下山事件: 週刊朝日2009年7月17日号の記事 その2

今回の週刊朝日の記事で、最悪なのは以下の部分です。

さらに、矢田氏は、自殺説の根拠のひとつとされる、下山総裁らしき人物の目撃証言を洗い直してもいる。警視庁の捜査記録に掲載された23人をあらためて訪ねたところ、証言者たちは「調書の内容はデタラメだ」と口々に話した。

この後に「あの男は下山さんとは関係ない別人だといまでも確信しています」という証言が引用されています。

矢田喜美雄氏の『謀殺・下山事件』において、目撃証言に関する洗い直しの内容は下記の通りです。

  • 証言をとりあげているのは10名
  • 実際に取材できたと書いているのは6名。残りの4名は死去などで取材できなかったとしている
  • 取材できた人のうち、「調書に間違いがある」と言ったのは5名
  • そのうち、「私が見たのは下山総裁ではない」と断言しているのは2名

これらの事実を淡々と紹介し、「取材できた6名中で5名も『調書が間違っている』と言った人がいるから、これらの目撃証言は信用できない」というならよくわかります。しかし、「23人をあらためて訪ねた」という時点で明確にウソを書いています(少なくとも4人は訪問できていないことは明らかです)し、「デタラメだ」と「口々に話した」と書いた直後に「別人だと確信しています」という証言を挿入することで、あたかも23人が口々に「私が見たのは下山総裁ではない」と話したかのようにミスリードしています。相変わらず、心憎いばかりのテクニックです。

個人的には、そもそも矢田本に出てくる「事実」はかなり割り引いて読む必要があると考えています。矢田本の眉唾性が一番強く出ているのは、諸永氏が今回の週刊朝日の記事でさも確定した事実であるかのように書いている「下山総裁の死体を運んだという男」の話でしょう。以下、『謀殺・下山事件』(矢田喜美雄)から、この「死体を運んだ男」について説明している部分の引用です。

著者注=Sについては、私がどのようにして彼を知り、話を聞いたのか、そのいきさつを語ることができないのが残念である。それは現在、Sにも市民権があり、法もまた現在ではSを守る立場にあるからだ。

これだったら何でも言えますね(笑)。「私はUFOに乗った人を知っている。当人に迷惑がかかるといけないので実名は出せないが、その証言から考えてUFOは確実に存在する」という話と全く同じことです。そもそも、下山事件が殺人事件だったとしても昭和39年にすでに時効が成立しているわけで、この証言を得た昭和45年時点では、S氏の実在性を公表したとしても法的には全く何の問題もありません。話の内容からいって、S氏自身が下山総裁を殺したわけでも何でもなく、単にだまされて死体運びを手伝わされた(ことになっている)だけなのですからなおさらです。

そこから考えると、上記の矢田氏による目撃者の「洗い直し」の結果もかなり割り引いて読む必要がありそうです。たとえば、「下山総裁」から2メートル以内という至近距離で目撃したWSさんは、調書の誤りとして、ネクタイの表現が違う点を指摘しています。WSさんは「結び目の下に光る筋が入っていたもので、ネクタイは緑色だった」と証言したのに、調書では「手織りの金糸が入ったネクタイ」となっています。しかし、元のWSさんの表現は下山総裁が当日していたネクタイ(下山夫人によると「緑色の生地のところどころに斜めに光る筋がはいっていたもの」)の特徴をよくつかんだものであり、逆にWSさんの証言の信憑性を裏付けるものと言えるでしょう。そのWSさんが「(ネクタイ以外は)報告書には私のいったことがよく書かれていると思います」と言っており、調書には「朝日新聞を見ると下山さんの写真が出ているのをみて、昨日見た人に余り良く似ているので、それで、その晩警察にお届けしました」という証言が出ています。
ところが、それに対する矢田氏のコメントは

Wさんの証言は二メートル以内に接近してみたものだけに信用されてよい。下山夫人がいうとおりのネクタイをつけた人物の五反野現場登場とあっては、ニセものが総裁のものをはぎとった疑いはいまや決定的になったといっていいだろう。

という、ある意味(笑)なものです。上のWSさんの証言のどこから「ニセもの」が「いまや決定的になった」という結論が出てくるのでしょうか?

ちなみに、これまでこのブログでは明らかにしませんでしたが、諸永裕司氏は私(本ブログ管理人)の高校の後輩にあたります。某国立大学附属高校で、諸永氏が31期、私は30期なので1個違いになります。なお、これまで直接お会いしたことはありません。
諸永氏が同じ号の「週刊朝日」に書いた新銀行東京の「口封じ」訴訟に関する記事は、いわゆるSLAPP訴訟(口封じのために大組織が個人を相手に訴訟を提起すること)の問題点に切り込んだ非常に良い記事だと思います。それがなぜ、下山事件関係になると突っ込みどころ満載になってしまうのか。「ジャーナリズム」の内部に席を置いたことがない私には理解できません。ただ、『葬られた夏』を含めた下山事件関係の記事は、諸永氏が本来書きたかったように書いたものではないのではないかという気がしています。組織や上司の顔を立てることも必要でしょうが、もっとご自身のスタンスに忠実に記事を書いた方が良い記事が書けるのではないでしょうか、と先輩として老婆心ながら忠告させていただきます。

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