その他: 女子プロ野球について

nikkansports19510304日刊スポーツ昭和26年3月4日付

先日またトトロがされたようで、それに合わせてまたアクセス数が一時的に爆発しました。

が、それは無視して(笑)、前回の続きで淡々とについての話です。単にこの機会に書いておかないと忘れてしまいそうなので。

今年(2010年)発足した日本女子プロ野球からさかのぼること60年前にも、日本に女子プロ野球がありました。前回も書いたように、私はこのいにしえの女子プロ野球についてWikipediaに書いたことがあります。書いた当時は「女子プロ野球」の記事名だったのですが、今回発足した女子プロ野球との関係もあって現在は「日本女子野球連盟」の記事名に変更されています。

元々、この記事については、こちらの参考文献の項目でも挙げた、『女たちのプレーボール』、『私の青空』、『プロ野球選手はお嬢さま』という3冊の本を元に書きました。しかし、その後の調べで、Wikipediaに私が書いたことの一部が事実と反することが判明しました。基本的にWikipediaにはもう書かないことにしているので、こちらにメモとして残しておきます。

Wikipediaの記事の冒頭の定義部には以下のように書かれています。

日本女子野球連盟(にほんじょしやきゅうれんめい)とは1950年から1951年の2年間にわたって女子によるプロ野球リーグを運営した団体である。

しかし、どうもそうとは言い切れないようです。

本日掲載した日刊スポーツ昭和26年(1951年)3月4日付の記事にこうあります。

いで見参とおこがましくも『プロ』のプラカードをかゝげて女を売物にファンの好奇心を誘った女子野球も技術の低調と演出の不手際にたゞこれだけのものとスポーツとショウの中途半パな行き方にファンもあきれ、連盟自体も方向に迷っていたが、これがもとで純然たるスポーツを標ぼうして進む日本野球連盟とショウ的魅力を売物の全日本野球連盟の二派にはっきりと色分けされた

(中略)

一方大久保留次郎氏を会長とする日本女子野球連盟では女子野球なるものは企業的には未だして『プロ』の名を冠するには球団が独歩し得るまでに至っていないと堅実な親会社をバックにその宣伝機関としてノン・プロの道を進もうと再出発のスタートに立った、球団が親会社の宣伝業務にたずさわって運営するのであるからセミ・プロの色彩を帯びているが『見てもらえるスポーツ』『楽しめる明るい女子野球』へとまず技量向上に志したとは看板倒れした女の野球としては賢明な目標といえよう

つまり、1951年のシーズン開始前に既に、連盟として以下の2点を打ち出していたことがわかります。

  • プロをあきらめてノンプロに移行する
  • 健全スポーツ路線をめざし、技量向上を図る

日刊スポーツは日本女子野球連盟の事務局長であった斉藤弘夫の出身母体であり、少なくとも連盟関係の記事には信頼がおけると思います。従って、1951年のシーズンは少なくとも既にノンプロへの移行期間であり、純然たる『プロ』として興業=見世物を目指していたのは1950年(昭和25年)1年間だけだった、というのが「事実」のようです。

記事中には他にも、1951年3月時点でまだブルーバードと全日本連盟が解散していないことが書かれています。しかし、個人的な推測として、この点はどうも小泉吾郎の強がりを記者がそのまま書いてしまったのではないかという気もします。ブルーバードの主力選手はすでに他球団(主にわかもとフラビンズ)に移籍済みで、そのことは他の日の記事にも書かれていますので。

  

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