前回のエントリで、睦雄の墓である丸石の隣に両親の墓があると書きました。本日の写真はその証拠です。
(父)
大正七年十二月廿一日亡
都井○○○
行年三十二才
(母)
大正八年四月廿七日亡
妻 ○○
行年二十六才
石が欠けていたりして読み取りにくい部分はありますが、このように読めます。
ところが、筑波本(筑波昭『津山三十人殺し―村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか』)では、父は大正7年(西暦1918年)12月1日に39歳で、母は大正8年(1919年)4月29日に28歳で亡くなったと書かれています。他方で、父は明治13年(1880年)2月16日、母は明治29年(1896年)8月24日生まれとなっています。死亡日から生年月日を差し引くと、父は38歳、母は22歳で亡くなったことになり、特に母については明らかに計算が合っていません。おそらく筑波氏は当時の警察の報告書(「津山事件報告書」、司法省刑事局)をもとに記述していると思われるので、その著者が間違えたのかもしれません。
なお、この部分、草思社版のハードカバー単行本を参照しています。文庫版ではもしかしたら直っているかもしれませんが、未確認です(→9月3日注:コメントで文庫版の記述についてご教示をいただきました。多少の手直しがされていて数え年基準でつじつまを合わせたようですが、夫婦の年齢差を考えるとやはり生年月日が間違っているのではないかと思います。下記追記もご参照ください)
墓石に書かれた名前は当時の新聞記事に見える睦雄の両親の名前に間違いありませんし、上記のように筑波本には明らかな計算間違いもありますので、おそらくは墓石の記載の方が正しいのではないかと思われます。
墓石の行年と死亡日が正しいとすると、父は明治19年(1886年)頃、母は明治26年(1893年)頃の生まれとなります。母が嫁いだのが17歳のときという筑波本の記述が正しければ、二人が結婚したのは明治43年(1910年)、父が24歳の時でした。「この時代としては遅い結婚である」と筑波本にはありますが、24歳ならそれほど「遅い」ということもないでしょう。
ただし、筑波本には父は日露戦争(1904~1905年)に従軍し、帰還後結婚したとも書いてあります。1886年生まれとすると日露戦争時点では18~19歳ということになり、徴兵年齢(満20歳)に達しません。志願兵(満17歳から可能)として従軍した可能性もありますが、山奥の農家の青年が志願して戦争に行くかどうかというと多少の疑問も残ります。このあたりは今後さらに調査の必要があるかと思います。
睦雄の姉は大正3年(1914年)、睦雄は大正6年(1917年)生まれです。これは時系列等から考えて間違いないようです。
(9月3日追記)筑波本の記載が間違っていると思われる理由として、両親の年齢が離れすぎているということがあります。両親の生年月日が筑波本の通りとすると16歳差です。貝尾の被害者の年齢を見ても夫婦はおおよそ同年齢から5~6歳差くらいであり、一回り以上も違うというのは当時の農村では非常に珍しいことだったのではないかと思います。その点、墓石の行年が正しいとすると7歳差で、かなりな年の差夫婦ではあるものの、まだ許容範囲と思われます。
ただし、実は、次回とりあげる予定の祖父母の墓と両親の墓の間には女性名(単独名)の墓がありました。これが例えば父の先妻で、睦雄の母は先妻の死後に後添えとして結婚したということであればありえない話ではないとも言えます。
……ということを思いついたのはたった今で、この女性名の墓については撮影しなかったため、死去した年月日や年齢が確認できないのがもどかしいところです。また次回、現地に行く機会があれば是非確認してご報告したいと思います。
文庫版では、
父:大正7年12月1日死亡、享年39歳(p113)
母:大正8年4月29日死亡、享年24歳(p116)
となってますよ。
後から手直しが入ったにしても、やっぱりズレはありますね。
ご教示ありがとうございます。
文庫版の年齢は数え年とすれば合っています
が、行年や享年に普通は数え年は使わないので、それもどうかなあ、と思います。また、そもそもの話、お見合いでなおかつ一回り以上年の差がある夫婦というのは、双方が初婚の場合まずありえないだろうという内容を書き忘れたのを思い出しました。関連する話を含めて加筆させていただきましたので、ご確認ください。
すいません。勘違いしていました。享年は数えでカウントするのが正しいんですね。逆に覚えていました。上記コメントの該当部分を削除して訂正します。
初めまして(では多分ないがそういうことにしておきます)
同じ頃の流言を追っていたこともあって(休止中ですが今年中に再開予定)興味深く拝読しております。
さて、戦前を描いた小説やTVドラマ等の年齢の数え方(現代人が戦前を描いた場合と、戦前に書かれた作品を現代人が読んだ場合の両方)に違和感を持って、ブログでたびたびそういうものに突っ込みを入れているのですが、
>父は明治19年(1886年)頃、母は明治26年(1893年)頃の生まれとなります。
との記述が気になりました。これは誕生日が分からないと年齢が確定させられない満年齢の数え方になっていますが、2009年9月4日コメントの見解は本文にも適用するべきですから、この記述も修正しないといけません。
以下、恐らく不要だと思いますが念のためくどく説明してみます。
数えでは、正月に1つ年を取って、以後その年1年はずっと同じ年齢になります。生まれた時に「一つ」で、次に正月を迎えたときに(12月生で生後1ヶ月未満であっても、――何月に生まれようが前年に生まれていれば)「二つ」になります。誕生日は関係ありません。従って生年は「行年」から確定出来ます。
父:大正7年(1918)12月21日没 行年三十二才 = 明治20年(1887)生
母:大正8年(1919) 4月27日没 行年二十六才 = 明治27年(1894)生
「行年」が分かっている以上、生年が「頃」になることは(満年齢と違って)あり得ません。
【参考】管賀江留郎『戦前の少年犯罪』89頁「コラム5 数え年と満年齢」
余計なことかも知れませんが少しでも確実な数字を増やすべきと思い、念のため。