狭山事件: 被害者の足取りと野球の試合

東京新聞 昭和38年6月1日付朝刊東京新聞 昭和38年6月1日付朝刊

事件当日(昭和38年5月1日)のの足取りについてはいくつかの証言があります。詳しくは狭山事件を推理するのサイトの方にわかりやすくまとめられていますので、そちらをご参照下さい。ここでは、これまであまり採り上げられてこなかった証言をご紹介します。

本日の画像は昭和38年6月1日付東京新聞朝刊です。この記事によると、堀兼中学3年生の2人が被害者は3時40分頃に野球の試合を見ていたという証言をしていたとのこと。この証言自体は他の新聞でも採り上げられて居らず、また、その後フォローの記事もないため、例によって勘違いという可能性もあります。

ただ、同級生の証言から被害者が学校を出た時刻が3時23分であることはほぼ間違いないと思われ、入間川中に3時40分にいたというのは妙にリアリティを感じます。また、堀兼中3年生ということは、同級生のくんが事件直後にS自転車店前で被害者を見たと名乗り出て、時間の問題から刑札に「見間違えじゃないか」と責められて泣きながら証言を撤回した経緯を知っているはずで、よほど自信がない限りこのような証言はしないでしょう。しかも2人が揃って証言したとすれば、かなり信憑性はあると思います。また、刑札の方もOTくんの経緯もあって子供の証言はハナから相手にしていなかった、あるいは、既に石川さんを逮捕した後で、刑札として石川さんを犯人にするのに都合が悪い証言は無視するモードに入っていたという可能性もあります。

ほかに、記事には下記のようなことが書かれています。

  1. 野球の試合は入間川中で行われた。
  2. 当日は、狭山東中と同西中が決勝戦をやっていた。
  3. 試合(決勝戦)は午後3時40分に終わった。

上記の2.は、「堀兼中は既に敗退しており、試合が(もともと)なかった」という『Vの悲劇』における甲斐説の根拠になっているのではないかと思われます。ただし、堀兼中は決勝戦には出なくても3位決定戦あるいは練習試合が予定されていた可能性は否定できません。そういう試合があったとすると、3.と合わせて、「試合は4時からだった」という殿岡駿星氏の独自取材の結果が信憑性を帯びてきます。狭山事件を推理するサイトでも、「4時試合開始というのは義務教育の現場の感覚としては遅すぎる」という指摘がありましたが、当日、決勝戦と練習試合の2試合があったと考えると4時スタートにも説明がつくことになります。

試合が2試合予定されていた(が、決勝戦だけが行われて堀兼中の練習試合の方は雨で中止になった)とすると、OTくんの「試合を見るために入間川中に行く途中で被害者を見た。入間川中に着いたのは2時30分だった」という証言についても、それは決勝戦を見に行ったものであり、が引率していたのは練習試合に出る下級生だったとすると一応の説明はつきます。ただし、そうなると時間的に合わないということにもなってしまうわけですが。

13 thoughts on “狭山事件: 被害者の足取りと野球の試合”

  1. 最近、こちらのサイトを知り大変興味深く読ませていただいております。
    「狭山事件って何?」と言う初めての人でも解かりやすくとっつきやすい内容でありがたいです。

    ところで当日の野球の試合についてですが
    >堀兼中は決勝戦には出なくても3位決定戦あるいは練習試合が予定されていた可能性は否定でき ません。~~ 当日、決勝戦と練習試合の2試合があったと考えると4時スタートにも説明がつくことになります。 とありますが

    メインイベントである決勝戦の終わったあとに3位決定戦や練習試合って、おかしくないですか?
    もちろん何事にも例外はありますから、可能性そのものは否定しませんが常識で考えれば3位決定戦や練習試合が先に行われるのがフツーですよね?
    もう少し言えば各中学(何校くらい出場したのか?)がおそらくトーナメント形式で戦い、勝ち残った最後の試合が決勝戦ですよね?一番盛り上がるであろう決勝戦の前に練習試合って、しますかねフツー?私見ですがもしあれば3位決定戦ですよね(オリンピックもそうですよね)それしかないと思っています。
    >堀兼中は既に敗退しており、試合が(もともと)なかった
    私も被害者は決勝戦を見に行ってたのではないかと思うので、試合そのものがあったかどうかは疑わしく思っています。すると時間と証言が合わなくなってきます。整合性をつけるために多少のコジツケにも目をつむってしまいます。これがこの事件の本質を見えにくくしている元凶なんじゃないか?と最近思っています。(もちろん私自身のことです)
    この件で言えばA先生と引率していた生徒は試合をするためではなく、今後のためにと決勝戦を見るために通ったのかもしれません。目撃した時間は勘違いをしているかもしれません。
    そもそも目撃したのは5月1日当日だったのかどうか(疑い出したらキリがありませんが・・・)

    *野球の試合しかも決勝戦という公式の行事(?)でありながら、何試合行われたのか?何時に始まり何時に終わったのか?何校参加したのか?とかが後に検証できない(されない)というのは非常に不可解であります。学校関係者に聞いても分かんなかったのかな?

  2. あの日に関して、野球部員はなぜ沈黙しているのか?プロファイリング2でコメントしました。
    ケース1は、野球の試合もあったし、相手校も覚えている。ただし、先生は見たと行ってるが、彼らのなかでY枝さんを見た者はいなかった。ケース2は、あの場所で彼らは、確かにY枝さんを見た。ただし、野球の試合はなかった。相手校は最初からない。先生と一緒に見学に行っただけだった。
    ケース3は、試合にも見学にも行ってない。先生と一緒に行った者は、誰ひとりいなかった。したがってY枝さんを見た者は誰もいない。
    それじゃ先生は?というと、ひとりで行った。ひとりで自転車にのり、第二ガードで東口側にたたずむY枝さんを見た。彼らの沈黙の理由はこのうちのどれかだと思われる。いずれも先生の証言とは矛盾する。私は3ではないか、と思っている。先生がひとりだったなら、先生以外に、彼女の目撃者がいるはずがないのだ。47年経っても、あの場所で彼女を見たという者が、先生以外に誰もいないというのは、彼は、誰も引率していなかった。ひとりだったといいうことを、示しているんじゃないか。
    あの日
    僕ら野球部員は
    試合にも見学にも
    行かなかった。
    したがって彼女に
    会った者は誰もいない。
    会ったのは先生だけでした。

  3. この件については非常に謎が多いため、私も現在再調査に乗り出しています。
    なお詳細は略しますが、現時点において私は、

    ・5月1日、堀兼中の試合は無かった
    ・A先生は1人、もしくはごく少人数の生徒たちと東中に向かう途中で被害者に会った

    と考えています。
    当時の野球部員たちの証言により、何らかの新事実が判明しましたら、また改めてここ
    に記させて頂きます。

  4. 東中、西中以外の学校の教員、ということしか分かっていません。もちろん、主審=A先生だったことも考えられるかと思います。

  5. 伊吹様 大変遅くなりましたが、 審判情報をありがとうございます。
    エイ先生が決勝戦の審判だった可能性もあるかも、 とありました。

    ところでそれを思案する前に、 時間を遡ることH中の授業終了時刻と昼食の関係を見たいと思います。 事件が発生していなければ特に注目される事がなかったひとコマです。

    ●授業終了時刻
    1、2時35分
    2、昼すぎ
    以上、2パターン。

    ●昼食
    a、給食を食べた
    b、下校し家で食べた
    c、給食後一旦下校した
    以上、3パターン。

    事実が『謎』に包まれているので諸説の詳細は敢えてざっくりと省きましたが、 上をまとめるとこんな感じでしょうか?

    、1…→東中へ
    、2…a…→東中へ
    、2…b…→東中へ
    、2…c…→東中へ
    何れもH中から出発です。
    この〜の内、だけが給食無しですね?

    もしも試合時間に追われていたなら、 給食無しの日でも弁当持参で対応する手もあったでしょうから、 給食無しの上に一旦下校となれば、 かなり時間に余裕があったと考えて良いのかと思います。 そうは言っても集合時間によって自宅が遠い部員は移動を急かされる羽目になります。 親の立場になれば例えば、 自分たちの留守中にちゃんと食べて行ったろうかと、 気を揉んだ昼時だったかも知れません。

    このような事から、 給食無しのだったならば、 学校の先生だけでなく、 部員やその親に強く印象を残し相当な数の証言が出てきても良さそうです。 開示されていないだけなのかなんなのか、 現在は正反対の「給食があった」ことが主軸になって検討されているようですが、 給食無しはなんだったのか、 大変気になっています。

    気になる違和感を残しつつもこれを踏まえて次に、 「4試合」「三位決定戦」「練習試合」 を絡めて考えます。

  6. 文字が飛んでますので補足します〜。

    纏めるとこんな感じで羅列した頭に、 まるいち、 まるに、 まるさん、 まるよんがありました。

    その内、 まるさんを給食が無いとして検討していますので、 適宜当てはめて下さい。 読みづらくしてしまいごめんなさい。

  7. H中の授業終了時刻と昼食に関しては証言がまちまちで、未だはっきりしたことは分かっていません。

    ただ「授業終了時刻」は現時点において、

    2、昼すぎ

    ということで「確定」としてよいと思います(安田先生、当時の野球部員らの証言も全員一致)。

    問題は「昼食」の方です。

    a、給食を食べた
    b、下校し家で食べた
    c、給食後一旦下校した

    今のところ当時のOT君の証言などから、ほぼ「a」と考えられるのですが、「b」と証言している人もいます(私も昭和40年代半ば過ぎに、現場からさほど離れていない中学校に通っていましたが、土曜含めて午前中授業の時は一切給食が出なかったのを記憶しています。もっとも、この日運動部員は皆午後に試合を行う予定だったのですから、少し状況が違うかもしれませんが・・)。また、OT君含めて判明しているだけでも4名の野球部員はなぜか皆、「c」のように一旦帰宅してしまっています。
    そこから考えると、この日堀兼中野球部は試合が無く、「決勝戦を自由見学」するということになっていて、相澤先生が「一緒に行く者は、給食後○○時に集合」といったことだけを部員たちに告げていた可能性が最も高いように思うのですが、果たしてどうでしょうか?

  8. さまざまな方のご意見もお伺いしてみたいので、ここで野球試合の件についてざっとまとめてみました。

    [確定事項]
    ・当日は「学徒総合体育大会」が行われ、堀兼中もこれに参加していた。
    ・授業は午前中のみで、昼食のあと、各運動部がそれぞれ試合会場となる学校へ出かけていた。
    ・運動部に所属していない生徒は自由に応援に行ってよいことになっていた。
    ・相澤先生は午後、東中に出掛けている(東中では生徒たちと一緒にいた)。
    ・東中では決勝戦(7回の試合)の「東中対西中」が行われ、西中が優勝。
    ・相澤メモによれば、東中では4時から「閉会式」「表彰式」などが行われていた可能性が高い。
     相澤先生もおそらくこれに参加。
    ・野球部員のOT君は東中に向かう途中、被害者とすれ違っている(時間は2時50分~3時の間 とみられる=※被害者の下校後の足取りから考えれば「2時50分過ぎ」か「3時50分過ぎ」 しか有り得ないが、「3時50分過ぎ」では雨との関連で決勝戦が成立しなくなってしまう)。
    ・OT君が東中に着いた時は決勝戦が3回を回ったところだった。
    ・ほか野球部の3名(少なくても)の生徒も遅れて東中に向かっている。
    ・その日の天候は「曇り時々小雨」。4時20分からは本降りになっている。
    ・相澤先生は堀兼中に戻り、生徒たちの下校を確かめて午後5時過ぎに帰宅している。
    ・被害者の最終下刻時間は3時23分。その後郵便局に寄り、東中で野球試合を僅かに観戦した  後、第1ガードに向かっている。

    [未確定事項と疑問点]
    ・その日給食はあったのか?
    ・堀兼中野球部に試合予定はあったのか?
    ・東中で行われたのは決勝戦だけだったのか、ほかにもう1試合組まれていたのか?
    ・ほかに試合があったとすれば、その対戦カードは?(※当然、これは東中・西中以外の中学同士 の対戦となる)
    ・第1試合の開始時刻は?(大まかには「1時」「1時半」「2時」「2時半」説あり)
    ・決勝戦の開始時刻は?(大まかには「1時」「1時半」「2時」「2時半」「4時」説あり。※ ただし、「4時開始」では4時20分から豪雨になっているため、「7回終わって西中優勝」の 事実と整合しない)
    ・決勝戦の終了時刻は?(大まかには「2時半」「3時」「3時半~40分」説あり)
    ・相澤先生は第2ガードで被害者と本当に会っているのか? 会っているとするならその時刻は?
    ・相澤先生が被害者と会っていたとすれば、それは1人の時だったのか、野球部員と一緒の時だっ たのか?
    ・相澤先生はなぜ「第2ガードでの出会い」について、翌日増田秀雄や警察に話さなかったのか?

    上記いずれも無理なく説明できるような仮説が立てられると良いのですが・・・。

  9. まだ調査途中ではありますが、一応ここで現段階における私の推理を述べさせて頂きたいと思います。

    「被害者の足取りと野球試合」については、証言もバラバラで、そのすべてを矛盾なく説明することは不可能です。ただ、その中でも下記の証言等はとりあえず正確なものと判断して良いかと思います。

    • 被害者の通う入間川分校の授業終了は2時35分(分校記録)。
    • 天気は曇り時々小雨、4時20分から豪雨(観測所記録)
    • 同級生Nさんの証言「時計を見たら3時23分で、その頃に被害者のY枝さんが『さようなら』 と言って教室を出て行った(その後Y枝さんは→郵便局→毛糸店?→東中→第1ガードと移動)。
    • 野球部員OT君証言「東中に決勝戦を観に行く途中、沢の道でY枝さんとすれ違った。東中に着いた時は決勝戦が3回を回ったところだった」(時間に関しては不明。最終的には「2時から3時の間」と証言)
    • 主婦Nさんの証言「第1ガード下で誰かを待っている様子のY枝さんを見た」(時間は不明ながら、Y枝さんの直前までの行動から3時45分頃とみられている)

    これらを軸にして考えると、まずOT君がY枝さんとすれ違ったのは「2時50分~3時頃」、もしくは「3時50分以降」ということになります(分校から沢まで移動に約15分、第一ガード~沢まで移動には5分以上かかるため)。しかし、「3時50分以降」とすると、この日の決勝戦は「7回まで行われ、西中が優勝」しているのですから、「着いた時は決勝戦が3回を回ったところだった」という証言と「4時20分から豪雨」という事実が整合しなくなります。ですから、そうなるとやはりY枝さんは「一度学校を出て沢方面まで行き、その後分校に戻って再度3時23分に下校した」とみるほかないことになります。

    決勝戦が行われていた時刻は、OT君証言や、堀兼中生徒2名による「3時40分に終了」「Y枝さんもそれを観ていた」との証言からも2時半頃(開始)~3時40分(終了)とみるのが妥当でしょう。また、この日は中学の授業が午前中のみであったことから考えれば、やはり「第1試合」(堀兼中が出場しない試合=入間中対奥富分教場?=3位決定戦?)があり、1時15分頃~2時半前の時間帯で行われていた可能性が高いと思います。

    また、問題の「A先生証言」(「野球部員を連れて東中に行く途中で、Y枝さんと『第二ガード』で出会った」というもの)ですが、その内容が具体的かつリアルであることからみても、やはり出会ったこと自体は本当の話だったのだと思います。なお、もし事実とすれば、時刻についてはOT君とY枝さんが出会う直前以外ありえず(「3時50分以降」では決勝戦=大会が終了してしまっているため)、それは自ずと「2時45~50分頃」に限定されることになります。

    ただし、やはり証言の一部には嘘が含まれている(「野球部員と一緒だった・・」などの部分)と考えるほかありません。実際どうであったかは不明ですが、一つこんな仮説も立てられるかと思います。

    「A先生は1時頃に数名の部員を連れて東中に行き、第1試合を途中まで観戦して、一旦単独で中学に帰校(理由は分かりませんが)。その後再び決勝戦観戦・閉会式参加のため、1人で東中に向かう途中、『第二ガード』で被害者に出会った」

    そして、その際にY枝さんの口から「これからM君(PTA会長の息子=野球部OB=Y枝さん片思いの相手)たちと会うことになってるんです」などの言葉が出たため、翌日PTA会長には何も話せず、さらには野球部員たちに疑いの目が向かないよう、アリバイ証明をするような嘘までついてしまった・・・といったことも考えられるのではないかと思います。

    なお、もちろん上記は「絶対」ということではありません。私はまだ今後も元野球部員の方々への取材は続けて行くつもりですし、同時にここをご覧になっているさまざまな方のご意見なども是非伺ってみたいと思っています。私もまたその結果如何では、推理を随時変更して行く考えです。

  10. 伊吹様

    以前、「いつも興味深く拝読させていただいております」のHNでコメントを入れさせていただいた者です。
    (HNが長すぎるかと思い、変更しました)

    野球の試合ですが、中学生の軟式の場合、9回制ではなく7回制です。これは事件のあった昭和30年代当時も同様だったと思われます。
    一試合の所要時間は平均で80~90分程度といったところでしょうか。事件当時は、もう少し短かったかもしれません。なお、現在の大会では、一試合の所要時間を2時間としてスケジュールを組むのが通例のようです。
    (試合前の練習やグラウンド整備も考慮し、第一試合が9時開始であれば、第二試合は11時開始、といった具合に)

    それらの事情を考慮すると、次のようなスケジュールがもっとも自然に思われます。

    「第一試合(三位決定戦、または練習試合)は13時に始まり、14時すぎ(または14時30分の少し前)に終了した」
    「第二試合(決勝戦?)は14時30分に始まり、15時40分に終了した」

    第一試合ですが、「総合体育大会」当日に「練習試合」を行なうのは、少々理解しづらいところです。これはやはり、三位決定戦だったのではないでしょうか? また、「当日の授業が午前中のみ」だった場合、「決勝戦が4時(16時)から行なわれる」というのも、考えにくいところです。

    どちらも、「絶対にあり得ない」とはいえませんが……わたし自身も学生時代は野球部員で、(時代と地域は異なりますが)同様の大会に出場したことがあります。「授業は午前中のみ」という状況もまったく同じでした。その経験でいえば、「メインイベント?である決勝戦が16時開始」というのは、選手にとっても応援する生徒にとっても、(さらに引率する先生にとっても)正直、受け入れにくいものがあります。

    以上、大会主催者になったつもりで(事件の経過や関係者の証言等は考慮しないで)スケジュールを考えてみたのですが、いかがでしょう? もちろん、あくまでも推測ではありますが。ご検討いただければ、幸いです。

  11. さぶろう 様

    中学野球試合につきまして色々とご教示頂き、誠にありがとうございました。
    (コメントがちょっと行き違いになってしまったようですが・・・)

    >野球の試合ですが、中学生の軟式の場合、9回制ではなく7回制です。これは事件のあった昭和30年代当時も同様だったと思われます。

    これは私の方でも確認済みです。中学軟式野球試合は、事件当時も現在も全て7回制で行われています。「成長期、発育途上にある生徒に過度の負担を掛けるのは好ましくない」との理由によるもので、昔から公式・非公式を問わず、中学野球は全国これで行うのが決まりとなっているようです。

    >一試合の所要時間は平均で80~90分程度といったところでしょうか。

    これも当時の堀兼中野球部員、現在の野球部員の方々に伺って確認済みです。その方たちの話によると、だいたい1試合の所要時間は「70~90分」とのことでした。なお、当時の野球部員の方に「2試合予定で1時過ぎ開始、3時40分終了」というスケジュールを見せたところ、「ちょっと忙しい感じだけど、やれないことはない。すぐ続けてやったらそんなもんかもしれない」と話していました。今は確かに、一試合の所要時間を2時間としてスケジュールを組むのが通例のようですね。それらの証言などから、前回記した通り、私も現在は「第1試合:13時過ぎ~14時30分の少し前」「第2試合:14時30分~15時40分」で試合が行われたと考えています。

    >第1試合ですが、「総合体育大会」当日に「練習試合」を行なうのは、少々理解しづらいところです。これはやはり、3位決定戦だったのではないでしょうか?

    私も「練習試合」については否定的です。これに関しては現在、「第1試合=3位決定戦=入間中対奥富分教場」だったと推測しています。

    >「決勝戦が4時(16時)から行なわれる」というのも、考えにくいところです。

    これもありえないと思います。ちなみに、当時の堀兼中野球部員の方に伺ったところ、4時どころか「3時半開始」(A先生証言)さえ、「そんな時間に始まる試合なんて、普通ないと思うよ」とはっきり否定していました。A先生のメモにあった「東中・4時」はおそらく「1試合約2時間」と考えた上での、「閉会式・表彰式」等の予定時刻だったのだと思います。

  12. ちょっと事件当日の試合からは外れますが、この年の5月中下旬に開催された県大会について書き込ませて頂きます。

    新聞に掲載されていた試合結果を見たところ、中学野球出場校の中に、狭山市立○○中の名を見ることはできませんでした。どうやら、県内の東西南北の地区から選出された(であろう)4校が、各々4ブロックに配され、全16校で対戦した模様です。当時の郡市の名称は、現在までに色々に変遷をしているものの、東西南北の地区から4校ずつというのは間違いないと思います。

    ということはどういう事かというと、当時の狭山市内の5校で対戦し、その結果優勝したとしても、県大会の切符は手に入らなかったということです。

    5月1日の試合は未だ詳細不明ですが、少し身を引いて当時の様子を再検討したいと思います。

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