その他: Wikipediaの「山一證券」の項目について

先日、久々にWikipediaに加筆しました。

対象は「山一證券」の項目です。以前にも書いたように、この項目の「歴史」の部分は私が書いたものですが、最近になって「有用でもないし、出典も明らかではない」というご批判をいただきました。そこで、出典を明らかにしつつ改稿、という名目で、事実関係のあらすじ部分だけを残して、読んでおもしろいであろう部分、「なぜ破綻したのか」の本質を記載した部分を全面的に除去しました。

以前から、Wikipediaで他人が苦労して書いた記事に[[要出典]]を貼り付けて得々としている要出典厨の存在を苦々しく思っていました。今回、山一證券の太田収元社長が1938年5月28日に青酸カリ自殺をした、という部分に「要出典」が付与されているのを見てかなり頭にきました。

太田元社長が1938年5月28日に亡くなった、と日付まで書いてあるのですから、疑義があるのであればその前後の新聞記事を自分で確認すればすむ話です。そうやって自分で調べたけれど確認できなかった場合に「要出典」を使って根拠を求めるのであればまだ話はわかります。しかし、この場合は明らかに、調べもせずにテンプレートをコピペで貼り付けて、「ちゃんと出典を示さないと削除してやんよホラホラ」と管理者になった気分で歪んだ優越感にひたりたい態度が見え見えです。要出典厨の方々のこういう態度に嫌気がさしてWikipediaへの投稿を差し控えていたのですが、今回ふとしたキッカケでこのような知性にあふれた編集を発見して、勢いで編集してしまいました。

太田元社長の自殺は当時としてもかなり大きなニュースであり、ちょっと調べればすぐ出典が出てきます。
asahi-ohta-S130530大阪朝日新聞昭和13年5月30日付
要出典厨のように、ネット上でしか偉そうにできない引きこもりには、新聞の縮刷版を自分であたるという発想自体がないのでしょう。

太田元社長自殺の件にかぎらず、もともと私が書いた「歴史」の項目には、一つの本だけではなく複数の本に書かれていることをとりまとめた記述がいくつかありました。特に、バブル崩壊後に行平社長・会長が逃した、簿外損失処理の「チャンス」に関しては、『滅びの遺伝子―山一證券興亡百年史 (文春文庫)』の見解を中心にしたものの、事実関係等に関して他の本も参考にしながら追加・修正して記述しました。そのため、「出典を示せ」と言われた場合に煩雑にすぎて示すことが難しいことも事実です。

本ブログや上記の新聞記事のスキャン写真を根拠に、Wikipediaに太田元社長の死について加筆するのはやめた方がいいでしょう。個人ブログは出典として認められていませんし、上のスキャン写真も私が適当にねつ造したり変造したものである可能性がありますから。書くならご自分できちんと縮刷版くらい調べてからにしてくださいな。

今回除去した部分を含めた、山一證券の歴史に関する独自研究(笑)を含めた概説は、改めてまとめてみたいと考えています。時期がきたら発表させていただきます。

(2010年7月31日追記)ちなみに、太田元社長が自殺した1938年5月28日は、私が興味を持っている(もちろん山一證券とはなんの関係もない)津山事件の1938年5月21日の一週間後だったりもします。こういう偶然の一致を見つけると、なんというか歴史の面白さみたいなことを感じます。例えばロシアの女帝エカチェリーナ2世が即位したのと、日本の最後の女帝である後桜町天皇が即位したのは、同じ年(1762年)であったというような。歴史的には何の意味もありませんけれども。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です