筑波本では「父方の祖父はすでに六十二歳で亡くなっていた」としか書かれていませんが、墓碑銘によると実際には祖父が亡くなったのは大正7年(1918年)7月でした。つまり、都井家では
- 祖父: 大正7年7月18日
- 父: 大正7年12月21日
- 母: 大正8年4月27日
と、1年足らずの間に相次いで3人が亡くなったことになります。
幼かった睦雄はもちろん、小学校に入る前の年齢だった姉も状況がよく理解できていなかったでしょう。しかし、祖母からすれば、夫と息子夫婦が相次いで亡くなり、幼い孫2人と取り残された形になったわけで、翌年(大正9年)に倉見を引き払って加茂町塔中へ引っ越したのは、6人家族の半分が急死してガランとした、縁起の悪い家に耐えられなかったのかもしれません。
ちなみに、塔中というのは加茂町役場(現在は津山市役所加茂支所)がある、まさに加茂の中心部です。倉見のような山奥からいきなり塔中に出てきたのは、おばやんが孫2人、特に戸主となった睦雄の教育を心配したからではないかと個人的には思います。
ところで、筑波本では両親は結核で亡くなったとされています。祖父の死因は書いてありませんが、これだけ相次いで亡くなったということは祖父も同じ結核だったのでしょうか。疑問なのは、結核という病気が、1年の間に家族3人の命を奪うほど急速に病状が進む病気なのかという点です。昔の文学作品などで、薄倖の美少女が結核に罹患してから、サナトリウムに入って淡い恋をしながらはかなく亡くなるまでには、数年の時間があるイメージがあります。結核研究所の「結核Q&A」でも、
結核は比較的ゆっくりと進行しますが、抵抗力のない乳幼児が多量の結核菌を吸い込むと、あっという間に重症化することがあるので特に注意しなくてはなりません。
となっています。
管理人さん。
これは矢張り合同新聞に載つているようにインフルエンザ=流感ではないでしょうか。都井や姉のような幼い子ならまだしも都井の両親や祖父は強健な身体の持ち主だつたと思いますから、何か疲労なんかで抵抗力が弱い時にこのインフルエンザを患つたのではないでしょうか、私も管理人さんの御指摘に賛成します。墓の断定は此方では判りかねます、墓碑名が消去されているので誰のかも判りませんし、被害者の名前もこのブログでは消去されているので判りませんが、管理人さんの視点はミステリーを呼び起こすものでグッドです。更なる物を期待しています。
コメントありがとうございます。
私もインフルエンザであった可能性があると思っています。詳細は次回エントリで書きたいと思いますので、少々お待ちください。
恐らくおばやんは、戸主の睦雄が普通に尋常→高等小学校と進学し、高等小卒業後はそのまま自分の許で農業に勤しんでくれるような生活を独自に描いていたんでしょう。尋常小学校に居る分で成績の良い子であれば、ただ鼻高々でいられるだけでしょうから。
それが予想外に睦雄の成績が良く、自分の許を離れて岡山市内(旧制中学)に行ってしまう不安が具体的になってしまい、慌てて睦雄に泣き付いたように感じます。
ただ不思議だと思うのが、当時津山市内にも旧制中学は存在しますので、津山中学なら十分貝尾の自宅からの通学も可能だった筈ですが…
何故いきなり【旧制中学進学=岡山市】になってしまったのかが解りません。
睦雄がおばやんに打ち明けた【岡山一中(出典:文庫版p162)】というのが、もしかしたら当時、岡山県下トップの旧制中学であり、睦雄の野心も半分含まれていたなら少々話も違ってくるでしょうが…
コメントありがとうございます。
中学進学の件については、mixiでも同様の指摘をしていらっしゃる方がいて、なるほどと思いました。
この点も長くなりそうなので、別途エントリを立てて論じてみたいと思います。少々お待ちください。