狭山事件: 『狭山事件 現地インタビュー集 Vol.3』について その1

例によって間が空いてしまって申し訳ないです。

伊吹さんの新刊について、追加のご紹介です。

インタビュー集Vol.3の一人目は、の同期で、I養豚場の向かいに住んでいた方です。この方は、生徒会長であるMくん(PTA会長の息子)の下で被害者と一緒に生徒会副会長を務めており、また、部活も被害者(ソフトボール部)と隣で練習する野球部だったこともあり、かなり親しく話をする仲だったとのことです。インタビューはいろいろと考えさせられる内容です。

  1. 養豚場が始まるまでの経緯
  2. 石川さん、T氏、Iさんなど、養豚場関係の方々に関する思い出
  3. 5月2日朝9時の時点で、近隣周辺には事件の内容が完全に公開されていたこと
  4. 3日朝には、佐野屋で犯人が逃げたことを周辺住民は知っていたこと
  5. 「腹違い」「種違い」に関するほぼ決定的とも言える証言
  6. その他

特に5.の内容に関しては、それまでかなり立ち入った内容まですらすら答えていたこの方が急に口を濁したあたりのリアリティに、読んでいて鳥肌が立ちました。

個人的に、5月2日朝(事件発生翌朝、佐野屋取り逃がしの前)には既にかなり広い範囲の近隣住民が事件について相当詳しく知っていたこと、その後も逐一周辺住民に情報が漏れているあたりから、他の話と併せて、以下のような仮説を妄想したくなります。

  • 実際のからの身代金要求は5月1日深夜(2日早朝)。警察は当日真犯人を取り逃がした。
  • 2日深夜(3日朝)、警察は「念のため」と称して張り込みを行った。
  • 当日、噂を聞いた野次馬がに来た。彼は茶畑の中からやりとりを見守るだけのつもりだったが、被害者姉に話しかけられ、「そこに二人いるじゃねえか」などとからかってしまった。
  • 野次馬は、その後の姉との会話で自分が犯人として疑われていることを知り、「取れないから帰るぞ」と叫び、走って帰った。たまたま警察の配置が無能であったため、取り逃がした。

ただ、これが事実であると、狭山事件においての山場の一つである佐野屋の犯人取り逃がしが単なる野次馬との会話になってしまうので、真相究明にはまた一歩遠くなってしまうわけですが…。


本ブログでとりあげている事件に関する同人誌等の通信販売を行っています。詳細はこちらをご参照ください。


  

5 thoughts on “狭山事件: 『狭山事件 現地インタビュー集 Vol.3』について その1”

  1. 追伸です。国立歴史民俗博物館展示の差別戒名はかなり極端な動物に因んだお名前でした。
    差別戒名はどうやら、お寺が動物を取り扱うことのケガレを誇張することで(死後も惨い目に会うという脅しですね)、信者や喜捨を増やそうとした形跡があります。
    牛の皮を履いでもらって、お寺の太鼓ができて、それを叩いているくせにこのクソ坊主、と思わざるお得ません。

    現役民俗学者の赤坂憲雄さんによれば関東から、東北、北に向かうほど動物の解体などが、差別の対象になった気配が殆どないと言います。また神奈川県鎌倉市の極楽寺でつい最近まで「非人面祭り」が明るく楽しく行われていました。源頼朝が「職能集団」、「下級警察官」、としての交流があったそうです。そして頼朝直轄の部落民は死馬の解体と弔い、警備員として、旧鎌倉街道から入間川(水運のかなめ)として活躍/暗躍していました。極楽寺の職能集団としての部落民の中には頼朝の彼女が居たらしいですね。因みに旧鎌倉街道沿いにはを馬洗川(確か横浜市港南区か戸塚区の間くらいです)という川が流れています。
    ある意味由緒正しい職能集団としての部落民と、強面のジャーナリスト宮崎学ぶ氏が言う、たかり集団としてのエセ部落とは線引きして考える必要があるかと思われます。その様なたかり集団の中にはなんと偽アイヌ人まで登場するようです。これらは、単なるゆすりたかりビジネスです。
    インタビュー集VOL3は養豚場とその気んじょの人の交流の有り様などから民俗史としても、意義の大きい一冊だと感じました。
    長文陳謝します。

  2. パソコン操作ミスで追伸と投稿本文の順が逆になってしまいました。すみません。

    伊吹様、管理人様、インタビュー集VOL3読了しました僕も5月2日には、気んじょの人(それも結構広い範囲で)は善枝さん行方不明の事実をとっくに知っていたことに驚きました。
    そうなると、佐野屋オイオイ事件は管理人様ご指摘のような可能性が出てきますね。

    それと、VOL1〜3を通じて、利権や選挙がらみのN家恫喝や農村に潜む何らかの因習や自作/小作歴史的な逆恨みに基づくの腹いせが目的があったのだと思いました。
    だとしたら、何の自信やメリットがあってわざわざオイオイと声をかけたのか今までは不思議に思っていました。

    それにしても2日には既に多くの人が事件を知ってたことをなぜ裁判で取り扱わなかったのでしょうか。「ジンケンフェチ」の弁護士はあたかも善枝さんに落ち度があったかのような小細工なんかしていないで伊吹さんのように現地を歩く調査をすべきでしたね。
    また、この事件ばかりは江戸時代の遠山の金さんのように裁判官に捜査権も付与されいたら良かったのに、とも妄想しました。

    以前、善枝地蔵さんに献花した際に同じお寺の古いお墓をくまなく拝見しました。
    奥T姓の墓石があまりにも多く、さらに見るからに裕福そうな立派なお墓と、失礼ながらいくら昔にしても質素過ぎるお墓(こちらの方が多かったですね)との差が印象的でした。
    VOL3を読むまでは単純に奥T小学校がある一帯の自作農が裕福な奥Tさんであり、小さなお墓は苗字を自由につけられた時代のどさくさで取り敢えず土地に因んだ姓を名乗ったのかと考えていました。
    Tの字の一画目に点があるか無いかで区別があることが分かったのもVOL3拝読の収穫でした。

    VOL3拝読して、国立歴史民俗博物館に長野県で盛んだった差別戒名のお墓が展示してあったことを思い出しました。

    同人誌形式でしたら、ここまで生々しくレポートして頂けるのでしたら、これからも購読できることを心待ちにしております。

    狭山事件を通して、近代的自我と農村に潜む古い自我や因習の衝突、地名や方言、自作農/小作のアイデンティティーの変遷、土葬など民俗学的要素と、善枝さんの人生に関心があります。

    それとN家の皆さん、文才がありますね。不謹慎かも知れませんが、次姉さんの遺書も、まるで長兄さんが隠していた次姉さんの遺書の文章のように感じる次兄さんの遺書も美しい文だと思います。

    事件後、養子に出された三男さんも現在出世してやはりエリートなのですね。5月1日、うどんの夕食時に本当に三男さんは脅迫状の入った封筒を長兄さんの指示で、その手で取ったのか確認をした捜査関係者やジャーナリストをいないのでしょうか。そして三男さんも善枝さん同様、腹違い/種違いの可能性はあるのでしょうか。

    腹違い/種違いの関係で誰かに恨み(逆恨み)を買うことはなかったのでしょうか。仮に利権以外にもお母さん嫁入りに関して何らか怨恨があるとすると、伊吹さんが、部落差別とは違うもう一つの差別と評されたこととの関係の有無が気になります。

    吉展ちゃん事件に憤っていたという善枝さんが、実力通りの進学をしていたら善枝さんは取材したり、出版する側になっていたかも知れませんね。

    伊吹様の著作と管理人様のコメントは「狭山事件史学」、という自分にとっては掛け替えのない価値を醸成して下さっています。
    それにしても伊吹さん以外のライターさんの出版物には事実誤認が多いですね。ある方の狭山事件本は結論ありきの机上の推理ごっこのような気がします。

  3. >僕も5月2日には、気んじょの人(それも結構広い範囲で)は善枝さん行方不明の事実をとっくに知っていたことに驚きました。

    私も今回その事実を知った時は、かなりビックリしました。しかも、養豚場前(権現橋)では、警察が2日昼から検問も行っています。脅迫状に「警察や近所の人に話したら子供は死ぬ」と書かれてあるのに、N家関係者が何の躊躇もなく、また相手に口止めもせず、あちこちでそれを話し回っているのが何とも不思議です。

    >そうなると、佐野屋オイオイ事件は管理人様ご指摘のような可能性が出てきますね。

    申し訳ないのですが、私自身は管理人さんの仮説には賛同できません。地域住民の多くは、2日朝に「善枝さんが行方不明になっている」との話を聞いていても、「脅迫状」「佐野屋」の件は皆翌朝まで知らずにいたからです。それに警察にしても、もし前の晩に張り込みに失敗しているのならば、翌日再び犯人が佐野屋に現れるなどとは考えないと思います。これはむしろ、「実行犯は付近に土地勘があっても、普段そこには居住していない(=入間川等、他地区に住んでいる)」ことを暗示しているもの、といえるのではないでしょうか?

    >それと、VOL1〜3を通じて、利権や選挙がらみのN家恫喝や農村に潜む何らかの因習や自作/小作歴史的な逆恨みに基づく腹いせが目的があったのだと思いました。

    私も現在この犯行は、はっきり〝怨恨〟に基づくものと考えています。犯人像については、拙著の中で「N家に恨みを持つ者+養豚場従業員+知らずに協力してしまった元N家使用人+呼び出し役の被害者同期生」を提示しましたが、最近になっても調べれば調べるほどそのセンが濃くなってきた感がありますね。

    あと、事件後には地元で、「腹違い種違い」の話を知らなかった人までが知るようになっていますが、これは近隣の人々の多くが「血縁関係をめぐるトラブル=事件の原因」とみていたことを示すものと思います。

    >狭山事件を通して、近代的自我と農村に潜む古い自我や因習の衝突、地名や方言、自作農/小作のアイデンティティーの変遷、土葬など民俗学的要素と、善枝さんの人生に関心があります。

    私も正直、「冤罪、石川さん」方面にはあまり関心はなくて、それよりも時代背景やそこにある民俗学的要素、当時の人々の生活などの方に面白さ(といっては語弊があるかもしれませんが)を感じています(このあたり、おそらく一反木綿さんと視点は同じなのかと思います)。拙著「インタビュー集」にも書きましたが、私は主に〝近代史・民俗学研究〟という立場から事件を調べ続けています。背後に透けて見えてくる、複雑な人間関係・差別・当時の世相・若い女性たちの意識や生活・風習、因習・・・等々、どこを切り取っても、この事件は本当に興味が尽きない感じですね。

    >それとN家の皆さん、文才がありますね。不謹慎かも知れませんが、次姉さんの遺書も、まるで長兄さんが隠していた次姉さんの遺書の文章のように感じる次兄さんの遺書も美しい文だと思います。

    何とも哀しく美しい文章ではありますね。古臭く面倒な人間関係やら因習やらでがんじがらめになっている中、必死に生きるN家家族たちの姿もまた美しいと思います。

    >それにしても伊吹さん以外のライターさんの出版物には事実誤認が多いですね。ある方の狭山事件本は結論ありきの机上の推理ごっこのような気がします。

    あまりここで他者の批判はしたくないのですが、K氏の書いているサイトなどは本当に間違いだらけですよね。例えば最近でも、NTさん証言(善枝さん下校時の目撃証言)について、「分校2階から外にいる善枝さんの後ろ姿を見ていたため、他者と間違えた可能性がある」としていますが、分校に2階はありませんし、NTさんが見たのは「外にいる善枝さんの後ろ姿」ではありません。彼女は法廷でも「それまで一緒に教室にいた。時計を見たら3時23分で、その頃『さようなら』と言って被害者が出て行った」とはっきり証言しています。〝推理ごっこ〟をするのは個人の自由ですが、せめてもうちょっとくらいは資料を読み込んで、正確な記事を書いて貰いたいものだと思います。

    >次姉さんの入籍した山⚪️さんは長兄さんと地元の氏神様、堀兼神社に連名で柱を奉納されておられ、裁判での他人アピールには違和感を覚えます。

    私は、その連名に特に深い意味はないと思っています。堀兼神社は地元の氏神様ですし、山○家もN家も地域を代表する大農家なのですから、好むと好まざるとに関わらず、そこでの建設事業などでは協力し合うほかないのではないでしょうか? ただ、そのことのみで、「本来両者は友好関係にあった」と判断することは、とても出来ないように思います。

    ところで、最近しみじみ思うのは、荻原佑介(亀井本のデータマン)の調査力の凄さです。細部においてはかなり間違っている部分が多いですし、それがまた亀井に伝わる過程で思いっ切りねじ曲がったりはしているのですが、少なくとも私が調査した限りでは「根も葉もない話」は一つもありませんでした。おそらくは、相当な広範囲で、膨大な人数を対象に聞き込みを行っていたのではないでしょうか? もし、その頃の取材メモなどが残っていれば、これは相当貴重な資料ということになるかと思うのですが・・・。

  4. 伊吹様へ。
    >>N家関係者が何の躊躇もなく、また相手に口止めもせず、あちこちでそれを話し回っている。

    そうですね。こう言う時、当時の狭山/所沢警察署や、憲兵隊経験のあるM君父(PTA)などから、N家の方に口止めするよう助言はしないものなのでしょうか。
    吉展ちゃん事件未解決期間でもあり、慎重になるのが自然かと感じました。
    ぽっとして、N家の方々、少なくとも長兄さん、江さくさんは犯人筋に心当たりがあって、まさか善枝さんを殺害まではしない、又はどうせもう亡くなっている、という確信があったのでしょうか。

    >>「脅迫状」「佐野屋」の件は皆翌朝まで知らずにいたからです。それに警察にしても、もし前の晩に張り込みに失敗しているのならば、翌日再び犯人が佐野屋に現れるなどとは考えないと思います。
    >>実行犯は付近に土地勘があっても、普段そこには居住していない

    なるほど。実は昨年夏にご遺体埋設現場付近を歩いた(自転車ですが)際に感じたのですが、元ITRさん宅付近〜荒神様〜狭山市駅の道路はぐちゃぐちゃに短い距離でツギハギのような通行止め区間がありますね。レッドアローが停車する現在に至るも、狭山駅すぐ近くが自転車ですら通行しずらかった印象があります。
    今でも土地所有者又は借主さんなどと道路行政の間でトラブルがありそうな雰囲気を感じました。それに埼玉県は無闇に市が多すぎるのも何かイビツさを感じてしまいます。大雑把には現在の行政区画とは無関係味狼信仰の中心地秩父と、徳川ゆかりの川越、狭山/入間川含む元旧前橋藩とで大分類できる文化圏を想定できるかと思われます

    O阪屋酒店の風情ある壁やN家の土塀も美しいですね。最後に狭山駅に行った際に(狭山ロゴ入りあんパンが目当て)女優の杏さんそっくりな長身美人がいました、時代は変わりつつありますね。
    でも元佐野屋向かいの道祖神?とても風情があり、古いものの良さに惹きつけられずにいられません。

    言語学の専門家によると埼玉県だけで30以上の方言に分類できるそうですが、さすがに狭山市駅付近のS地区と赤坂付近では同じでしょうか。どうしても佐野夜オイオイオジサン(もしITRさんでしたら、まだ20代ですが)の正確な口語を知りたいのです。あのとき、次姉さんもイントネーション以外は完璧な標準語だったかも知りたいです。裁判証言や、調書では多分、余程の訛りが無い限り書記官/刑札の方が標準語に直してしまいそうですので。因みに比較的古い日本を維持していた沖縄では現在でも区画を隔てると方言が違う地域もあるそうですよ。

    >>最近になっても調べれば調べるほどそのセンが濃くなってきた感がありますね。

    パソコン風に表現しますと、例えばVOL3.1みたいな分量でも必ず複数冊を購入させていただきますのでぜひ詳しく知りたいです。
    それと、A先生に殴れれ組だった元生徒がA先生の出自が。。。というのは小作筋でしょうか。それとも豚屋さんの方々に近い感じなのでしょうか。SG蔵さんが石川さんとフレンドリーに野球に興じていたり、インタビューに応じて下さった皆さんも人により豚屋さんと違和感なくお付き合いしたり、別紙丸出しの人もいたり、時代の端境期を感じる事件でもありますね。

    >>おそらく一反木綿さんと視点は同じなのかと思います
    はい。その通りです。光栄であります。

    最後に出典は失念してしまったのですが、戦後20年位は田舎に行くほどもと憲兵さんの権威は相当のものだったようですね。

    蛇足ですが、僕がお気に入りの民俗学探索地のひとつ千葉県の奥地は非定住民がつい最近まで居た痕跡を見つけました(洞穴住まい)。

    下記HPに「郵便制度ができてしばらくの間、本局から離れた特定郵便局まで郵便物を運ぶとき、郵便局員はラッパとピストルを持ったそうです。郵便物の中に現金書留などがあり、途中の山道で襲われる危険があるからだそうです。下総台地の中の特定郵便局までは本局から12キロメートル程度。一番高い地点の標高にして40m程度の山道です。当時はうっそうと樹木があったと言うことですが、近代に入っても山賊(話した人間は山賊と言っていました)だか、追いはぎはいたということです。」とあります。
    http://okwave.jp/qa/q4286120.html
    平成元年に神奈川県秦野市山奥(アイヌ語由来と思われる三廽部という地名です)のお寺の住職さんに昭和30年代までは、箕直しさん、と呼ばれる穏健な非定住職能集団と、もろに山賊とが混在したことを取材できました。

    狭山に話を持ちますと、掘ったて小屋?にエロ本と鎌が見つかった件も気になっています。思春期にエロ本隠れ読みをした経験のない男性は殆どいないと思われるのですが「鎌」は何でしょう。秘密基地を作る工具だったのか、若年にして嗜虐嗜好がある人物が実行犯又はその子分の下っ端の若者がいたのかとも想像しました。

    ただし、現時点ではご遺体の縛り方は、成人〜中年の事件発案者のN家への怨念を込めたある種の(逆葬送儀礼を感じています)。

    国立精神神経•医療研究センター敷地内に司法精神医学研究所が併設されていますが、性犯罪者の研究文献を見ると単なる性犯罪者ですと射精をどのタイミングでしたかは重要な鍵となるようです。
    嗜虐嗜好の性的異常者のみは首班なら、死後に射精をした可能性がありますが、その形跡は無いですよね。

    よって、有る程度の文化的、経済的な地位があり、それでもN家のような権威はない人が事件発案者である可能性を妄想しております。

    蛇足を含んだ超分申し訳ございませんでしたm(_ _)m。

  5. >埼玉県だけで30以上の方言に分類できるそうですが、さすがに狭山市駅付近のS地区と赤坂付近では同じでしょうか。どうしても佐野夜オイオイオジサン(もしITRさんでしたら、まだ20代ですが)の正確な口語を知りたいのです。あのとき、次姉さんもイントネーション以外は完璧な標準語だったかも知りたいです。裁判証言や、調書では多分、余程の訛りが無い限り書記官/刑札の方が標準語に直してしまいそうですので。

    私が現場近くに引っ越したのは事件の8年後でしたが、やはりその頃は、今よりも「土地ことば」を使う人が遥かに多かったです。私は東京・練馬から移ってきたので、最初学校の同級生たちが「~時までにきなかったら」とか、「~してきちったい」「オイオイ、~をすべぇ」なんて話しているのを聞いた時は、かなりの違和感を覚えたものでした。昭和30年代であれば、S地区も上赤坂もほとんど言葉使いに差はなかったと思うのですが、昭和50年代以降になると駅周辺の地区では方言は全くと言ってよいほど聞かれなくなりました。

    >A先生に殴られ組だった元生徒がA先生の出自が。。。というのは小作筋でしょうか。それとも豚屋さんの方々に近い感じなのでしょうか。

    その方はA先生について「豚屋さんに近い」ような感じで話していたのですが、本当かどうかまでは分かりません。なお、そのことを話した方は、沖縄からの移住組で、ご家族は農地改革の際に入植しています。昭和40年頃まで、その方たちは、N家を含む上赤坂の人々からひどい差別を受け、毎日の食事さえ満足に摂れない状況だったそうです。

    >近代に入っても山賊(話した人間は山賊と言っていました)だか、追いはぎはいたということです。」とあります。

    「山賊」の定義は結構曖昧ですよね。私も最近、板橋・岩の坂のスラムについて調べているのですが。地元のお年寄りなどは未だに皆、「昭和20年代まで、この辺はよく山賊が出た」なんてことを言ってきたりします。

    >嗜虐嗜好の性的異常者のみは主犯なら、死後に射精をした可能性がありますが、その形跡は無いですよね。

    死姦の形跡は全くありません。

    >有る程度の文化的、経済的な地位があり、それでもN家のような権威はない人が事件発案者である可能性を妄想しております。

    私もだいたい、同様に考えています。

    なお、大変申し訳なくもあり残念でもあるのですが、私にしても手持ちの情報すべて(=100%)を皆さんに開示している訳ではありません。やはり、情報を提供して下さった方々の人間関係や生活も守らなくてはなりませんし、そうなれば自ずと不特定多数に対して発信できる範囲も限られてくることになります。ただ、今後も「同人誌」という手法を使って、ギリギリ限界までの内容は皆さんにもお伝えして行きたいと思っています。どうぞご期待ください。

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