亀な紹介ですいません。以前にとりあげた「被害者は腹違いではなかったか」という質問が裁判で出てきたことに関して、「狭山事件を推理する」サイトにて「おそらくは根拠のない噂レベル」という話が出ています。
『続無罪の新事実』の記述を確認しましたが、確かに亀井氏自身が「僕のある記事にヒントを得て」と明記しています。そもそも亀井本は事実関係にかなり疑義があることはこれまでも本ブログで見てきたとおりです。さらにこの部分は、「狭山事件を推理する」サイト管理人氏も指摘しているとおり、いわゆる「荻原文書」の受け売りであると思われます。したがって、信憑性はほぼゼロといっても差し支えないでしょう。
そういうわけで、今後何か新事実が出てこない限り、この「被害者は腹違い(種違い)」という話は、狭山事件真犯人推理の上ではガセネタとして扱うべきであると思います。
「腹違い」「種違い」の件ですが、私は必ずしもこれを「ガセネタ」とは判断していません。
確かに情報源は「荻原文書」ではありますが、荻原・亀井情報は誇張や曲解、細部の誤りは多くても「根も葉もない話」も逆にほとんど無いのが大きな特徴です。
私が新著で記したとおり、中田家近所の方は「中田家も、善枝さんの母の実家も、色々因縁のある家だった」「母親のミツさんが嫁いだ日の翌朝には、中田家の庭に墓を模した土盛りがされてあった」「善枝さんが殺された時は、(地元でも)長男がやったんじゃないか、という噂が立った」と証言しており、また同じ方は後日「あの家は家族関係が凄く複雑だった」「家庭の中でいろんなことがあった」とも話していました。私は思い切って、「善枝さんと登美恵さんの親が違う、という話もあるんですが、その辺はどうなんでしょうか?」と尋ねてみたこともあったのですが、それに関しては否定も肯定もせず、といったところでした。
この事件については、私は今でも「血縁関係を巡るトラブルが根底にあり、そこへ何らかの大きなトラブルが重なって引き起こされた可能性が高いのではないか」と考えています。
「荻原・亀井情報は誇張や曲解、細部の誤りは多くても「根も葉もない話」も逆にほとんど無いのが大きな特徴です」とのことですが、亀井が『狭山事件』(辺境社、1972年)で関源三を「部落出身らしい」と書いているのはガセネタでしょうか?
『全国部落調査』によると、関の出身地の埼玉県入間郡坂戸町勝呂に部落はありません。
コメントありがとうございます。
「血縁関係をめぐるトラブル」について、母親が嫁いできた日のできごとなどから何かしらの複雑な事情があったのではないかというところは同意します。ただし、その先の、「腹違い」「種違い」については現時点では少なくとも確認できていない、という状況ではないかと。現実問題として確認が難しいところだとは思いますが。
また、以前にも話が出ていた、公表された被害者の日記を見る限りではそのような複雑な事情があるようには見えないこととの整合性はどうなるかという問題もあります。被害者自身が知らなかっただけで、母親の代までいろいろと複雑な事情があったということになるでしょうか。
もちろん、この件についてはまだ何の確認も取れていません。
被害者の日記を見ても複雑な事情を伺わせるような記述はみられませんし、もし実際にそのようなことがあったのだとしても、おそらく被害者自身は何も知らなかったと思います。
ただ、中田家についていえば、「いろんなことがあって」、「家族関係がすごく複雑で」「普通の家じゃなかった」ため、「きょうだい仲は良いけど、『兄が妹を殺したんじゃないか』という噂が立った」ということだけは事実のようです。
私の場合、どうしてもそこからは「腹違い・種違い」というぐらいのことしか想像出来ないのですが・・・。
逆に管理人さんや、ここを見ている皆さんにもお尋ねしたいのですが、上記のような証言から果たして他にはどのような家庭の事情が推測出来るでしょうか?
「家族関係が複雑で」が何を指しているかについては、正直想像もつきません。ただ、もし「種違い」という話であれば、被害者の下の三男の存在が解せないところです。被害者(四女)が生まれてから5年間隠し通した種違いが、三男が生まれたときに露見したためにその直後に母親がその責任を取る形で死亡したという亀井説になるのでしょうか。これが「腹違い」であれば、昔の農家の家父長の強さからいってわからないでもないのですが。
時系列的には以下のようになるかと思います。
1947年:四女(被害者)生まれる
1952年:三男生まれる
1953年:母親死去
1954年頃?:長女が家を出て東京で働き始める
「家族関係が複雑で」という原因がこの1952~54年にありそうな気はするのですが、それが何かというのは全く想像もつきません。
この件に関して、私はやはり「腹違い」の可能性の方が高いのではないかと考えています。
母親が「38歳で四女、43歳で三男を出産」というのは当時として余りにも高齢過ぎるように思いますし、四女と三男のみ名前に共通の字が使われていないことや、三男がのち養子に出されているのも気になるところです。
なお、近所の方の言う「家族関係が複雑」というのは、母親の死因や長女の家出についてのことではなく、中田家の血縁関係に関して話している中で出てきた言葉でした。おそらくその近所の方は、中田家の家庭内の事情をすべて知っているのだと思います。
はじめまして、昭和38年生まれの米子と申します。
予てより切望していた狭山事件関連の図書を読破しようと思い立ち、読み始めた所です。このような段階ですので、多少のフライング発言をお許しください。
1、N家の女手の推移についてですが、長女が家を出た頃の女手は、本当に次女だけだったのでしょうか?
何故なら、出典失念の年表ですが、母親が亡くなったのは昭和28年、祖母は昭和32年となっております。次女はまだ13才、中学1年生で母親を亡くした事になりますし、その後この次女の中学卒業を待って、長女から次女に女手が移譲されたと思われますが、祖母も健在であっての事だったら、次女の受け止め方も幾らか違うのではないかと思ったのです。双方(長女・次女)「お祖母ちゃんもいるし…」と、したのではないかと。その辺り、いかがでしょうか?
これは正直失念していました。ご指摘ありがとうございます。
おっしゃるとおり、祖母(あるいは祖父の妹などの可能性もありますが、いずれにしても被害者宅の女性の1人)は昭和32年までご存命だったようですね。後ほどいろいろ修正したいと思います。
公判調書および中田家の墓碑銘を見ると、
中田登美恵 昭和14年12月6日生まれ
母・ミツ 昭和28年12月30日 死去 享年44
K女(=祖母と思われる) 昭和32年12月26日 死去 享年79
となっています。ですから、母親が亡くなった時、登美恵さんは14歳=中学2年生ということになります。
長女については、昭和28年~30年の間に家出した、ということ以外分かっていません。
おそらく、結婚話の件で父の栄作さんと言い争いになったものと思われますが、本当にカバン1つ持ってある日突然家を飛び出した、という状況だったらしく、その際には住む先さえ決めていなかったようです(長女はその後、都内の職安[=ハローワーク]に駆け込み、職員に「住むところが無いので、住み込みで働ける職場を紹介して欲しい」と依頼しています)。
米子さんがおっしゃるように、中田家では長女が家出しても祖母が健在で、とりあえず女手は足りていた、ということも十分考えられるかと思います。ただ、祖母の年齢はすでに70代後半に達しており、その2~3年後位には亡くなっていますから、果たして健康で働ける状態だったのかどうかまでは分かりません。最悪の場合、認知症を発症していたり、病気で寝た切りになっていたことだって有り得なくはないと思います。
管理人様、伊吹隼人様、お返事有難うございます。
79才でしたか、、、合掌。私の推察を訂正します。有難うございました。
「腹違い・種違い」についてですが、祖父逝去の翌年に被害者が生まれていることから、「この子は、お祖父さんの生まれ変わり」などと言われる機会は、法要の度毎にあった様に思います。本来、慰みの意味合いの言葉だったはずが、事件を境に噂になったとも思えます。
また、被害者の誕生から三男誕生までの間(マ)ですが、祖父逝去後は、夭逝した三女の法要も重なった時期でもあります。新家長としての体面上、祖父・七年(回)忌法要が済むまでは、と気が休まらない毎日だったと思います。
既出情報の言い回しでしたらスルーして下さい。
「家族関係の因縁」「嫌がらせ」と祖父・三女の死去に関しては、おそらく何も関係は無いと思います。
近所の方の話にしても、そうしたものではなく、「(中田家には)血縁関係に絡む複雑な事情があり、そのため別の家から恨みを買っていた」というニュアンスでした。また、当時の狭山の農村では乳幼児の死亡率が異常に(江戸時代並みに)高く、1~3歳の子供を数人亡くしている、という家も少なくなかったようです。ですから、中田家においても三女の死去は特別大きな“事件”では無かったと思われます。
伊吹隼人様、お返事有難うございます。
前書き込みは、伊吹様の9/22 12:22pmに有りました‘(前略)他にどのような家庭事情が推測できるか’に宛てて書いたものでした。分かりづらくてすみません。
改めて書き込みます。噂の火種ベスト2、です。
1、被害者が、祖父の逝去の翌年に生まれたことから、回りから「この(あの)子は、お祖父さんの生まれ変わりだ」的なことを言われる機会が度々あった。
●事件後、種違い(祖父の子)を想起させる噂へと一部変化した。
2、被害者誕生から三男誕生までの、おおよそ5年という間隔と結果的に高齢出産になった裏には、家長を引き継いだ父親の心的・機能的な問題から来る男性性変化があったのではないか。
単刀直入に言うと、現代版EDに陥ったものの、その回復途中で「想定外の妊娠」、「出産」となった。
●この「想定外の妊娠」と「出産」に対して、種違いを想起させる父親の態度があった。
以上、推測でした。
前掲載文の三女の法要云々は、家長の責務(と思われる)の一つとして例示しただけのものです。
ところで、「少時様」と名前の韻が同じM田氏の四人の子供たちですが、長男と次男の間だけが6・7年開いていますね。それこそ「**違い」ではないかと気になっております。事件当時18才のM田家長男、「**違い」はさておき、大変興味深い立ち位置の方だと思っています。
私もちょっと読み違えていました。米子さんのコメントは、「推理」ということではなく、単なる“可能性の提示”ということだったわけですね。。
ただ、今回の米子さんの書き込みなどを読んでいると、私の場合逆にますます「腹違い」の可能性が高いようにも思えてきました。「(兄・妹含む)血縁関係絡みの複雑な家庭の事情」といったら、やはり通常はそのくらいしか考えられないのではないでしょうか?
なお、N田家の長男・次男で年齢差がある件については、その間の詳しい出産の状況まで調べてみない限り、何とも言えないような気がします。以前にも記しましたが、当時狭山の農村では乳幼児の死亡率が異常に高く、また出産もほぼすべて「自宅出産」であったため死産も相当に多かったようです。したがって、数年の間にそうした出来事が連続して生じた可能性なども十分にあるかと思います。
伊吹様
コメントありがとうございました。うっかり、A先生のカテゴリーにご遺体埋設の質問をしてしまい申し訳ありませんでした。
インタビュー集無事に購入できました。コミケのカテゴリーにお礼のコメントを投稿させていただきました。
雛形になるような呪詛の形式や民俗がないのに、オリジナルで土葬のような土饅頭を嫁入り翌朝までに作るとは、並々ならぬ意思の強さと怨念(嫉妬や逆恨み含む)の存在を感じます。
昭和38年当時でもま街灯なく真っ暗だったのでしたら、尚のこと大変難儀してでも実行したい作業だったのでは?と思いました。
インタビュー集拝見しますと今ならまだ、土饅頭のいきさつまたは、噂を知ってる人がいそうですね。
以外は妄想です。
E作さんは厳格、堅物としての評価がある故に手堅い筋と目された結婚相手(候補者含む)のほかに美人のミツさんと結婚したことで後々の軋轢を生じたのでしょうか?
ミツさんのご実家とN家又は赤坂村の関係について、ともし誰か上記妄想に該当する女性がいたのならその方とその家について知りたいですね。
余談ですが、先日、ミツさんが亡くなられた病院を見学してきました。
病院内に有名なカフェチェーン店が入っていたりマンション並みの綺麗な建物になっていましたが裏手には時代がかった木造の廃墟のような物置?みたいなものがありました。古い建物も残っていて欲しいと思いました。
>昭和38年当時でもま街灯なく真っ暗だったのでしたら、尚のこと大変難儀してでも実行したい作業だったのでは?と思いました。
確かに、他人の家の庭に忍び込んで夜明け前に土饅頭を造るのは、遺体を畑に埋める以上に大変そうな作業ですよね・・・。
>E作さんは厳格、堅物としての評価がある故に手堅い筋と目された結婚相手(候補者含む)のほかに美人のミツさんと結婚したことで後々の軋轢を生じたのでしょうか?
N家―A家の結びつきからは、どうも“政略結婚”の匂いがプンプンしてくる感じです。また、N家・A家は互いに何らかの異性関係のトラブルも抱えていたようです。それが具体的に何であるかまではまだ分からないのですが。
>余談ですが、先日、ミツさんが亡くなられた病院を見学してきました。
現在81歳のある方に聞いたところ、あの病院はやはり昔、キ×××病院(差別用語)などと呼ばれていたそうです。ミツさんが入院後間もなくして死亡していることや、家族の中で2人の自殺者が出ていることも合わせて考えると、何らかの精神・神経系統の疾患だったのではないか・・・という気もしてきます。
詳細についてはまだ記せないのですが、「腹違い」「種違い」はガセネタではありませんでした。
本日、N家をよく知る人物から、ようやくはっきりした証言が得られました。
取り急ぎ、ご報告まで・・・。
インタビュー集含め、伊吹様の著作を全て読んだ身としては、やはり!の大収穫の情報です。
お母さんの嫁入り時の土饅頭事件と併せてとても関心があります。