この日本国において、冤罪が作られるパターンは以下の通りです。
刑札 警察と検察が犯人像を捏造してマスコミにリーク
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マスゴミ マスコミが警察発表を無批判に垂れ流し
+自分たちでもあることないこと「取材」して追加
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「こいつが犯人に違いない」という「世論」の醸成
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「世論」に迎合した裁判所の判決
要するに、「冤罪は誰が作るのか」という問いに対する答えは、主演:刑札と検察、助演:マスコミと裁判所ということになります。このブログで再三とりあげている狭山事件もまさにこのパターンでした。
これは、石川さんが逮捕された直後の新聞記事です。
見出しで「常識外の異常性格」となっていますが、記事の地の文を読んでも何が「常識外の異常性格」なのかわかりません。
また近所の人々の話を総合すると一雄は心の動きを表情に表すことはなく、極度の欲求不満抑圧者だったらしい。だから、深い友だち近所づきあいもなく、かえってそのことが、無口であんなことをやるような男には思えないとの評判を生んでいるようだ。
これが例えば、感情の動きがすぐに顔に出るなら「感情を抑えることができない」「短気」となるのでしょうし、何だって書けることになります。
実は、これもマスコミのよく使う手です。目立つ見出しにセンセーショナルなことを書いて読者の目を惹くと共に印象を誘導し、地の文では冷静な文章を書いておくことによって、クレームをつけられた時に「いや、ちゃんと書いてるでしょ」と言い訳できるようにしておくという姑息な手段です。
「こんなのは昭和30年代だから許されたんだろう。今はそんなことはやらないのではないか」「足利事件だってもう20年近く前の話だ。今のマスコミはもっとちゃんとしているはず」そう思っている人も多いでしょう。しかし、21世紀になってもマスコミが相変わらず同じようなことをしていることを次回以降検証してみます。
最近の一連の記事、興味深く読ませていただきました。ブログのネタ集めに下山事件についての調べものをしていると、下山事件のみでなく、その他いろいろな事件(冤罪事件含む)についても読む機会が多くなるのですが、ご指摘のとおり、マスコミというのはほとんどいつもモラルに欠けた報道をしているというのが実感です。これはもう生まれついての体質なのだと理解しています。『「こいつが犯人に違いない」という「世論」の醸成』、これは先日の記事で触れられている「黒い潮」のようなものかと思いますが、こういった世論の裏には、特に冤罪事件のような場合、情報の受け手である一般人の「社会の悪を懲らしめたい」という正義感のようなものがあるように思います。しかし自分自身でよく考えも調べもせず、外からの情報を鵜呑みにして騒いでいるだけでは、それは「善意の馬鹿」でしかありません。特に、普通の人でもネットで意見を言えるようになった今、情報を受け取る際にも発信する際にも、より慎重にならないといけないのでしょうね。自戒を込めてそう思います。
まさに、おっしゃるとおりの「善意の馬鹿」=間違った正義感が冤罪を生む原動力だと思います。とはいえ、同時代でマスコミの報道攻勢にさらされているとなかなか気づかないのも確かだと思います。
下山や狭山とは離れていますが、しばらくこの問題について書いていきたいと思っていますので、ちょっと我慢してお付き合いください。
管理人様
私は、狭山市の駅前にある塾で平成2から平成5年まで塾の講師のアルバイトをしておりました。(当時大学生でした)
H中の生徒もおり、夏の夏期講習の季節になると必ずこの話が出てきて、「ガード下に肝試しに行ったら亡霊が・・」といった話を毎年聞かされましたが、あんまり興味が持てないでいました。
ただ、その話の中で、必ず「犯人は本当は先生なんだよ!」という伝説で彼ら(彼女ら)は話をん結ぶのでした。
あの頃働いていた塾はどうなったんだろうという思いで、2年くらい前に「狭山の塾」という項目でネット検索をしたところ「狭山事件を推理する」という、極めて真摯にこの事件と向き合っているサイトに出会いました。その中で、「A先生犯人説は軽く一蹴した」という記載があり、「そうなのか・・」と納得していましたが、「それなら、どうして25年」~その当時は25年、今は40年ですよね~もこんなでんせつ
途中で間違って送信してしましました。
続き・・どうしてまだその当時は伝説が生きていたのでしょうか?
そんな疑問を持っていたところ、貴殿のサイトに出会いました。
ここで質問です。
①A先生はアリバイがあるのでしょうか?
②どうして、さのヤ取り逃がしの後の写真に写っているのですか?
③10年近く経過した後で、なぜ目撃を吐露したのですか?
OGやITと交流があるような方とは思いませんが、「伝説」が客観的な判断を鈍らせます。
いずれにしても、冤罪であることは確かだと思います。
ただ、「人の口には蓋はできない」という諺からは上記がどうしても気になります。何卒ご教示いただきたく、お願い致します。
コメントありがとうございます。
まず、A先生は昭和38年5月2日の朝、PTA会長が堀兼中学校を訪問して事件について説明して「筆跡を見せてほしい」と頼んだ際に、「そういえば昨日ガードで(被害者)に会った」と言っていたとのことで、「10年近く経過した後」「目撃を吐露した」わけではありません。
また、さのヤの夜にPTA会長と一緒に次姉の付き添いとしてさのヤに行っていたこともほぼ確実で、その意味でアリバイもあります。
なお、以上の2つの内容は、伊吹本の安田幸司先生(被害者の中学2年生時の担任)へのインタビューで確認されています。
さのヤ取り逃がしの後の写真に写っている理由はわかりません。ただ、直近の担任であり、心配して来ていたところを撮影されたということで特に疑問に思われる点はないように思います。逆に、A先生が事件に関与しているのであれば、ここで家族を訪問したり、マスコミに顔を出すのははばかられるのではないでしょうか。
結論として、私(当ブログ管理人)は、A先生が事件に関与している可能性は限りなく低いと思います。
個人的に、「犯人は先生なんだよ!」という話がH中の生徒の間に語り継がれているということに興味があります。中学生なんてのは「センコー(死語)が悪いんだよ!」と言いたい生物であることは重々承知していますが、実話ナックルズ以前にもA先生説が地元に流れていたというのは初めて知りました。
管理人様
ご回答ありがとうございました。
小生も、伊吹氏の著書を手に入れて考えてみたいと思います。
いずれにいたしましても、刑札(当局?)が所持していると思われる、膨大な資料の公開が求められます。
コメントにて、「人の口には・・・」と申し上げましたが、これは人間が社会で生きている限り少なからず何かの根拠があるものと思っております。(肝試しの度に聞かされたので・・・)
ただ、この件に関しましては管理人様のご教示のとおりと思います。
本件は、「おもしろい」「興味深い」ということを通り越して、司法、行政の国際的なスタンダードに日本があるということを示すためにも、解決(解消)すべき問題であると思います。
今後も、精力的な活動を期待します。