狭山事件: 当時の狭山市内の中学校

狭山市詳図狭山市詳図(1966年、人文社刊)

前回のエントリの記事で「入間川中学」という名称が出てきました。ところが、文献によっては当日試合があったのは「入間川東中学」になっています。いずれにしても、現在の狭山市立入間川中学校とは別の、現在の狭山市立入間川東小学校の場所(線路沿いの第一ガードそば、川越高校入間川分校や駅からも歩いて5分ほど)にあった中学校であることは間違いないようです。 このあたり、学校の名称と位置について当時と現在ではかなり変遷があり、通称などもあるようで様々な文献や当時の新聞記事ですら混乱が見られます。

そのため、当時に近いと思われる地図で確認しました。以下まとめです。なお、「現在の」という注釈を入れない限り、当時の名称・場所を指すものとします。また、お手数ですが現在の地図(例えばGoogle Map)などを参照していただいた方がわかりやすいかと思います。

(3月8日注記:その後の調べで、以下の記述は全体的に間違いが多いこと、上に掲げた地図は表記が古いことが判明しました。現時点での私(管理人)の考えをコメントに記載しましたのでそちらをご参照下さい)

  1. 野球の試合をやっていたのは、「入間川中学校」(場所は現在の入間川東小学校)。「入間川東中学校」と表記されている文献や記事も多いが、この地図で見る限り「入間川中学校」の方が正解と思われる
  2. 前回のエントリ記事中で決勝戦を戦ったことになっている「狭山東中」と「同西中」は当時存在しなかったと思われる。この辺は今後確認したいが、記事の証言の信憑性を疑わせるに足る事実ではある
    • 本日の画像()の中に、現在の狭山東中の位置を青、狭山西中の位置を緑で示した
    • いずれも、狭山事件の後に狭山市が東京のベッドタウンとして急速に発展する中で創立された学校
    • ただし、当時通称として例えば水富中学が「狭山西中」などと呼ばれていた可能性は否定できない。要確認
  3. 現在の入間川中学校のあるあたりには当時学校はなかった
  4. 堀兼中学校は現在とほぼ同じ位置にある(野間宏氏の『完本 狭山裁判』では、「元堀兼中学校は、現在狭山東小学校となっている」という記述があるが、そもそも現在狭山東小学校という小学校は存在せず、現在の「堀兼中学校」は1966年の地図の堀兼中学校と同じ位置に存在するので間違いではないかと思われる)

細かい話ですが、いろいろな文献を読んでいると脳味噌が混乱してくるので、頭の中を整理する意味でも当時の地図は参考になると思います。

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コメント / トラックバック 20 件

  1. 管理人 より:

    狭山東中西中のホームページを確認したところ、下記のようなことが判明しました(言い訳:このエントリを書いた際にはどういうわけか東中・西中のHPにアクセスできず、確認が取れませんでした)。

    • 狭山西中の創立は昭和35年。昭和37年には現在の位置に移転している。
    • 狭山東中の創立は昭和37年。HPの沿革によれば、「狭山市立入間川中学校,同奥富中学校を統合し、狭山市立東中学校を設置,入間川を本校とし,奥富中学校を分教場とする。」となっているので、地図中の「入間川中学校」が当時は狭山市立東中学校という名称であったことになる。その後、昭和39年に現在の位置に移転した(事件当時は工事中だった)。

    というわけで、事件当時(昭和38年5月)の状況をまとめると、下記のようになると考えられます。

    • 当日試合があったのは「東中学」。元は「入間川中」だった。記事によってはそれらがごっちゃになって「入間川東中」という表記になっている場合もある。
    • 東中学の位置は、このエントリの地図では「入間川中」になっている場所で、2008年現在では入間川東小学校がある場所。現在の狭山東中がある所は当時まだ工事中だった。
    • 当日の決勝戦が東中と西中で戦われたという記述は正しいと思われる。
    • 堀兼中は移転していない。当時も今も同じ位置にある。

    決勝戦の時間については別途検討します。

  2. 匿名希望 より:

    野球部の試合は東中と堀がね中で行う予定だったはずですよ

    被害者は堀がね中の卒業生!

    野球部の顧問は被害者の中3の時の担任で野球部の顧問!

    試合は東中にて午後3時半に開始予定だった為、東中に向かう午後3時頃に被害者を第2ガードで目撃している

    天候などから試合は中止となり、すぐ堀中へ戻る事になったが午後3時頃第2ガードには被害者の姿は無かった

    ちなみに身の代金を受け渡す際、さのや酒店に警察と共に現場に行って参加している事も本人の証言からわかっている(現在も狭山市にて存命である)

    どうでしょうか?

    東中と西中とで試合の予定があったというのは間違いでは?

  3. 管理人 より:

    コメントありがとうございます。

    当日の試合につきまして、「野球部の試合は東中と堀がね中で行う予定だった」という証言は、正直なところ初耳です。もし可能であれば、ソースをご教示いただけないでしょうか?よろしくお願いします。

    A先生が堀兼中野球部を引率して東中に向かったことは確かです。しかし、当日の「春の学徒総合体育大会狭山地区予選」決勝戦が東中対西中であったことには、複数の証言があります。
    たとえばこの記事をご参照ください。

    逆に言えば、堀兼中の対戦相手がどこだったのか、さらに堀兼中が決勝に出ていないなら何のための試合だったのか、については現在のところ確定的な証言が得られていません。

    もし、当日の試合が堀兼中対東中であったという確定的な証拠をお持ちであれば、是非ともご教示ください。よろしくお願いいたします。

  4. エル より:

    いま入間川東小が当時の狭山東中で、そこで狭山東中と狭山西中の決勝が行われたわけですよね。であるなら堀兼中の練習試合の相手が東中であるわけありません。決勝はトーナメントで5試合目だったといわれる。だとすれば参加校は6校だったということになる。東中、西中、堀兼中の参加はわかっているが、残りの三校はわからない。しかし地区の野球大会なんだから、近辺の中学に違いありません。そして堀兼中の練習試合の相手とされている中学も、この大会に参加し、堀兼中と同じように敗退した学校であろうと想像されるわけです。5月1日はメーデーであり、公立中学の授業は、午前中で終わりだったようなんです。だからこそ決勝戦を行うこともできたわけです不思議なのは、なぜ決勝のあとに、すでに敗れた学校同士の練習試合を、やらなきゃいけないのかということです。しかも4時から。7、8月とは違って5月1なら、まだ日没も早いのではないでしょうか。照明もないのに4時から試合ができるのかどうか。47年間検証されなかったんでしょうか。そんな遅い時間から試合をやらなくても、堀兼中か、相手の仮にB中学のグラウンドを使えばいいんですよ。午前で授業は終わりなんだし、グラウンドは空いてたんじゃないですか。そもそも堀兼中とB中の練習試合を、なぜ狭山東中のグラウンドで、やるんでしょうかね。自校のグラウンドを使うのが当たり前なんじゃないのか。君達のグラウンドを使えよと、普通は言うんじゃないでしょうか。このように見てくると、A先生の証言というのは非常に疑問が、出てくるんですよ。それに第二ガードでYさんは、誰かを待ってるようだったという記憶を持ってる人が、練習試合の相手の中学の名前は覚えていないなんてことが、あるんでしょうか。他の練習試合の相手は忘れても、この日の相手を忘れるわけがない。むしろ、忘れようとしても、忘れることができないのではないでしょうか。それが身辺で、大事件が起きたときの、腦の記憶なんじゃないんでしょうか。

  5. 米子 より:

    当時の中学校は、東中、西中、堀兼中、入間中・・・までは確実と思われます。

    それ以外に、何中があったのでしょうか。

  6. 伊吹隼人 より:

    当時はあともう1校、奥富中というのがありました。

  7. 米子 より:

    伊吹様、早速のお返事をありがとうございます。

    奥富中ですか?
    東中の分教場、でしたよね?としますと、名称は・・・、奥富中学校のままだったのでしょうか?

    昭和40年4月、新校舎完成後、本校(旧入間川中)と統合されたと、認識しております。

  8. 伊吹隼人 より:

    もう少し正確に言うと、「奥富中学校」は事件前年の1962(昭和37)年に「旧・入間川中学校」と統合され、「狭山市立東中学校」になっています。そのため、新しく建てられた東中学校(現在の場所にあるもの=昭和39年竣工、昭和40年開校)校舎は、しばらく地元で「統合中学校」と呼ばれていました。旧・奥富中学校校舎は、統合されたのち「狭山市立東中学校奥富分教場」となっています(事件直前の野球試合トーナメントでも「奥富分教場」の名で出場しています)。奥富分教場は1965(昭和40)年に廃校となり、東中学はその後移転、旧・東中学校校舎は「入間川東小学校」校舎となりました。

  9. 米子 より:

    伊吹様 またもや早速のお返事を、 ありがとうございます。

    そうしますと、 事件当日にあった中学校は、

    1、 入間中
    2、 堀兼中
    3、 西中
    4、 東中本校
    5、 〃 奥富分教場

    の、 計5校と解釈して良いのでしょうか?

    質問をお許し頂けるなら、
    4、 東中本校
    の正式名称の表記は、 「狭山市立東中学校本校」だったのでしょうか? それとも、 狭山市立東中学校入間川本校と、 敢えてイルマガワの呼称を入れ(=残し)た、 表記だったのでしょうか?

  10. 伊吹隼人 より:

    そうです。当時あった中学校はその5校で、野球トーナメントもこれによって行われています。

    なお、「東中本校」の当時の正式名称についても調べてみたのですが、「狭山市立東中学校」以外の表記を記録から見いだすことは出来ませんでした。おそらくは「奥富分教場」と区別する時にのみ、「本校」または「入間川本校」と併記していただけで、正式名称としてそれが使用されたことはなかったのだと思います。

  11. 米子 より:

    伊吹様 はたまた早速のお返事を、 ありがとうございます。

    では、 一旦ここで結論を。 事件当日にあった中学校は、今のところ以下の通りと致したいと思います。
    1、 入間中
    2、 堀兼中
    3、 西中
    4、 東中
    5、 東中奥富分教場
    以上、 計5校。

    単純に、 この5校から1チームずつが出場しトーナメント方式の試合をした場合、 決勝戦自体が ‘4試合目’ に当たりますね・・・。

    ころころコロン、 あ、 振り出しか・・・。

  12. 米子 より:

    「5校」が「トーナメント」で戦うと、 決勝戦こそが「4試合目」です。

    では、 「Vの悲劇」や通称・元「推理サイト」にて、 「決勝戦‘迄’に 『4試合』 が行われていた」 ことを前提にしたA氏、 並びにO君のYさん目撃情報の信憑性を検証しています。 これをどう見るか。 検証結果はさておき、 殊「4試合」については、 二人とも再検討をせずに検証を進めています。 つまり今は、 これを事実と類推してみますと、 他の部分の解釈に誤りがあるのではないか、 と。

    具体的には、
    1、 トーナメントが誤りだった場合・・・例えば、 市内5校を2校と3校に分け、 2校ブロックは1試合、 3校ブロックは3試合の総当たりとし、 各ブロックの勝者が決勝戦に進む方式。 決勝戦前は最少4試合‘も’有り得るが、 3校ブロックの方は、 勝ち数+αを考慮しておかないと、 県大会までに決着がつかない恐れも出てくる。

    2、 市内5校=計5チームと考えることが誤り・・・例えば狭山市誕生時の一町五カ村の名残から、 統合された中学校からは、 1チーム+αの出場が認められていた。 事件当時の中学校で該当する中学校が1校あった。

    ※「6」にまつわる若干の補足です。

    狭山市発行の某市史に、 昭和35年11月25日 「(略)市内6中学の野球部(略)」 と 「6」 が出現しています。 ところが同年10月には既に西中が開校していて、 旧柏原中と旧水富中は廃校になっていたと思われるので、 11月25日にあった中学校は、 入間川中・入間中・堀兼中・奥富中・西中の5校です。 東中が誕生する以前に、ここでも 「5」 と 「6」 の学校数の不一致が認められます。

    新たに昭和37年東中が誕生するわけです。 旧奥富中は分教場として1校の体をなし、旧入間川中を短絡的に東中に名称変更したと解釈しますと、 西中開校時から事件当日までの2年半の間、 数字上の学校数は5校で同じです。

    「最終的な仮説」
    事件当時の 「学徒総合体育大会 狭山市予選会 野球の部」 は、 市内5校×1+ α(実際は該当校のみの1)=6チームにて、 トーナメント方式の試合形式で行われた。

    以上、 気になった部分を解釈してみました。 長々と失礼致しました。

  13. いつも興味深く拝読させていただいております。 より:

    はじめまして。

    トーナメントと試合数に関してですが、「三位決定戦があった」とは考えられませんか?

    >「5校」が「トーナメント」で戦うと、 決勝戦こそが「4試合目」です。

    理論上は確かにそうなのですが、こういった町内・市内のチームによる大会の場合(あるいはオリンピックなどでも)、優勝戦の前に三位決定戦が行なわれることはよくあります。
    もしも三位決定戦が先に行なわれていたとすれば、決勝戦は「5試合目」となります。

    当時の大会の状況や学校数についてはまったく知りませんが、三位決定戦の可能性についてはまだ言及されていないようなので、コメントを入れさせていただきました。
    それでは、失礼いたします。

  14. 伊吹隼人 より:

    米子様
    >狭山市発行の某市史に、 昭和35年11月25日 「(略)市内6中学の野球部(略)」 と 「6」 が出現しています。

    当時の資料を見る限り、これは単純な誤りと思われます。

    「いつも・・・」様
    >トーナメントと試合数に関してですが、「三位決定戦があった」とは考えられませんか?

    その可能性はまだ十分あると思います。行われたとすれば、これはやはり5月1日でしょう。

    野球試合に関しては、事件から12年後の某団体の聞き取り調査の際も「対戦カード」「日時」等はっきりせず、証言も全員バラバラで、記録も全く残っていない、という状況だったようです(実に不思議なことですが)。
    とりあえず現時点で判明している事実は以下の通りです。

    4月26日 西中対入間中(当初4月25日に行われる予定だったが1日延期)
    ⇒西中の勝ち

    4月27日 西中対堀兼中⇒西中の勝ち

    ※対戦日不明 東中対奥富分教場⇒東中の勝ち
    (堀兼中の日誌に「4月26日 相澤 東中」という記述が残っていることから、26日に行われた可能性が高いと思われる。=相澤先生は審判を務めるために出掛けた?)

    5月1日 東中対西中⇒西中の勝ち(決勝戦)

    5月1日 ※「決勝戦以外にもう1試合あった」との証言も複数あるが、対戦カード・試合開始時刻等、一切不明となっている。なお、もし試合が行われたとすれば、当然それは東中・西中以外の中学同士の対戦、ということになる(=「3位決定戦」?)。

  15. いつも興味深く拝読させていただいております。 より:

    伊吹様

    丁寧なご説明、ありがとうございます。
    その対戦状況で、仮に三位決定戦が行なわれたとすれば、「堀兼中対奥富文教場」というカードになるかと思われます。

    ただ、参加チームが五つと少ないため、何らかの考慮があった可能性も否定できません。
    (例えば、トーナメントの関係で西中対入間中が事実上の決勝戦となったような場合、主催者の判断により、堀兼中か奥富文教場のどちらかが入間中と対戦した、など)

    また、会場や審判の都合などから、三位決定戦が決勝戦の前に行なわれるのはよくあることだとも思います。いずれにせよ、これらは推測・憶測にすぎませんので、確たる証拠や証言が出ることを期待しております(今となっては、なかなか難しいでしょうが)。

  16. 伊吹隼人 より:

    事件当日の野球試合に関しては、全く謎だらけです。その日行われていたのが「東中対西中」決勝戦のみだったのか、もう1試合別に試合があったのかも不明ですし、決勝戦の開始時刻さえも未だはっきりしてません。

    堀兼中の相澤先生は「その日は堀兼中が試合を行う予定だった」としているのに対し、当時の野球部員Aさん(および友人2名+OT君)は「その日堀兼中が試合を行う予定は無かった」と証言しています。また、決勝戦の開始時刻も「午後1時」と証言している者が複数いるのですが、その日は12時過ぎまで授業があり、その後昼食―会場への移動(西中⇒東中)―開会式・準備等となるわけですから、これはどう考えても少し早過ぎますし、「(午後3時過ぎ頃?)東中に行ったら決勝戦が3回を回ったところだった」(OT君の証言)「決勝戦は3時40分に終了した」(複数証言あり)との証言とも整合しないことになります。

    試合カードや開始時刻は、被害者がOT君に出会った時刻や、相澤先生との第二ガード下での出会いにも関わってくる問題なので、私も引き続き鋭意調査中です。

  17. 米子 より:

    伊吹様 お手を煩わせてしまったようで大変失礼致しました。 改めて確認してみます。

    いつも、様 上記のようになりまして、 お陰さまで喉の小骨の一つが取れそうです。 きっかけを作って下さりありがとうございます。

    それにしても、 三位決定戦については、 実際がどうだったのか大変気になります。 生憎と私は、 いつも様の仰るような「良くあったこと」に至る根拠を持ち合わせておりませんで、 未だにぐずぐずとしております。

    私自身は今少し、 伊吹様から頂いた‘審判’を想起させる記録を渡りに船に、 「被害者の足取りと当日の野球の試合」 の方で続けたいと思います。引き続き、 よろしくお願いします。

  18. 健太郎 より:

    管理人様
    伊吹隼人様

    横レスですいません。

    これまでのやり取りを読ませていただいた上で素朴な質問なのですが、
    事件当日の野球試合に関して、対戦相手や各々の試合開始時刻や終了時刻等々が明らかになると、
    今後、真犯人や被害者の事件当日の行動に関する推理について、
    どのような影響が現れるのでしょうか。

    仮に上記の事柄が明確になったとして、
    伊吹様著の『現場と証言』を読み返してみると、被害者の生前最後の目撃者である、
    中島いくさんの証言(23P~)について影響が出るとは感じられません。

    ということは、
    ・灰澤先生の事件当日、被害者を見かけた等々の発言の信憑性に疑問符がつく。
    ・呼び出し犯人の目撃者が発見されるかもしれない。
    ということでしょうか。

  19. 伊吹隼人 より:

    健太郎様

    >灰澤先生の事件当日、被害者を見かけた等々の発言の信憑性に疑問符がつく。
    >呼び出し犯人の目撃者が発見されるかもしれない。 

    結論から先に言ってしまうと、ほぼその通りです。また、加えてOT君の目撃証言の信憑性が揺らいでくることも考えられます。

    被害者の最終下校時刻そのものは、同級生が詳細に記憶している「3時23分」で間違いないはずですし、その後「郵便局に3時20分~30分の間に現れた」(郵便局員の証言)「3時40分まで東中で野球試合を観戦していた」(堀兼中野球部員2名の証言)といった証言とも繋がりますから、被害者が最後に目撃されたのも「3時45分~50分頃・第一ガード」で確実かと思われます。
    しかし、「当日、決勝戦以外の試合は行われなかった」「灰澤先生(仮名)が野球部員たちを引率して行った事実は無かった」となると、「その以前に第二ガードで被害者と出会った」という灰澤先生の証言内容は果たして本当だったのかどうか、非常に疑わしくなってきます。

    灰澤先生は事件翌朝には事件の概要を聞かされていますから、その場合「記憶違い」とは考えにくく、そうなると故意に「完全な作り話」をしたか、あるいは「勘違いしたフリをして、異なる事実を交えた話」をしたか、ということになるかと思います。
    なお、灰澤先生は「第二ガードでの出会い」について、同僚教師には話しているものの、なぜか増田秀雄には何も話さず、5月2日に増田と一緒に狭山署に出頭した際もそのことは全く語っていません。理由は不明で、このことも今となっては大きな謎の一つとなっています。

    灰澤先生の「第二ガード」証言自体は、具体的かつリアルな内容ですし、おそらくは本当だったのだと思います。ただ、「堀兼中は当日は東中で試合を行う予定だった」「野球部員を引率して行った」という部分については、これまでの調査によると嘘である可能性が大です。
    「増田秀雄にだけ何も話さず」、もし「野球部員たちのアリバイを証明するような作り話をした」とすれば、理由はただ一つで、「そこに関わる誰かをかばおうとした」ということになるかと思います。
    これはあくまでも想像なのですが、私は被害者が第二ガードで灰澤先生と出会った際、「H・M君(増田秀雄の息子)」や野球部員との約束を示唆するような話をしていたのではないか、とも考えています。もしそうであれば、事件の全容も明らかになっていない状況で、捜査協力を依頼してきた父親(増田秀雄)にそのことは話しづらかったでしょうし、野球部員たちに疑いの目が集中しないよう、勘違いしたフリをして“アリバイ作り”を行ったとしても不思議ではないでしょう。

    なお、被害者は堀兼中学卒業後も野球部OBらとは頻繁に連絡を取り合っていたようです。このことから、私は当日被害者を呼び出した“メッセンジャーボーイ”が野球部に関係する人間だったのではないか、とも考え始めています。
    ただ、もちろん真相は未だ何も明らかにはなっていません。私は現在も当時の野球部員たちの消息を追っており、記録も調べ続けています。今後も何か新たに判明した事実があれば、またこちらのブログにて改めてご報告させて頂きます。

  20. 彩の国の子供 より:

    私が卒業した、中央中学校周辺で度々、狭山事件を検証する団体を目撃します。東中学校と狭山市駅の間に位置します。

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