狭山事件: 両墓制について

「埋め墓」
「埋め墓」:詣り墓からは100~200mほど離れた、寺の裏手の墓地のはずれにある

「詣り墓」
「詣り墓」:「拝み墓」とも。寺の表側の墓地にある

前回エントリで再度調査・確認の必要があるとした、宅における「両墓制」の可能性について、改めて調査を行いました。参加者は、伊吹隼人氏と新井泉氏です(「狭山事件を推理する」サイト管理人氏は都合により不参加)。

結論から申し上げると、「両制」は宗派とは関係ない土着の習俗に近いものであり、真言宗智山派だからということはないこと、狭山市内で両墓制を行っていた区域は入間川沿いの一部の区域(被害者宅とは相当離れた地区)に限られることが改めて確認されました。従って、「狭山事件を推理する」サイトにおける被害者宅は両墓制ではなかったという議論は、現時点では妥当なものであることがほぼ再確認されたと言ってよいと思います。

今回お話しを伺ったのは、狭山市内にあって現在でも「両墓制」の墓地が残っている唯一のお寺である、明光寺のご住職です。ちなみに、ご住職は以前、もう一つの両墓制寺院であった長栄寺の住職を務めていらっしゃったこともあるそうです。

  • 両墓制が行われた区域等
    • 両墓制に関しては、宗派(明光寺は真言宗智山派)はあまり関係がない。土着・地域の習俗に近い。
    • 狭山市内で両墓制を行っていたのは、明光寺、長栄寺と柏原の一部。(この点は以前、「狭山事件を推理する」サイト管理人氏と新井泉氏が狭山市立博物館に取材した内容と合致する)
    • 柏原の両墓制は、寺に関係なく共同墓地の習俗として行われていたと聞いている。今どうなっているかはわからない。
    • 両墓制について、狭山事件の関係で弁護側の鑑定書を書いた上田氏などが何回か取材に来たことがある。
    • 両墓制の全国的な広がりについてはわからない。また、仏教的な根拠もわからない。
  • 「埋め墓」「詣り墓」の形式の変遷
    • 本来の両墓制: 人が死んだら埋め墓に遺体を埋葬し、目印として玉石を置く。野犬に掘り返されないようにハジキ棒を設置する。埋める場所については特に決まっていない。四十九日を機会に埋め墓の土の一部を詣り墓に移し、そこに墓石を建てる。以後は詣り墓だけに参詣し、埋め墓は省みられない。(起源は不明だが、江戸時代頃からの風習?)
    • 区割り: その後、いつのころからかは不明だが、掘ったときに人骨が出たり棺が出たりするとなにかと不都合なので、埋め墓の方も住職がいつ頃誰をどこに埋めたのかを把握するようになり、区割りして順番に埋めていくようになった。それに伴って、詣り墓にお詣りに来たついでに埋め墓の方にも焼香したり花を供える人が多くなった。
    • 現在: さらに進んで、埋め墓の方も家ごとに区割りされており、どこがどの家の埋め墓なのか決まっている。一部の家では既に埋め墓の形式をやめて、埋め墓の区域に墓石を建てて普通の埋葬形式にしている。
      埋め墓区域内に、墓石を建ててしまう家も(写真右奥)
      埋め墓区域内に墓石を建てる家も(写真右奥)
  • 両墓制が行われていた時期について
    • 昭和20年代までは普通に行われていた。
    • 昭和40年代になって火葬が一般的になったことに伴って、それまで両墓制を行っていた家も墓を造り直して一般的な火葬による埋葬・墓の形式に改めたところが多い。(管理人注: 私は現在日本では土葬が禁止されていると思っていましたが、信教の自由との関係もあって法律的には必ずしも禁止されていないようです。ただし、東京都など一部の地域では条例で火葬にしなくてはならないと定められています。狭山市がある埼玉県ではそのような土葬禁止条例はないようです)
    • 長栄寺では数年前に両墓制の埋め墓部分をさらい、出てきた骨を供養して一般的な墓の形式に改めた。したがって、狭山市内で現在も両墓制による墓地が残っているのはこの明光寺だけ。
    • 明光寺においても通常の墓にする家も多くなってきたので、今後2~3年で通常の墓地に改めたいと考えている。

今回実際に明光寺で初めて「埋め墓」を見て、「玉石」やハジキ棒から狭山事件被害者の遺体埋没の形式を両墓制に関連づけるのも理解できるなあ、と思いました。ただし、亀井トムが著書(『狭山事件 権力犯罪の構造』)の写真で紹介している、「墓石(拝み墓)の前の雑草が『埋め墓』でここに土葬する」というキャプションは完全に間違いです。「両墓制」というのは、上の明光寺の例にあるように、「埋め墓」と「詣り墓・拝み墓」が別の敷地にあるという墓制ですので。
『狭山事件 権力犯罪の構造』
『狭山事件 権力犯罪の構造』より、被害者家の墓地の古い写真。……そもそも玉石がないのに「埋め墓」じゃあ、被害者の埋没形式と何の関係もなくなっちゃうんじゃ?

以前にも書きましたが、普通の土葬でも棺を埋めた真上には墓石は置きません。時間が経って棺や遺体が腐ると、墓石の重みで落ち込んでしまうからです。つまり、上の写真で墓の前の草地に遺体を埋めるのであれば、それは単なる土葬であって両墓制ではありません。

事実関係が長くなりましたので、考察についてはまた改めて。

2 thoughts on “狭山事件: 両墓制について”

  1. 両墓制について現地取材の詳しい解説ありがとうございます。
    (また伊吹さんのお誕生会の実体験を伴う流行年代のコメント参考になります。ありがとうございました。)

    埋め墓から拝み墓に土を移す風習は、日本各地で見られた慰霊のために遺体や遺骨の一部を食することや洗骨の代理行為のようにも感じました。
    週刊新潮 の善枝さんのお墓はまだ墓石がないようですが、両墓制ではない場合でも土葬直後は埋め墓風に埋葬し、後日49日など節目に墓石も立てる、ということでしょうか?
    http://flowmanagement.jp/sayama-old/shuukanshincho-63-5-27-1.jpg

    昭和52年に亡くなった次兄さんも埋葬当初は土葬風に見えますが、これも、後日節目に墓石を立てると風習からでしょうか?
    http://flowmanagement.jp/sayama-old/shuukanshincho-77-10-20-1.jpg

    以下は全て余談ですので予めお詫びいたします。
       いくつかの葬送儀礼の本を読んだところ、埋め墓から拝み墓に土を移す風習は、日本各地で見られた慰霊のために遺体や遺骨の一部を食することや洗骨の代理行為の現代バージョンのようにも感じました。もともと火葬は残虐な行為とされていた時代があり衛生面とは別に、ある高僧が自から望んで火葬になった逸話から信仰としての火葬も人気になったようです。また東京が東京市だった頃には煙対策などで火葬禁止令が出されたことがあるそうです。

      Y枝さんのご両親の誕生年前後からY枝さんの生きた年代の習俗を知るためにこんな本をよんでみました。
    仮に遺体埋設に葬送儀礼や宗教的な意味での辱めを想定できるかな?と思う記述が「タブーに挑む民俗学―中山太郎土俗学エッセイ集成」み見られました。
    http://book.akahoshitakuya.com/b/4309224628

    戦後のどさくさ武勇伝をエッセイ度紹介した「新忘られた日本人」、では米軍基地、残飯、豚屋、などのキーワードも出てきます。
    http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/86d9beb17177dbbdf2b58424fc4ca250

    昔の農村の婚姻史に関する本を見ますと養蚕の神様(荒神様)に絹がたくさんと取れることを祈願して養蚕小屋で包摂し合う、という信仰も昭和になってからも残っていたようです。

    うどんの記述もあります。「民俗の原風景―埼玉 イエのまつり・ムラの祭り」
    http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4021000607/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392

    埼玉県の民俗学から狭山事件に行き着いたので自分は極端だとは認識していますが、一方でお母さん嫁入り時から事件発生ころまでを現在とは異なる習俗、信仰にもほんのちょっとは事件を読み解くヒントが本の少しはあるかもしれない、とも思って(妄想)おります。

    只今ニュースになっている 岐阜の女性営業課長さんが殺された事件でも、拉致現場に多数目撃者がいたのに行方不明から三ヶ月誰も通報しなかった(輪中精神とか言うそうです)と似たことが1963年の狭山ではあったと思います。それでも、私も古いものの中に、いつまでもいいところがあると信じたいのですが。
       取り留めもない書き込みで貴重なHPを汚してしまい申し訳ありませんでした。

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