狭山事件入門: 被害者の家族 その3

今回は、予定を変更して次姉の「夫」に関する情報をまとめてみます。以下、「夫」本人の石川さんの裁判における証言からの抜粋です。

  • 次姉と見合いしたのは昭和38年の秋頃(月日は明確になっていないが狭山事件(昭和38年5月1日)が起こった後:『史上最大のミステリーを推理せよ!狭山事件』では「見合いは(被害者)さんが殺される以前にしたものだった」となっていますが、「夫」本人の証言では事件の後の秋頃ということになっています)
  • 次姉と入籍したのは昭和38年の年末。理由は、勤務先(米軍基地)のボーナスや税金面で扶養家族が増えると有利になるから
  • 入籍した後も同居はしていなかった。理由は、被害者宅(次姉宅)に女手がなかったから
  • 狭山事件被害者のことは知らない
  • 狭山事件当時は次姉と婚約的な関係にはなかった
  • 次姉と結婚しようという話になったのは、自分(「夫」)の妹が被害者宅のそばにあるN家(被害者宅と同じ苗字だが親類かどうかはわからない)に嫁に行っていて、その関係で見合いして話が進んだ
  • 次姉のことは見合いする以前から知っていた。同じ村(隣の部落、7~800mほどの距離)で、年齢も二つしか違わないし、学校も同じで長兄とも同級だった
  • 次姉とは月に1回か2回くらい会っていた
  • 次姉とは肉体関係はあった
  • 被害者一家とは親類としての付き合いはまだなかった
  • 昭和39年7月14日に次姉は「自殺」したが、その1週間ほど前に次姉と会った時には特に悩んでいるように感じなかった
  • 昭和39年7月20日、「おてんのうさま」で次姉が家に来ることになっていた
  • 葬式はあったのかなかったのかも知らない。自分は行っていない
  • 被害者宅から線香をあげに来てくれと言う話もなかった
  • 次姉の死亡理由は知らない。呼ばれて行った時にはもう亡くなっていた。「聞いたことは聞いたんだけれども、よくわかりません」「どういうことから亡くなったという原因などは全然聞きませんでしたね」
  • 遺書には、「ぼくのことが書いてあって幸せになって下さいということが書いてありました」。しかし、その遺書は今は持っていない
  • 証言するにあたって、裁判所の呼出し状が来たが出頭したくないので何回か断った。そうしたら裁判所から電話が来て出頭してくれということで出頭した
  • 裁判所に来る直前に刑札官が来た。20分ほど家にいたが、住所と名前を確認しただけでさつき(植物)の育て方について話をしただけだった
  • 次姉の死後、昭和40年5月(裁判の証言に基づく。下田本では昭和40年6月になっていますが、どちらが正しいのか不明)に別の女性と再婚した

というわけで、「知らない」「わからない」の連発な上に、戸籍上だけでも「妻」だった女性が死んだことについてあまりにも無責任な感じが否めません。このやりとりの途中で、傍聴席から「(次姉の)お墓は「Y」(「夫」の苗字)になっていますよ!」というヤジが飛んだとのことで、その気持ちもよくわかります。

2ちゃんなどでは前にも書いたようにこの次姉の「夫」を疑う向きもありますが、これまで出版された本でこの「夫」に疑いを向けた書籍は(私が知る限り)ないようです。

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