この戸籍謄本の画像はおそらく本邦初公開だと思います。もしどこかで既出であればご指摘下さい。
父は大正7年(西暦1918年)12月1日に、母は大正8年(1919年)4月29日に亡くなったとされています。以前、両親の墓に記載された死亡年月日と筑波本の死亡年月日が異なることから、「筑波昭さんは『津山事件報告書』を元に睦雄の両親の没年や死亡年月日を記載したのではないか」という推測を書きましたが、それを裏付けるものです。
なぜ戸籍と墓で死亡年月日が異なるかという点については、当時は戸籍の届出が適当だった、ということに尽きるのではないかと思います。例えば、津山事件の被害者には「内妻」の扱いの女性が数名いました。いわゆる「足入れ婚」の一種で、結婚しても子供を生むまでは妻を入籍しなかった風習の反映と思われます。それと同様に、戸籍と実情は異なるのが半ば当たり前だったということで、墓に記載されている方が実際の死亡年月日だと思います。
両親の生年月日については、この戸籍には記載がありません。報告書の他の部分にも記載がないようです。そもそも筑波本記載の生年月日が墓石記載の享年とつじつまがあっていないことはこちらのエントリでも疑問を示した通りで、どこから持ってきたものかよくわかりません。
戸籍謄本からわかることが他にもいくつかあります。
- 大正7年に父親が亡くなったために睦雄が家督を相続し、まず母が、そして母の死後は祖母が後見人となっています
- 上記の後見は昭和12年3月に睦雄が成人に達したことで終了しています。睦雄が岡山農工銀行へ600円の借金を申し込んだ(最終的には400円に減額されましたが)のは昭和12年4月なので、後見が終了して自分の判断で財産を処分できるようになったらすぐ行動に移ったことがわかります。
- 都井家は昭和10年4月に倉見から貝尾へ本籍地を移動しています。睦雄が満18歳の時ということになりますが、理由はよくわかりません
- 姉は事件当時まだ嫁ぎ先に未入籍で、都井家に戸籍が残っていたようです。睦雄と祖母の死亡届も、姉が「同居人」として届け出たことになっています。事件当時臨月だったとのことで、事件後の7月になって嫁ぎ先に入籍されています
- 戸籍上は睦雄の死亡時刻は午前7時になっています。おそらくは遺体が発見された時間を記載したものでしょう
- その割には祖母の死亡時刻は午前2時になっています
睦雄の死亡届は5月25日に提出されており、姉が嫁ぎ先へ入籍したのが7月25日ですから、その間の2ヶ月あまり都井家は姉が戸主(女戸主)だったことになると思います。しかし、そのあたりは謄本には何も書かれていません。
姉は事件当時臨月だったにもかかわらず、婚家で一時「分娩させない」という話まで出たとのことです。しかし、2ヶ月後には無事入籍されていることからも、最終的には嫁ぎ先に円満に受け入れられたことがわかります。