狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その3

2010 年 3 月 16 日

前回のエントリに伊吹さんからいただいたコメントを読んで、一つ重要なことを書き忘れたことに気がつきました。

4月29日の日記でもう一つ、「今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに」も気にかかっています。

  • 当時の狭山工業高校は男子校だったようで、女子高生である被害者が何のために誰を訪れる予定だったのか
  • この呼び出し/待ち合わせはどうやって伝えられたのか
  • そもそもこの伏せ字になっている「××××」は何(あるいは誰)なのか
  • 刑札はこの「予定」について裏付け捜査をしたのか。したのであれば記録は残っていないのか

などなど、疑問は尽きないところで、情報が少なすぎて推理すらできません。

当初「狭山工業高校の××××」に行く予定だったのが学校行事で行けなくなったとすると、被害者の方から「ごめんなさい、行けなくなりました」という連絡をしたと思われ、その際に「じゃあ、5月1日に待ち合わせて…」という話になった可能性もあります。しかし、そうなると(しつこいようですが)なぜ5月1日の待ち合わせを日記に書いていないのかという疑問が残ります。

伊吹さんのご指摘のように事件前日の4月30日分が公開されていないことを含めて、前後の日記に何かしら事件と関係ある記述があったのではないかという気がします。一刻も早い全面的な開示を望みます。

狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その2

2010 年 3 月 14 日

前回の続きです。

第一ガード・第二ガードにおいて目撃された際の状況から考えて、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことはほぼ確実と思います。しかし、当時の女子高生が全然関係ない人に呼び出されてそれに応ずることはまずないとも思います。また、前回も書きましたが(新伊吹本でも指摘されていますが)、当時はケータイも出会い系もありません。知人に事前に呼び出されていたとすると、考えられる可能性は下記の通りになります。

  1. 家族: 前回書いた長兄説など。(以下3月16日追記)コメントで伊吹氏からご指摘をいただいているように、この可能性は低いと私(管理人)も考えます。あくまで可能性ということで列記しています
  2. 学校: 川越高校入間川分校別科のクラスメイト16人(1クラスのみ)は全員女子であり、しかも4月に入学したばかりでまだ数週間しかたっていない状況でした。その中で誰かが被害者とそのような待ち合わせの話をしていれば、何かの形で他の生徒にも伝わると思われるため、この可能性は低いと思います
  3. 登下校(通学路): 新伊吹本にあるように、被害者は朝、近所の高校生(中学時代の同級生)と一緒に登校することがあったとのことです。そのメンバーの誰かであれば、待ち合わせを伝えることは可能という伊吹氏の指摘に同意します
  4. 出身中学関係: 被害者は出身中学に時々遊びに行くことがあったようです。その際に昔の同級生と会って伝言されることが考えられます
  5. 学校行事関係: 日記を見ると、事件の直前の4月29日(月曜日、天皇誕生日(当時))にも被害者は学校行事に参加して群馬へ行っています。その際に待ち合わせについて話をした可能性はあると思います

上の5.について、4月29日の日記には以下のような内容があります。

4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。

(大きく間が空いて)

今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。

川越から伊勢崎まで約60km、関越自動車道(1971年開通)がない当時の道路事情では、バスで片道2時間程度でしょうか。そのバスの中で、他校に行った中学時代の同級生と会って「誕生日にお祝いをしよう」と誘われて呼び出された可能性があるのではないか、と個人的に思っています。

その一番の理由は、5月1日の日記に待ち合わせが書かれていないからです。以前にも書いたように、被害者は日記の左の方にあらかじめその日の予定を書き込んでおいて、当日が終わってから本来の意味での日記を右の方から書いていたと私は考えています。つまり、予定を書き込む時点で待ち合わせの話があったのであれば日記に書かれているはずで、ある程度直前になって予定を伝えられたのではないかと思います。もちろん、当日(5月1日)あるいは前日(4月30日)の登下校の際に伝言されたということもありうるでしょうが、事件の2日前の4月29日に、同年代の高校生と同じバスで往復4時間も揺られていたというのはタイミングが良すぎるような気がします。
家族に見られることをおそれて待ち合わせを書かなかったという推理もできるかもしれません。しかし、被害者はMHくんに対する熱烈な恋心も日記に包み隠さずに書いていますので、待ち合わせだけ書かないということはないと思います。

交歓会に参加した埼玉県側の200人の生徒のうち、「メッセンジャー」役が務まる人物-被害者の中学時代の同級生で、犯人グループともつながりがある生徒-はいなかったのでしょうか。

その他: 東京都青少年健全育成条例の審議における前田雅英氏の捏造発言

2010 年 3 月 13 日

保坂展人さんのブログで、東京都青少年健全育成条例を審議した部会の部会長である首都大学東京の前田雅英教授が、保坂氏の国会委員会における対話を捏造してまで創作物規制論を進めたことが書かれています。

さもありなんというか、児ポ法を含めて創作物の単純所持規制を推進している人たちの人格や品性がよく現れている話だと思います。今回は国会委員会の議事録が残っていたので簡単に検証ができ、捏造であることが明らかになりましたが、これが記録に残らない話であれば「保坂氏が児童ポルノを推進しようとしてアグネス・チャン氏に論戦で圧敗した」という前田雅英氏の捏造が一人歩きして、保坂氏の人格や能力を貶める結果になったものと思われます。

前田教授をはじめとする規制推進派の人たちは、目的のためなら証言や証拠を平気で捏造することが実証されたと思います。青少年条例や児ポ法が成立したら、この調子でガンガン証拠が捏造され、冤罪が生み出されていくことでしょう。

冤罪事件における証拠捏造がいかに簡単に、一般的に行われているかについては以前のエントリで書きましたので、そちらをご参照ください。

狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて

2010 年 3 月 6 日

新・伊吹本を読みました。

旧版と比べてかなり加筆がされています。ページ数も213ページから271ページへ、27%アップしています。ただし、文字組が変わっていますので、文章量としてはそこまで増えていない感じです。感覚的には15~20%くらいの増量かな?

大きな加筆部分は下記の通りです。

  • 被害者の日記
  • 被害者の呼び出し
  • インタビュー
    • 安田先生(2回目)
    • 死体の第一発見者2人(1人は本人、1人は奥様): どうして「第一発見者」が2人いるのかについてはこちらこちらを参照してください
    • その他、近所の住民数人

特に大きなトピックとして、「本物の」第一発見者のインタビューがあります。場合によっては石川一雄さんの裁判にも影響があるかもしれない内容です。ここで内容について詳しく書くのは差し控えますので、興味がある方は直接本をご参照下さい。

もう一つのトピックは、被害者の呼び出しについてです。犯人が被害者にどうやって最初の待ち合わせを伝えたかについては、これまでの推理本ではあまり重視されていませんでした。長兄犯人説が主流であったため、家で直接話をすれば済む、という考えだったこともあるかと思います。また、刑札・検察は石川さんの通りすがりの犯行というシナリオを書いてしまったため、そもそも待ち合わせを想定していません。
しかし、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことは各種の証言からほぼ間違いないと思われ、その上で外部に犯人がいるという立場に立つと、犯人(あるいは犯人グループ)がどうやって被害者に待ち合わせの日時を伝えたのかというのはかなり大きな問題になります。

昭和38年当時、当然ですがケータイなどというものはありませんし、インターネットの掲示板もケータイメールも、もちろん出会い系もありません。自宅に有線電話はありましたが、そこへ電話して被害者自身が出るとは限りません。被害者に限らず女子高生は暗くなる前に家に帰るのが当たり前(というより当時、途中の道には街灯もなく、暗くなると大げさでなく家に帰れないような場所でした……このあたりは新伊吹本の安田先生のインタビューを読むとよくわかります)でした。そうなると、家の外で待ち合わせの計画を伝えられる場所と機会は自ずと限られてきます。

すいません。この先を書き始めたら思ったより長くなりそうなので、日を改めてまとめさせていただきたいと思います。
一つだけ書いておくと、私の推理は伊吹氏とは多少(それほど大幅にではありませんが)異なります。

その他: サーバ一時停止

2010 年 3 月 1 日

サーバの契約更新メールに気付かずに放置してしまい、本日一時的に本サイトが見られない状況となっていました。

ドメインも一時廃止になっていたため、DNSの関係でしばらく接続不調になるかもしれません。お詫びいたします。

狭山事件: 伊吹本改訂版発刊

2010 年 2 月 21 日

伊吹隼人氏の改訂版『検証・狭山事件―女子高生誘拐殺人の現場と証言』が発刊されたとのことです。

まだ私も内容を確認していませんが、伊吹氏から伺った限りでは新証言を含むかなり大幅な改訂がされているとのことであり、狭山事件に興味がある方は是非ともご購読ください。

津山事件: 都井睦雄が自殺した場所 その2

2010 年 2 月 20 日

前回エントリで書いた場所が睦雄が自殺した場所ということでほぼ確定だと思うのですが、一つだけ気になることがあります。コメントの方に書かせていただいた、事件の翌年の5月に岡山地検の中垣検事が現地を訪問したレポートには、実は続きがあります。

麓で教わった場所も来てみると頗る漠然としていた。数尺、積み重なった杉の病葉を踏みしめ、灌木の繁みを分けて、それらしき処へ出て見た。そこからは貝尾の部落は一望の下にあった。遥かに西加茂小学校も俯瞰し得る。犯人の生地加茂町倉見も見えるとのことだが、わたしたちにはよくわからなかった。

IMG_1979-1仙ノ城山頂からの眺め(拡大)

ところが、上の写真で「山頂」から見える2つの学校は加茂小学校と加茂中学校で、旧加茂西小学校(現在のウッディハウス加茂の場所)は山の向こう側になって見えません。

なお、1975年(昭和50年)に加茂小学校と統合された加茂西小学校が現在のウッディハウス加茂の位置にあったことまでは、加茂小学校に直接問い合わせて確認しましたので確実です。昭和13年の西加茂尋常高等小学校が統合直前の加茂西小学校と同じ位置だったかどうかについては現在のところ確認する方法がなく未確定ですが、常識的に考えるとおそらくは同じ位置であろうと思います。

kamochuushinbumap国土地理院2万5千分の1地図: 昭和51年発行

上の地図は、発行は昭和51年ですが現地調査は昭和48年とのことで、昭和50年に統合・廃校になった小学校が地図上に残っています。「山頂」からの写真と見比べてみていただけるとわかるように、加茂西小学校は手前の山のちょうど向こう側になって「山頂」からは見えないことになります。

上の地図でわかるように、昭和40年代まで加茂の中心部にはやたらとたくさん学校がありました。そのあたりの経緯はこちらのページに詳しく説明されています。ただし、その記述によると戦前の加茂小学校はいったん廃校になって中学校になったようなのですが、現在の加茂中学校は旧東加茂村地域にあり、どうもその辺がよくわかりません。ちなみに、現在の福祉センターや郷土歴史資料館があるあたりには(新制)高校もありました。おそらく昭和29年に加茂高校として設立され、津山東高校加茂分校に再編後昭和60年に廃止(津山東高校へ統合)されています。

話を元に戻すと、一番ありそうなのは加茂小学校を西加茂小学校と見間違えたということです。中垣検事が加茂を訪れたのはこのときが初めてのようですので、この山間の町にこんなにたくさん学校があるとは思わなかったのでしょう。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 70年目の新証言 その2

2010 年 2 月 18 日

以前ちらっと書いた週刊朝日2008年5月23日号の「実録 津山30人殺し 『八つ墓村』事件70年目の新証言」についてのことだと思いますが、コメントでご質問をいただいたので検証してみます。

質問なのですが「津山事件報告書」には、犯行当日の夜に貝尾部落のお堂で
睦男と村人たちが宴会をした模様は書かれていますでしょうか
こんどお暇の時にでもご回答をお願いいたします。

結論から言うと、『津山事件報告書』には当日の夜睦雄と村人が宴会をしたという記述はありません。記事を書いた小宮山明希記者の勘違いか捏造かのいずれかであろうと思います。

まず、週刊朝日の当該の記述を確認しましょう。
shuukanasahi-080523週刊朝日2008年5月23日号より
これを見てわかるように、

その後、都井は自宅の裏手のお堂で、村の若者ら6、7人とともに宴会に参加していたという。宴会が終了したのは深夜0時頃。惨劇はその約1時間後に起きた-。

この記述はおじいさんの発言ではなく地の文として書かれています。「宴会に参加していたという」のソースは示されていません。

他方で、上述の通り『津山事件報告書』にはそのような宴会があったという話も、睦雄が参加していたという話も書かれていません。さらに、これまで70年間、筑波本や清張本をはじめ、誰一人としてそのような宴会があったという話をしていないことから考えても、宴会の存在はほぼ「ありえない」と否定してよいと思います。

もう一つ、宴会がなかったであろう証拠を。
事件の年の8月に近くの寺(真福寺)で合同慰霊会が開催され、その際に津山警察署長や西加茂村長、さらに村人たちが参加して「座談会」が開かれました。一部は筑波本(『津山三十人殺し』)にも引用されていますが、筑波本で省略されている発言に以下の内容があります。
houkokusho-seinenkaijpg『津山事件報告書』より

署長 当地には結核患者を故らに嫌う風習がありますか

寺井勝 左様なことはありません

署長 犯人の遺書には部落の人が結核に対する理解がない様に書かれて居りましたね

寺井勲 近所の者は皆結核と思うて居なかったのに都井は自分から結核であると言うて居ったのです

寺井勝 私は本人に対し君は勉強が過ぎて神経衰弱になって居るので結核ではないと云うてやって居りました、年末の夜警や青年の集会等には何時も都井君行こうではないかと誘うてやって居りましたが本人は何時も行けたら行くからと云うて丁寧な返事をして居りました。しかし大勢寄り合う場所は都井自身が避けて居りました、従て消防の年末夜警にも都井を組み合わせに入れませんでした、兎に角我々は本人に対し非常に同情して居ったので新聞紙に報道されて居た様に部落の者が嫌うた事はありません

もし当日に宴会があり、睦雄がそこに参加していたのであれば、この時に「当日も青年の集会があり、都井も珍しく参加しておりました」などと村人たちが睦雄を受け入れていた例として話に出すはずです。「実はその宴会はいわゆるヤリコンで、だから村人たちはその存在を隠しているのだ」という反論もあるかもしれませんが、それならそういう宴会だったことを伏せて話をすれば済むことであり、警察署長に村の親和性をアピールする格好の材料になったことでしょう。

また、貝尾には西加茂村役場書記の西川昇が住んでいたことも見逃せません。彼は職業柄警察の聴取に対して極力情報を提供しており、そのような宴会があれば彼を通じて警察に情報が提供されることは間違いないと思います。

そもそも、5月下旬は蚕の世話で忙しい時期であり、村人の一人(寺井元一)は

事件のあった夜、私は蚕の方が忙しくて、夜の一時半頃寝ました。

と証言しています(寝てすぐ事件で騒ぎになって起こされたとのこと)。この証言と、養蚕室で仮眠をしている時に襲われた被害者が多かったことから考えても、0時前に働き盛りの青年が集まってのんびり宴会をするような季節ではなかったと思われます。これも宴会がなかったであろう傍証です。

この点以外でも、今になってこの週刊朝日の記事を読み返すといろいろとツッコミどころが多いですね。当時私が書いたエントリでは薦めてますが、正直あまりオススメできる内容ではないことに改めて気付きました。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 都井睦雄が自殺した場所

2010 年 2 月 14 日

昨日ふたたび荒坂峠を訪問しました。その気になったのは、「加茂の三十人殺し」Webページの記事がきっかけです。

前回は目が節穴で気がつきませんでした、先ほど居た青いビニールシートの小屋が見える!
貝尾部落もばっちし見えます。(肉眼でも地理に詳しければなんとなくわかる)
睦雄はここより高い山頂で眺めたし当時木も雑木で低いはずだし懐中電灯の灯りなら確認できるはず。
まして坂本(元)部落は手前で近く岡田家襲撃現場はよく見え電気もついているし騒ぎ声も聞こえたでしょう

前回の経験から木々の芽が吹き草花が生えるてしまえば景色どころか山歩きもしにくくなる。
今の現状はハゲ山状態に近く前回から心残りであった山頂達成が容易であると考えたからです。

前回と同じく右わきの登り道へ。本日はこの山の頂上まで行きました。
途中から山頂までは以前からあったような窪んだ道がありますがイバラ道で歩きにくく横上道から
登りました(お地蔵様設置場所から10分位で山頂へ)

これを読んで、以下の2点を確認したいと思って現地(荒坂峠)に赴きました。

  1. 荒坂峠からも貝尾が見えること
  2. 道路の頂上付近にあるお地蔵様の横から、上の方に登れること

特に1.に関して、私は荒坂峠から貝尾は見えないと思っていたので意外でした。ページにある写真でも確かに貝尾部落が見えていますので確実とは思うのですが、自分の目で確かめないと気が済まない性分なもので。

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お地蔵様

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お地蔵様の横から上がる道

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道は途中で一度、完全に草と木にふさがれてしまっています
(注)春以降はここより上に行くことはかなり難しいと思われます。特に、事件が起きた5月頃に現地行きを企画している方は、チェーンソーでも装備して草木を切り開く必要があるでしょう。そもそも今の季節でもかなり危険なので、よい子の皆さんは(悪い大人の皆さんも)マネをしないでください。何らかの損害を被った場合でも本ブログ管理人は一切責任を負いません。

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突破すると開けた場所に出ます。上のWebページで「頂上」と表現されているのはこの場所と思われます

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念のためさらに奥に行ってみると、小高い台地になっているところが見えました。これが「仙ノ城」山頂かな?

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さっき見えた「山頂」に何とかたどり着きましたが、実は後ろにもっと高い場所がありました。しかしさすがに体力が続かないので、とりあえず先ほど見えていた手前の台地に登りました。麓からずっと走って登ってきた睦雄の膂力に、改めて感嘆した次第です

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この「山頂」はほぼ平らになっています。「山頂眺望好き場所にして小松雑木等繁茂する中間の約十坪(引用注、約30平米)くらいの雑草地」という検視調書の描写にほぼ合致していると思われます。もしかしたら、後ろ側のもっと高い場所にもこういう見晴らしがいい場所があるのかもしれません

IMG_1989
「山頂」からの眺め。「眺望好き」というにふさわしい絶景です
「おーれはー かわーらーのー かれーすーすきー」と口ずさみたくなります
ちなみに、登りはじめのお地蔵さんは右下の森のさらに下の方になります

IMG_1974
上の写真の右の方をズームして撮影。確かに貝尾が一望できます
「加茂の三十人殺し」ページ内のこちらの写真と見比べると、見下ろす角度の違いがわかると思います

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現地で見たときはこの奥が倉見ではないかと思ったのですが、方角や見えている建物から考えて知和方面のようです。その先には物見や阿波があり、物見から智頭経由鳥取方面につながっています

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睦雄や父母の墓がある倉見は方角的にはこの写真のもう少し左の方。やはりここからは見えないと思われます

というわけで、以前書いた「荒坂峠の山頂から貝尾は見えない」というのは間違いでした。ここにお詫びして訂正させていただきます。

この台地が睦雄が自殺した場所である可能性はかなり高いと個人的には考えています。津山事件の現地行を始めて3年。ようやくここまでたどり着いたか、と柄にもなく感慨に浸ってしまいました。

今回の現地行のきっかけをいただいた加茂の三十人殺しサイト管理人様に、改めてお礼を申し上げます。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 都井睦雄の墓 その4

2010 年 2 月 13 日

IMG_1937雪をかぶった睦雄の墓

久しぶりに津山事件に関する現地行を実施しました。というか現在まだ現地のそばの湯郷温泉にいます。昨日は、ときおり吹雪に近い雪が降る中、都井睦雄の墓を訪問してきました。上の写真は雪をかぶった睦雄の墓です。

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