現在の校門を、昔の写真と角度を合わせて撮影。写真の左側の石柱の向こう側はすぐ崖です
被害者が通っていた川越高校入間川分校についてのまとめです。
上の写真は、入間川分校の正門の変遷です。
現地調査に参加されたことのある方はご存じと思いますが、入間川分校の正門は現在の狭山准看護学校の裏口の位置、つまり、狭山市立中央図書館前の広い道路の方ではなく反対側にありました。ちなみに、このことを最初に指摘したのは、私が知る限り伊吹隼人さんです。Googleストリートビューでいうとこちら側が分校の正門になります。
この正門はどうやら、上2つの写真の時代と、一番下の現在の写真で、位置(角度)が変わっているようです。上2つの写真では正門の後ろに平行に校舎があって左の方に伸びていますが、現在の写真で校門の後ろに見えている青いフェンスの左端の外側はすぐ崖になっており、校舎は建てられません。おそらく、狭山事件のあった昭和38年の年末から行われた(後述)校舎の鉄筋コンクリートへの改築に伴い、校門を移設したものと思われます。なお、写真で見る限り、校門の石柱は改築前と同じものを使用しているようです。
被害者がこの分校に通っていたのは、改築前の木造校舎(平屋建)の時代でした。
コメントで米子様にご教示をいただいた、狭山市史に掲載されていた木造平屋建て時代の校舎見取図を掲載しておきます。
川越高校入間川分校見取図(昭和29年5月)
以前論じた被害者はいったん外出して戻ってきたよ説を考える時、あるいは同級生が被害者が教室を出て行くのを目撃したという証言を考える時、現地に行ったことがあると無意識にあの鉄筋コンクリートの校舎に出入りする姿を想像してしまいがちですが、実際には平屋の木造校舎でした。
別科1年生がどの教室を使っていたのか不明ですが、常識的には上の見取図の1年生教室を使っていたものと思われます。正門から一番遠いこの教室を出入りするときに同級生に目撃された、ということになるでしょう。
最後に、入間川分校の沿革です。以下は「川越高等学校八十周年記念誌」「狭山市史」「川越高等学校百周年記念誌」などの記述を元にまとめたものですが、一部で資料間に齟齬があるため、私(本ブログ管理人)の判断で取捨選択しています。もし明らかな間違いがあればご教示ください。
- 昭和23年(1948年)9月: 県立川越高等学校入間川分校開校(定時制)。入間川公民館三号室(元青年学校)にて授業開始。ちなみに「青年学校」というと都井睦雄を思い出します(笑)詳しくはWikipediaでも見てください
- 昭和24年(1949年)4月: 町立入間川中学校(現在の入間川東小学校の位置)内へ移転。校舎の一部を借用して授業を行った
- 昭和25年(1950年)11月: 入間川中学校校舎を改築することになり、その旧校舎を現在地に移築して独立校舎にすることになった。改築・移築期間中は、入間川小学校の校舎の一部を借用
- 昭和26年(1951年)2月: 専用校舎完成
- 昭和27年(1952年)4月: 別科開設。女子のみで昼間2年間、和洋裁と調理を中心とする課程で、高卒資格は得られないものであった。被害者はこの別科の生徒だった
- 昭和35年(1960年)7月: 旧校舎防音工事開始(10月完成)。航空自衛隊入間基地の騒音対策
- 昭和38年(1963年)5月: 別科1年生が誘拐され、殺害される(狭山事件)
- 12月: 鉄筋コンクリート新校舎への改築が始まる。改築期間中は市立東中の教室を借用
- 昭和39年(1964年)8月: 新校舎完成
- 昭和40年(1965年)3月: 別科募集停止
- 昭和41年(1966年)3月: 別科廃止、普通科(定時制の本科)もこの年が最後の新入生となる(定時制高校は4年制なので、昭和45年卒業)
- 昭和42年(1967年)3月: 普通科募集停止
- 昭和45年(1970年)3月: 川越高校入間川分校廃校。定時制課程普通科卒業生747名、別科課程家庭科卒業生324名
ちなみに、現在跡地にある狭山准看護学校は昭和42年開校(当時は狭山市立)とのことで、普通科(と書くと、何となく兵科に思えてしまいますが)が募集を停止したのと同時に、入れ替わりで生徒募集を始めて開校したようです。
事件とは何の関係もありませんが、お金を掛けて防音工事をしたのにその3年後には鉄筋コンクリート新校舎に建て替えたり、折角の立派な新校舎が竣工した翌年の昭和40年に別科募集停止(41年廃止)、42年には普通科も募集停止で45年に廃校という流れは、あまりにも行き当たりばったりで「お前ら、もうちょっと考えて仕事しろよ」と言いたくなります。あるいは、もともと准看護学校に転用することを前提に建設したのでしょうか。
管理人様
大変、読み応え見応えのある資料をありがとうございます。
あれこれと気も急くのですが、少々クールダウンし、改めて書き込ませて頂きたいと思います。
事件当時の正門の位置は、校舎平面図でいうところの「舎」の文字がある辺りだったと理解して良いのでしょうか?
例えば管理人様が掲載して下さった上二枚の写真では、一対の石柱の手前には「学校名」が書かれた厚手の板が掛けられています。また、奥の石柱のその奥(学校敷地内)には似た若木も写っています。
仮に、ほぼ同一場所から同一方向を撮影したものだとしますと、玄関の写り込み方に違いが有るため、二枚目の写真では使丁室などを繋ぐ廊下が写っていないだけなのか、廊下を含めた使丁室などの建物自体が無くなっているのか、ちょっと分かりりません。
そこで、それを補完するのに、一番下の事件当時の分校写真と沿革を引用したいと思います。
まず事件当時の分校写真から木造校舎の中程の継ぎ目(?)があるので何処から何処までが分校なのかが分かりにくいのと、右側上方に高さの違う建物があるので、私なりの解釈を示します。今のところ判るのは一枚目の写真の独立校舎建立に当たって、当時の入間川中学校の三教室分を「(入間川)公民館西側」に移転した、とある文献がありました。但し、三教室以外はどうだったかは不明ですが。初期分校の並び(入間川)に公民館が有ったとされる資料を見ますと、事件当時の分校写真の右端上方に写り込んでいる建物が、その公民館だった可能性が大きいのです。後年、昭和43年11月に中央公民館として新たに生まれかわりますが 、事件当時には入間川町公民館だったのではないかと思われます。
※「但し管理人様掲載の1966年人文社刊によります施設名称と異なっております、継続擦り合わせ中です」
事件当時の写真に戻ります。今度は、手前の分校の左手向こう側にある建物の屋根がみえます。
個人的には、この事件当時の分校写真が本当に事件当時のものなら、この屋根は「使丁室など」の屋根なんだろうと考えます。つまり、二枚目の写真に写ってはいないものの、使丁室などの教室以外の施設も残存していたとみても良いのだろうと考えています。
個人的に擦り合わせが不十分ながら、今一番に気になるのは、事件当時の分校の正門は校舎平面図の玄関の先にあったのかどうかという事です。「舎」の位置が確実かどうか、です。
この位置関係(玄関と正門)が確実だった場合、新たに分からない事が出て参ります。管理人様の仰る一番奥の教室と正門の関係然り、自転車置き場をも含めた各人の動線の根拠、です。続きます。
書きまちがいが有りました。
×初期分校の並び(入間川)に公民館
○初期分校の並びに(入間川町)公民館
×事件当時には入間川町公民館
○事件当時には入間川公民館
以上二ヶ所を訂正します。
米子様
>事件当時の分校写真の右端上方に写り込んでいる建物が、その公民館だった可能性が大きいのです。
これは公民館です。2年前に「懐かしの狭山」写真展が開催され、この写真が展示された時、当時から近所に住んでいたという方もそうおっしゃっていました。
>事件当時の分校の正門は校舎平面図の玄関の先にあったのかどうかという事です。「舎」の位置が確実かどうか、です。
事件の日、長兄氏は「八幡神社側から道を曲がって坂の下に車を駐め、坂道を登って分校に入り、用務員の女性に声を掛けた」旨供述しており、西側に当時の正門があったことは確実と思われます。平面図で西に張り出している建物うち(タ)(ル)は便所、(ヲ)が物置ですから、正門からの写真左手の張り出しは(ワ)(カ)(ヨ)とみるほかなく、正門が玄関先にあったのも間違いないでしょう。ただ、自転車置き場から正門へ向かう通路がよく分からない感じですね。平屋の校舎であるにも関わらず(ツ)が「廊下・渡り」となっているので、あるいは四年教室(ト)の脇あたりに正門へ抜けられるような細い通路が存在していたのかもしれませんが・・・。
伊吹様
分校と公民館、分校正門と玄関の解説をして下さいまして、ありがとうございます。校舎平面図におきまして、以後、「舎」辺りに正門があったものと考えて参りたいと思います。ただし、事件当時の正門位置であって、現存の正門位置については改めて検討出来たらと思っております。また、正門と自転車置場間の動線については、引き続き検討を重ねて参りたいと思います。
その前に改めて確認をしたいのですが、入間川分校跡地の現在の範囲です。もっぱら紹介されるのは現准看護学校ですが、もっと広い敷地に建っていたのではないかと思います。入間川分校自体が、初代木造校舎→防音木造校舎→鉄筋校舎と生まれ変わったせいか、事件後に建てられた鉄筋校舎の敷地を跡地=現准看護学校と紹介されてるのだろうと思われます。
ところが事件当時の分校は、防音工事を施した建物ではありましたが、昭和29年の校舎平面図のような平屋の建物です。正門に正対した玄関を中心に、左右に等しく奥行きのあった建物ですから、現准看護学校の敷地だけでは足りないはずです。
つまり正門から玄関方向を向いた時に、右手方向=隣接する現市立武道場地も、事件当時の入間川分校跡地なのではないかと思うのですが、如何でしょうか?
別科1年生の使っていた教室についてですが、三年教室または四年教室を使っていた可能性の方が高いと思います。
というのは、これらの教室には洋裁室、和裁室、割烹室、女子便所が隣接していて、別科の生徒が使うのに都合がよいような配置がなされているように見えるからです。
また一年教室、二年教室のあたりは敷地の北東方向だと思いますので、どちらかと言うと外部から来た人の目につきやすい位置にあります。それよりは職員室の前を通り過ぎた先にある左側の方の教室に、女子しかいない別科生の教室を配置する方が自然なように思うのです。
また昭和29年の時点で本科の1年生が63人、2年生が58人もいてそれぞれ20坪の教室に詰め込まれていますが、3年生は37人、4年生は47人でそれぞれに17.5坪の教室があてられています。
別科は1年生が16人、2年生が33人だけですので、一年教室、二年教室よりは三年教室、四年教室の方が、たとえば冬期の暖房の無駄が少ないですし、少人数の生徒が授業に集中しやすい大きさと言う点でも向いているような気がします。
また事件当時の写真の左上に写っている建物についてですが、これは講堂兼体育館のようなものである可能性はないでしょうか。
図面を見ると使丁室(用務員室)と宿直衛生室を併せても11坪なので、20坪ある一年教室や二年教室の約半分しかないわけですから、屋根の高さも校舎より高そうで長さも2~3教室分ぐらいはありそうな写真の左上の建物は、使丁室にしては大きすぎるような気がします。
左上の建物と手前の校舎の間に別の建物の屋根がちょっと写っているように見えますが、ここが使丁室ではないでしょうか。
また被害者は放課後に卓球をして時間を潰したりしていたようですが、校内で卓球をしていたとすると体育館として使える場所があったはずですので、この建物がそうなのではないでしょうか。
開校当初の校門の位置はこの大きな建物の建っている場所と重なるか、またはこの建物と校舎に挟まれた狭い敷地の中になってしまったため、石柱を現在の位置に移したのではないでしょうか。(したがって事件当時、すでに石柱は現在の位置にあったのではないでしょうか)
なお、開校当時の写真に写っている手前の石柱に掛かっている看板の文字は「埼玉県立川越高等学校入間川分校」と書いてあるようですね。
米子様
>正門に正対した玄関を中心に、左右に等しく奥行きのあった建物ですから、現准看護学校の敷地だけでは足りないはずです。
>つまり正門から玄関方向を向いた時に、右手方向=隣接する現市立武道場地も、事件当時の入間川分校跡地なのではないかと思うのですが、如何でしょうか?
確かにそうですね。校舎中央部付近に正門があったとすれば、当然のことながら現・市立武道場地も同じく分校跡地、ということになるはずです。
なお、この付近に関しては昭和40年代初頭の地図(かなりいい加減なものですが)がまだ狭山市立中央図書館に保管されていますので、それを見れば一応の確認はできるかと思います。また私の方でも何か新たな事実が分かりましたら、改めてここでご報告させて頂きます。
風来坊様
>事件当時の写真の左上に写っている建物についてですが、これは講堂兼体育館のようなものである可能性はないでしょうか。
>屋根の高さも校舎より高そうで長さも2~3教室分ぐらいはありそうな写真の左上の建物は、使丁室にしては大きすぎるような気がします。
>開校当初の校門の位置はこの大きな建物の建っている場所と重なるか、またはこの建物と校舎に挟まれた狭い敷地の中になってしまったため、石柱を現在の位置に移したのではないでしょうか。(したがって事件当時、すでに石柱は現在の位置にあったのではないでしょうか)
確かに使丁室にしては大きすぎますね。手前校舎と比べてみても同じくらいの規模の建物に見えます。石柱が移された理由も、もしかしたら風来坊さんが指摘する通りなのかもしれません。
まだご覧になっているでしょうか?
風来坊さま
>事件当時の写真の左上に写っている建物についてですが、
>左上の建物と手前の校舎の間に別の建物の屋根がちょっと写っているように見えますが、
これは「写真のよれ」であって、別棟に見えるそれらは平屋建ての入間川分校の瓦屋根そのものです。
平屋とはいえ一般住宅のそれとは違って大きいのです。改修等で建物の資材に違いがありますが参考のどうぞ。
http://www.k-alumni.org/wp-content/uploads/2011/04/e48b4619df76e54f8ff52e0c52900d93.jpg
(川越高校HP 入間川分校別科画像より)