前回、被害者の父親が就任していた「区長」というのは多分に公的な役職であったことを書きました。
その父親がおそらく関係していたであろう具体的な政治関係の話があります。本日の画像は「民有林開拓反対の請願書」です。
この請願書は、入間郡堀兼村長・諸口会三氏が会長となって設立された「埼玉県入間郡民有林開拓反対期成会」の名義で衆議院議長宛に提出されています。ちなみに、昭和22年(1947年)というと、ちょうど日本国憲法の発布に伴って帝国議会が国会に再編された年にあたり、国会への再編が5月3日、請願書提出は11月1日なので、請願書は日本国憲法下の国会で初めての衆議院議長となった松岡駒吉氏に提出されたことになります。
昭和22年当時、戦地からの引き揚げ者対策ならびに食糧増産対策として、堀兼地区の民有林を強制的に買い上げて開拓する計画がありました。上記の請願書はその計画に反対するために提出されたものです。諸口村長は後に埼玉県議会議員にも当選した地元の有力者であり、その子息も後に埼玉県議会議員を務めています。彼の旗振りの下、請願書には8,253名が署名したとされています。後に昭和29年に堀兼村も参加して合併・誕生した狭山市の発足直後の人口が31,030人であることを考慮すると、名前が挙げられている町村は狭山市の市域とは異なる(冒頭に上がっている柳瀬や大井はもっと東の方で、現在の所沢市やふじみ野市にあたります)ものの、当時の当該地域に住んでいた成人の大部分が署名に参加したものと考えられます。これだけの、いわば地元を挙げての反対がありながら、結局この計画は実行に移され、被害者宅からも遠くない堀兼村内のとある地域で50町歩(ほぼ50ha)が開拓されることになりました。請願書の提出先が衆議院議長であったことからも、場所まで含めて国政レベルの政治が動いての決定であることが伺えます。
この先は個人情報も絡むのでちょっと公開の場で具体的に書くことを憚られますが、他の資料から考えても被害者の父親はこの開拓反対運動に参加していたと思われます。そうなると、場所も近いことから、実際に入植した人たちとの間にトラブルもあったのではないかと思います(なお、この部分は私(本ブログ管理人)の憶測が入っていることをお断りしておきます)。
狭山事件が起こった直後、被差別部落への見込捜査が始まるまでの数日間、警察の捜査は地元関係・怨恨関係を中心に進められていたと言われています。その「地元・怨恨関係」とは、被害者の父が区長を務める地元の有力者であり、上記の開拓反対に関係していたことからのトラブルだったのではないかというのは一つの、かなり蓋然性が高い可能性だと私は考えています。
狭山事件の真犯人推理の中に「黒幕説」「怨恨説」というものがあります。「黒幕=被害者宅(父)と対立する勢力」が実行犯を使嗾して事件を起こしたという説です。従来、その「対立する勢力」とは誰なのか、どういう点で対立していたのかが不明なことが問題とされてきましたが、上記の開拓反対絡みと考えると、時期的にもかなり説得力があるのではないかと思います。