津山事件: サムハラ神社 奥の宮

いつも大阪に出張したときに泊まるホテルのそばにサムハラ神社があることに、先日気が付きました。「サムハラ神社」は、弾避けに霊験あらたかということで戦前・戦中にかなり広まった宗教です。

「サムハラ」は本当はUnicodeに入っていない漢字(「神字」だそうです)を書きます。こちらのブログにある画像をご参照ください。なにしろPCでは出せない字なので以下「サムハラ」と記述します。

「サムハラ神社」の奥の宮が貝尾から直線距離で2kmほどとかなり近くにあり、それが弾圧・破壊された2年後に津山事件が起きたことから、事件直後に「サムハラ様のたたりであのような惨劇が…」という噂がささやかれたとのことです。「津山事件報告書」には以下の通り記載があります。

類似宗教を繞る関係
同村大字中原通称大詰山に本籍大阪市西区靱北通三丁目○○、住所前同、出生地、苫田郡西加茂村大字西加茂、万年筆製造業、田中富三郎が間口二間、奥行き三間半の木造社殿を造り之を聖殿と称して祭神としてサムハラ(引用注、原文は漢字)大神(古事記を調査するも発見せず)を祭祀し諸衆をして参拝せしめ古くより災難厄除、弾丸除等に霊感ありと宣伝し当時約八十名の信徒を獲得し他府県よりの参拝者も漸増の状況に在りしを昭和十一年七月頃当時署特高係の干渉に依り類似宗教として右社殿を破棄、鳥居のみを現存せしめ居れる事実あり、今次の惨劇と結び着けサムハラ(引用注、原文は漢字)大神の祟りなりと一部に風評する者あるも地元部落に於ては之に関心を有する者なし

筑波本にも言及がありますし、『夜啼きの森』ではかなり頻繁に登場します。

実際のところ、都井睦雄自身は「天台宗ですが信仰心はありませんでした」と親類が証言しており、特にサムハラ様を信仰していたことはないようです。したがって、近隣にあった新興宗教が弾圧を受けた後にたまたま津山事件が起きたので、都市伝説的にその2つを結びつけた話が生まれたということだと思われます。
「た~た~り~じゃ~ さ~む~は~ら~の~た~た~り~じゃ~あ~」というおばあちゃん(任田順好)が登場すれば面白いのですが、そういうこともなさそうです。

上記の昭和11年に特高に撤去されたという点について、Wikipediaでは自主的に撤去したことになっています。しかし、昭和10年に第二次大本事件が起き、昭和12年にはひとのみち教団(現在のPL教団)が弾圧・解散させられるなど、この時期は宗教弾圧が吹き荒れていました。サムハラ神社もその一環で破壊されたのではないかと思います。


まず、大阪にある方のサムハラ神社にお伺いしました。
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大阪のサムハラ神社。宮司さんはこちらにいらっしゃいます

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「サムハラ」の文字

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(岡山県)美作加茂に奥の院があるという記載

冒頭でリンクしたブログのコメントで大阪のサムハラ神社で奥の宮への地図がもらえるという話を読んでいたので、宮司さんにお願いしたところ懇切丁寧にご説明をいただきました。


地図をもとに、加茂の奥の宮を訪問しました。金刀比羅神社とほとんど同じ位置にあるとのことだったので、まずは金刀比羅神社を目指します。
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入り口の目印になる金刀比羅神社の看板

行ってみると確かに、金刀比羅神社とサムハラ神社の奥の宮は30mくらいしか離れていませんでした。個人的にこの2つの神社には何かの関係があるのではないかという気もするのですが、特に公表されている関係はないようです。サムハラ神社の宮司さんは、「金刀比羅という地元の神社…」という言い方をされていました。

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奥の宮の石碑

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サムハラ神社奥の宮(美作加茂)

奥の宮はご覧の通りの小さなほこらで、無人でした。
金刀比羅神社の方がかなり大きく、社務所などもありましたが普段はそちらも無人のようです。

Google Mapでは掲載圏外ですが、この地図を拡大したときに見える階段の上あたりが金刀比羅神社で、サムハラ神社奥の宮はそのすぐ奥です。階段を上らなくても、裏側から車でかなり上まで上がれる道があります。

大きな地図で見る

 

One thought on “津山事件: サムハラ神社 奥の宮”

  1. 戦前〜戦時中のお守り袋、手拭い、千人針、胸ポケットに入れる防弾板(薄い鏡) 等、よくこの文字が描かれているものを見かけます。 今までは宗教用語のまじないの一種だろうか ぐらいに思っていました。 勉強になりました。ありがとうございました

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