。

狭山事件にご興味がある方は、是非とも再審ならびに事実調べ要望の署名をお願いします。
下記は、支援団体が印刷しているはがきの文面です。必ずしもこの通りの文章でなくてもよいようですが、「狭山事件の事実調べをしてください」という内容と、ご自分(差出人)の住所・氏名は必ず記載していただくようお願いします。

宛先:
〒100-8933
東京都千代田区霞が関1-1-4
東京高等裁判所第4刑事部
裁判長 岡田雄一 様

本文:
狭山事件の公正・公平な裁判を求めます

狭山事件の第3次再審請求において、弁護団は、専門家による筆跡鑑定書、法医学鑑定書など、無実を証明する多数の証拠を裁判所に提出していますが、2審の確定判決以来34年以上、事実調べ証人尋問などが一度もおこなわれていません。このことは法の正義に反し、公正・公平ではありません。
弁護団提出の証拠について事実調べをおこない再審を開始されるように求めます。
また、昨年の開示勧告に引き続き、弁護団が求める証拠開示についても勧告されるよう求めます。

真犯人推理の観点からも、よりいっそうの証拠開示が求められるところです。再審・事実調べが開始されれば、また新たな事実が判明する可能性もあります。是非ともよろしくお願いします。