津山事件: 『雄図海王丸』と『浮城物語』 その3

「津山三十人殺し」より
「津山三十人殺し」より、『雄図海王丸』生原稿とされているもの

』疑惑の続きです。

における『雄図海王丸』の紹介には、言い逃れを意識した言い回しがあります。以下、筑波本からの引用です。

現在残っているのは『雄図海王丸』と題した四百字詰原稿用紙四百一枚に及ぶ長編で、は都井本人のものと確認できないが、物語自体は武井信夫その他によって、彼が読んで聞かせてくれた話に間違いないとされている。都井がなにかの懸賞に応募すると洩らしていたところから、誰かに清書を頼んだのか、あるいは関心を持った誰かが写したのではないかとも見られるが、都井の作った物語であることは確かである。

この言い方自体、この原稿の筆跡が睦雄のものでないことを半ば認めているようなものです。

さらに、本日のエントリの一番上に掲載した写真を見ていただければわかるように、この「原稿」にはかなり大量の推敲が加えられています。「誰かに清書を頼んだ」「関心を持った誰かが写した」のであれば、このような書込みが入ることは100%ありえません。筑波氏が何の先入観もなく「都井睦雄の作品の原稿」としてこれを入手したのであれば、推敲の書き込みから睦雄自身が書いた生原稿と考えるはずで、「誰かに清書を頼んだ」等と考えること自体がおかしな話です。
すなわち、この「原稿」は筑波氏自身がでっちあげたものであり、それをごまかすために上記のようなことを書いたと私(本ブログ管理人)は判断しています。

上記の引用のすぐ後には下記のような記述もあります。

矢野竜渓は明治時代の実在の小説家であり、彼がすでに発表したものを子供向けに改作したという意味なのか、それとももっともらしく思わせるために矢野竜渓を持ち出したのか、そのへんがはっきりしない。

これまでのエントリでも見てきたように『』は龍渓の代表作であり、睦雄の死後には岩波文庫にも収録された作品です。調べればすぐに、『雄図海王丸』がストーリーも登場人物名もそれを丸ごとパクったものであることがわかったはずです。それをごまかすような書き方をしていること、上記のように「原稿」も睦雄が書いたものではないと考えられること、さらに「」にも一切話が出てこないことから、『雄図海王丸』自体が筑波氏による創作(より正確に言えば、『浮城物語』を筑波氏が改作したもの)であると判断せざるを得ないと思います。

 

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