Tag Archives: 伊吹隼人取材報告

狭山事件: 現地調査2013 結果報告

伊吹隼人さん主催の現地調査が無事に終了しました。参加者の方々はお疲れ様でした。以下、当日の模様をフォローアップ含めてお届けします。ここ数年で、特に狭山市駅前が大きく様変わりして事件当時の面影がなくなってしまいましたが、さらに狭山准看護学校も移転したため、さらに再開発が進みそうな感じです。

狭山市駅
狭山市駅その1

狭山市駅での様子。

IMG_3784
狭山市駅その2

狭山市駅は2010年に橋上駅舎に改装され、事件当時の面影が全く無くなってしまいました。写真の左の方が当日石川さんが休憩したという「荷小屋」の跡地になりますが、今はそれらしい跡はありません。

IMG_3787
狭山医師会立准看護学校跡

被害者が通っていた埼玉県立川越高校入間川分校跡地です。跡地は長い間狭山医師会立准看護学校として使用されていましたが、2013年(今年)4月に同校が狭山台に移転して現在は跡地になっています。手前の狭山市中央公民館も既に取り壊されており、奥の狭山市立武道館も建物の耐震問題で2013年(今年)4月から利用停止となっているようです。したがって、この一帯をすべて再開発する予定なのかもしれません。現在ある准看護学校の建物は既に事件後に建て直されたものですが、事件当時を偲ばせる裏口=旧入間川分校の正門門柱の処遇を含めて、今後どうなるか予断を許さない状況です。
入間川分校の沿革についてはこちらのエントリをご参照ください。

IMG_3793小澤毛糸店跡地付近
被害者が当日立ち寄って針刺しを購入した小澤毛糸店はこの辺にあったようです。駅前通りならびに商店街自体が完全に取り壊されてしまったので、当時を偲ぶすべもない状況となっています。

IMG_3797荒神さま
三柱神社(荒神さま)です。伊吹さんによれば、地主の方の意向でこの神社は残す方向とのことです。ただし、事件当時の境内と比べると数分の一に縮小しています。

IMG_3802「殺害現場」
石川さんの自白による死体発見現場です。今年のニュース等でも登場していました。だいぶ以前から雑木林は姿を消していましたが、周囲を見るとさらに開発が進んでいるようです。

この他にも権現橋(養豚場跡地)から所沢方面に抜ける道路が開通したそうで、刻々と事件当時の面影がなくなっていくことを肌で感じます。


本ブログでとりあげている事件に関する同人誌等の通信販売を行っています。詳細はこちらをご参照ください。


   

狭山事件: 『現地からの報告』 その1


『狭山事件・現地からの報告』 たいまつ社

伊吹隼人さんから、1970年代に「狭山市民の会」が現地でかなり突っ込んだ取材、特に、関係者に対する聞き取り調査をしていたとの情報をいただきました。今回の画像は、その「狭山市民の会」(無実の石川一雄さんをとりもどそう狭山市民の会)が編著者となっている本からの引用です。

Read more… →

狭山事件: OGについて その5

東京タイムズ昭和38年5月7日付

東京タイムズ記事に関するエントリその2です。今回は、5月7日付のOGに関する記事です。

この記事に関する伊吹さんのコメントは下記の通りです。

一番面白かったのは7日付けのOGに関する記事で、これはどこよりも詳しい内容となっています。

  1. OGは捜査線上に浮かんでいた
  2. OG死後、埼玉県警の中刑事部長がOGの遺書を手に記者会見で説明を行った
  3. OGは婚約者とはしばしば新居でデートするほど仲が良かった
  4. OGの新居は4月末に完成、5日までには新居の家具を全部運び終わっている
  5. 新居の建築費用は(OGの)長兄に出してもらった
  6. 結婚費用に困っており、4月に決まった挙式を5月7日に延期していた
  7. 事件の日は午後3時頃、新居に寄るのを近所の人が見ている。いつ出たのかは分かっていない
  8. 死体発見現場付近で自転車のタイヤ跡と地下タビの足跡が発見されており、捜査本部はこれが死体を運ぶ際についたものとみている
  9. 脅迫状とOGの昭和31・32年度の日記の筆跡には似ている点がかなり認められた

などの記事は他紙では見られないものですし、東京タイムズ記者が相当突っ込んだ取材をしているのは間違いないように思われます。

Read more… →

狭山事件: 脅迫状が差し込まれていた場所


東京タイムズ昭和38年5月4日付


「(被害者宅)のうら口、台所の窓口に手紙(引用注:脅迫状)がおいてあった」

正月早々に、伊吹隼人さんから「狭山事件に関する東京タイムズの当時の報道が面白い」ということでコピーを送っていただきました。ありがとうございます。読んでみると確かに興味深い記事が多いため、これから何回かに分けてご紹介していきたいと思います。

本日引用したのは、5月4日付の狭山事件発生を報じた第一報です。

Read more… →

狭山事件: 地元における対立構造

伊吹隼人さんから、「区長について その2」エントリへのコメントをいただきました。ただ、コメントとして掲載するには内容が重大すぎると思いますので、新規記事として掲載させていただきます。伊吹さんからも「さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたい」とのことですので、些細なことでも結構ですのでご意見・ご質問をいただけると幸いです。

なお、下記には今回初公開の内容が含まれています。これらの内容は伊吹さんならびに協力されている方々の取材によって判明した事実に基くものであることを申し添えます。


事件と当時の村内の対立、N家をめぐる事情についてまとめてみました。ここからは果たしてどのような推理が可能になるでしょうか?さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたいと思っています。宜しくお願いします。(伊吹)

  1. 昭和8年~9年頃? 被害者の母親のMさんが川越市中福のA家からN家に嫁いだ。A家は中福を代表する大農家の一つ。嫁いだ日の翌朝、N家の庭には〝嫌がらせ〟として墓を模した大きな「土まんじゅう」が造られてあった。美人であったMさんに恋焦がれていた者の犯行とも噂されたが、結局犯人は分からずじまいであった
  2. N家は戦後、闇野菜で大儲けし、地域を代表する農家にのし上がったといわれている(※後述の通りN家は地元政治家との関係も深く、闇野菜の扱いに関してもその力添えがあったという噂もある)
  3. 昭和22年、農地改革があった年に被害者が誕生。N家の近隣住民によれば、「N家も、母親の実家のA家も、いろいろ因縁のある家だった」「家族関係が複雑だった」「普通の家族じゃなかった」
  4. 亀井(荻原調査)本によれば「(被害者宅には)種違い(または腹違い)の噂もあった」
  5. 野間本によればA先生(被害者の中学3年時の担任)曰く、「変わった家庭だった」
  6. 上赤坂某地区(以下「C地区」とする)の住民によれば、「N家は複雑な家庭だった」
  7. N家では被害者と末弟・T君のみ、なぜか名前で共通の字が使われていない
  8. 昭和22年から食糧増産および農家次男・三男対策、引揚者対策として、上赤坂C地区の山林開拓の話が持ち上がった。N家を含むC地区山林所有者たちや当時の堀兼村長(諸口会三氏=被害者の同級生・諸口高男氏の父)らが猛反対。しかし、結局山林開拓が決定、N家らは広大な自己所有林を手放すこととなった。
  9. 昭和24年に20名がC地区に入植。そのうち3名は被害者の母・Mさんの実家近所の住人
  10. 山林開拓は困難を極め、入植民たちは「食うや食わずの」生活をしていた。「まともな生活が出来るようになったのは昭和40年代から。電気が引かれたのは昭和29年、水道が引かれたのは昭和39年だった」(C地区の住民)
  11. 同じC地区内でも地元出身者(Mさん実家の近所の出身者)と他地区からの入植者(満州や沖縄からの移住者を含む)との間では仲が良くなかった。地元出身者は実家から援助もして貰える立場で生活に不安がなく、他の入植者とは意識が異なっていた。
  12. 上赤坂地区内において入植民(C地区を含む)や小作人上がりの自作農民は蔑まれており、江戸期からの開拓民(N家を含む)たちから差別されていた。入植民や小作人上がりの者たちには何の発言権もなかった。部落差別とは別の、いわばもう一つの〝差別〟があった。
  13. C地区の子供たちも当時堀兼小学校では「よそ者」として蔑まれていた。その頃小学校に通っていた者は、今でも同窓会に出席しようとしないという。当時、学校内ではC地区内の子供たちだけで団結していた。その団結力の強さにはかなりのものがあった。
  14. 江戸期開拓民と小作人上がりとの対立は長く続いた。これは、決して今も解消されていない。ただし、C地区を含む入植民との対立は現在ほぼ皆無となっている
  15. 昭和28年に被害者の母親のMさんが死亡。死因は脳腫瘍とされているが「毒殺された」との噂もある。収容されたのはなぜか遠方にあって精神科中心の国立武蔵療養所(現在の国立精神・神経医療研究センター
  16. 事件の頃は日本が高度成長期にあり、上赤坂近辺でも道路・河川などの開発・改修工事が盛んに行われていた。地価も急激に高騰しており、農家の中には土地を売却して多額の現金収入を得ようとする者もいた。ただし、売却にあたっては市街化調整区域指定など様々な障害があり、当然ながら調整区域の指定にあたっては「区長」を含め様々なレベルでの「政治」の介入が噂された
  17. 昭和38年3月頃?I養豚場が上赤坂・M氏宅裏手から不老川沿いに移転
  18. 同年3月~4月頃?被害者の父が上赤坂地区(78戸)の区長に就任。この区長選を巡っては内部で相当な確執があったとされる
  19. 同年4月30日は統一地方選挙で、その一環として狭山市議会選挙があった。N家がある旧・堀兼村の定員は4人で現職は自民党3、共産党1。自民党現職1名は引退したが、現職3名・新人3名が立候補し、選挙の結果、自民党が4議席を独占することになった。市議会全体では定数30で、改選後は自民と保守系無所属で27、社会党2、共産党1
  20. 同年5月1日、事件発生
  21. 警察は事件発生当初、C地区の住民を真っ先に疑った。数日後からは養豚場中心の捜査に切り換えた、とされる
  22. 「怨恨による犯行の可能性あり」とのことで、警察はC地区とともに被害者の母・Mさんの実家および周辺も捜査した
  23. N家長兄はインタビューに対して、「『おそらく顔は知ってる人じゃないか』っていうことは父ははっきりと言いました。だから、『犯人が捕まっても写真も見たくないし、犯人とも会ってみたくもない』って父は言っています」「(父は)『犯人の方でも、私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから』と言っております」と発言
  24. N家近所の某氏によれば、「あの時は『長兄がやったんじゃないか』という噂が立った」
  25. 被害者母校の某教諭は、事件の時すぐに長兄の犯行を疑った(某教諭は被害者宅近くに親戚あり)
  26. 上赤坂C地区の住人によれば、「事件の時は『(家族関係が複雑だったため)長兄が妹を始末したのでは』との噂が立った」
  27. N家は事件当時、被害者の母親・Mさんの実家がある川越市中福にも畑を持っていた(現在は川越市に売却済み)
  28. 平成15年、C地区の開拓に反対した(上記8.)諸口会三元村長の息子・諸口高男氏(被害者の堀兼小・中学校時代の同級生)が自民党の県議となる。N家長兄も高男氏後援会の中心人物の1人だった

本ブログでとりあげている事件に関する同人誌等の通信販売を行っています。詳細はこちらをご参照ください。また、とらのあな通販もご利用ください。


 

その他: とらのあな通販取扱開始

当方の手違いでしばらくとらのあな通販が在庫切れになっていましたが、復活しました。

「本はほしいが、個人サイトだと個人情報が怖い」という方、銀行振込以外の決済方法をご希望の方はこちらをご利用ください。


 

狭山事件: 「区長」について その1

狭山事件関係の書物や議論の中で、「被害者の父親は上赤坂の区長を務める地元の実力者で…」という記述が時々出てきます。しかし、この「区長」がなんなのか、きちんと説明した文章を私は今まで見たことがありませんでした。
狭山市は東京23区内でもありませんし、政令指定都市でもありませんので、現在通常使うような、例えば「港北区長」「中央区長」などの「区長」とは意味合いが異なることは確かです。

先日、伊吹隼人さん(ならびにSさん)から『郷土誌ほりかね』という本の存在を教えていただきました。そこに区長についての話が出ていましたので、備忘録の意味も含めてまとめておきたいと思います。

いつもならここで郷土誌ほりかねのスキャン画像を置いておくところですが、古い郷土誌であまりにも個人情報てんこ盛りなので自粛させていただきます。あしからずご了承ください。

区長の起源は、明治5年に始まった戸長制度にあります。
戸長は、数カ村をまとめて区とし、その長として置かれました。なぜ区の長なのに戸長なのかは不明です(笑)。この戸長・副戸長には旧来の庄屋・名主を任命することが多く、徴税や義務教育、徴兵管理などの地方行政のかなりの部分に対して協力する存在でした。ちなみに、明治2年の記録では、上赤坂は前橋藩、中新田は川越藩、青柳は品川県となっているそうで、江戸~明治期の堀兼周辺の帰属はかなり複雑であったことが伺えます。

その後、戸長は選挙で選出されるようになったり、また官選に戻ったりと紆余曲折があったようですが、最終的に明治17年(1884年)に「戸長選任及び町村連合に対する太政官布達」(太政官達第四十一号)が出て、1) 300~500戸単位で「連合戸長」を任命すること、2) 戸長・連合戸長は(選挙の結果を参考にしつつ)官選とすることになりました。この時誕生した「連合戸長」は、付随して「戸長役場」が設置されるなど、「村」と同様の地方行政を担う存在であったようです。

明治22年(1889年)には町村制が施行されて堀兼村が誕生しました。その際に、従来の「戸長」が「区長」に改称され、村条例で区長の仕事を定めたとされています。しかし、その肝心の村条例が残っていないそうで、それ以上の詳細はわかりません。この区長も官選で、資産などの条件がついており、「世襲的のように長い間区長は動かなかった」とのことです。

その後、戦時中の隣保班(隣組)の制度や、戦後の公民館制度などとも微妙に絡み合いながら、結局のところ「区長」という名称で、少なくとも狭山市内においては半ば公的な存在として認知されていたようです。昭和45年(1970年)に改定された「狭山市区長会連合会規約」の第一条にも「本会は狭山市区長会連合会(以下連合会)と称し、事務所を市役所総務課内に置く」と規定されていて、区長会連合会の事務局を狭山市役所自身が務めるほど、公的に認められた存在であったことがわかります。ただ、いつから公選ではなく選挙で決まるようになったのかは不明です。

上述の「規約」の第四条には、連合会の事業として下記の4項目が掲げられています。

  1. 地域自治組織(各地区区長会)の連絡に関すること
  2. 自治活動の総合計画に関すること
  3. 市並びに関係団体との連絡協調に関すること
  4. その他本会の目的達成のために必要なこと

要するに、市に対する政策陳情、逆に市から下りてくる諸施策への協力等(例えば回覧板を通じて、等)が区長の仕事ということになるでしょう。

この先は私(本ブログ管理人)の想像が入ります。農地関連や市関連施設の誘致なども、市としてはまず区長(連合会)に諮問して、それから業務を進めるという形だったのではないでしょうか。従って、例えば市街化区域の指定などの具体的な線引きには、それなりの影響力を持っていたものと私は考えます。

長々と書きましたが、被害者の父親が就任していた「区長」とは下記のような存在だったと私は考えます。

  • ほとんど公職に近いものである
  • その経緯からも、家柄や資産などが実質的に就任の条件となっていたものと思われる
  • 市が政策を実行するにあたって真っ先に諮問が下りてくる存在であり、具体的な執行方法に対して大きな影響力を持っていた

このことが、「狭山事件の推理」にどう影響を及ぼすかを次回以降書きたいと思います。

 

狭山事件: 『現地インタビュー集』について

しばらくリアルの仕事が多忙だったため、更新が滞っていて申し訳ないです。

伊吹さんの『狭山事件 現地インタビュー集』のラストには、『狭山事件を推理する』の著者である甲斐仁志氏の談話をまとめたものが掲載されています。詳細については本をご覧いただくこととして、その中で意外な感じがしたのはA先生に関する記述です。

甲斐氏はA先生に直接取材し、A先生の当時の手帳まで見せてもらってかなり詳しく話を聞いたとのことです。
にもかかわらず、『狭山事件を推理する』においてA先生証言は完全に否定され、

(被害者)との出会いは(引用注、事件当日である5月1日ではなく)4月25日の出来事である可能性が高い

と結論づけられています。

しかし、「4月25日と勘違いしている説」は妥当ではないと考えます。その根拠の一つとしてあげられている

(A先生)の証言は事件当時のものではなく、二審の最終段階での供述である

という記述に対しては、既に伊吹氏がインタビューしたY先生の「事件翌日にはA先生は1日に(被害者)に会ったと言っていた」という趣旨の証言もありますし、A先生の証言も詳細にわたっています。

他方で、伊吹さんの取材・インタビューの結果、A先生の証言の特定の部分に対する信憑性に疑問符がついてきていることは、既に何度か本ブログでもご説明しているとおりです。

  • 当日、堀兼中野球部は試合がなかった
  • 少なくとも3年生は、まだ引退前だったにもかかわらずバラバラに試合を見学に行っていた
  • A先生は「厳しい」先生であり、本当に試合があって引率していたのであれば勝手に現地に行くようなことを許すタイプではない

現時点で、少なくともこれらのことはほぼ「事実」として扱ってよいと思います。

正直なところ、伊吹さんの取材で上記のことが確認されるまで、甲斐氏による「A先生証言は信用できない」という結論を私(本ブログ管理人)は軽視していました。今回のコメントで甲斐氏がきちんと調査した結果としてA先生証言否定説にたどりついたことを知り、「やはり狭山事件は一筋縄ではいかないなあ」ということを改めて痛感した次第です。

そうやって考えていく中で残念なのは、以前はマスコミの取材にも対応していた人たちが現在はこぞって取材拒否となっていることです。具体的には長兄、A先生、長姉です。Mくん(PTA会長の息子)も、昔は被害者宅でマスコミの写真撮影に応じていたことを考えると、その中に含めてもいいかもしれません。伊吹さんの本でも「インタビュー拒否」となっている関係者の方が数多くいらっしゃいます。

関係者の高齢化を考慮すると、ここ10数年が狭山事件の真相解明の最後のチャンスでしょう。2010年になって、1938年に起きた津山事件の都井睦雄と関係があったとされる「ゆり子」さん(2010年現在で94歳)のインタビューに石川清さんが成功したように、どこかで大きなブレイクスルーが得られないものかなあ、と思います。

なお、これまでにコメント欄で伊吹氏ならびに私(本ブログ管理人)からもご説明しているとおり、A先生証言の信憑性に疑問符が付いたからといって一足飛びにA先生犯人説は成立しません。その理由は既にしつこいくらいご説明したとおりです。したがって、本エントリにA先生犯人説のコメントをいただいたとしても黙殺させていただきますので、あらかじめご了承ください。