前回エントリで、「結核で1年の間に家族3人が亡くなるものか」という疑問を提示しました。また、コメントでも、「実は死因はインフルエンザだったのではないか」というご指摘をいただきました。
私も、睦雄の両親と祖父の死因が結核ではなくインフルエンザだった可能性があると思っています。ただし、3人ともインフルエンザとすると、逆に今度は3人の死亡日が離れすぎていると思います。というわけで、最初の祖父はインフルエンザで、それが両親にうつって(もしかしたら、父親が軍隊で結核をもらってきて保菌状態だったのかもしれません)抵抗力が落ちて結核を発症、インフルエンザの影響もあって急速に悪化して亡くなったのではないかというのが現時点での推測です。その意味では、筑波本も合同新聞も間違ってはいない、と。
いずれにしても、1年以内に近親者3人を亡くしたおばやんのショックは大きかったでしょう。後年、睦雄が中学に入りたいと言ったときに「わしを置いていくのか」と反対したのも、夫と息子夫婦が相次いで亡くなった後に、ガランとした家にとり残された経験というか、トラウマが原因だったのではないかと思います。
睦雄の両親だけでなく祖父もほぼ同時期に亡くなっていたことを知ったときに個人的に衝撃的だったのは、以上のようなことを考えたことが理由です。中学に進学できなかったことは睦雄が津山事件を起こした理由の一つでもありますし、そもそも祖父と両親が健在なら、睦雄も山奥の中農の跡取りとして幸せな暮らしができただろうと思います。家族の不幸な歴史が、事件に向かって一直線に収束していくような、そんな錯覚も覚えます。
確かに他のコメンテーターが言われているように、津山中学なら通学は可能ではなかつたかのではないでしょうか、睦雄が何故岡山県立一中に拘つたのかも判りません。当時では中学に進めない者は高等小学校に進んだようですから、美作の加茂辺りでは睦雄は高等小学校を出ているのでおばやんが教育に不熱心だというのは言い過ぎではないだろうか、貝尾のような中国山脈の山奥で高等小学校まで出している家庭はそうは無かつたのではないでしょうか、大方尋常小学校で終つているでしょう。ただ睦雄には東京や岡山市に出てゆきたい希望は強く持つていたのでは、姉との話の中では街に憧れる少年のような事もあつたようだし、そこが管理人さんの指摘されているおばやんのトラウマとのヅレが事件へと引きづつていつたのかもしれません。この都井の墓石のエントリーで管理人さんの指摘は今までの言われている事に何か大きな投石をなげかけた物だと感じています。
yama様も仰有っていますが、仮に旧制中学(この場合、最寄の津山中学だとします)に進学及び卒業が出来たとしても、そこでそのまま農家の跡取りといった、それしか選択肢のないレールに睦雄が大人しく乗ったでしょうか…?
世間を見、ハイレベルな世界を知ってしまえば、収まるべき場所よりもワンステージ上を目指したくなるのが人情だと思います。
残された記録による睦雄の言動から察するに、もしかしたら旧制中学を卒業した時点で、睦雄本人が「このまま農業で終わるような生活はしたくない」と言い出さないとも限りません。
そこで遅かれ早かれおばやんとの衝突は免れなかったように感じます。更に、筑波本で仮名内山となっていた悪友との出会いや誘惑を、頑として突っぱねるだけの精神的強さを、ある意味世間知らずの睦雄が持ち合わせていたとも思えません。
歴史に【たられば】はご法度ですが、どのような形にせよ、いずれどこかで歪んだ睦雄の願望の暴発により、津山事件は必然的に起きた悲劇のように思えてなりません。