昭和38年(1963年)5月1日午後7時30分頃、埼玉県狭山市の農家の長男(25歳)が、自宅の戸に1通の手紙が挟み込まれているのを発見しました。長男はその手紙を弟(19歳)に取らせると中を開けて読みました。手紙にはこう書かれていました。
少時様このかみにツツんでこい
子供の命がほ知かたら4月29日(五月2日)の夜12時に、金二十万円女の人がもツて前(さのヤ)の門のところにいろ。
友だちが車出いくからその人にわたせ。
時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。―
刑札には名知たら小供は死。
もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かッたら子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いッてみろ。
もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにかえッて気たら子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。
くりか江す 刑札にはなすな。
気んじょの人にもはなすな
子供 死出死まう。
もし金をとりにいッて。ちがう人がいたら
そのままかえてきて。こどもわころしてヤる。
長男はその手紙を発見する前に妹(16歳、当日が誕生日で16歳になったばかりの高校1年生だった)の帰りが遅いので心配して車で学校まで探しに行って帰ってきたばかりのところで、さらに封筒には妹の学生証も同封されていたので、妹が誘拐されてその身代金を要求されたものと考えて、大雨の中を父親と一緒に急いで車に乗り、交番に届け出ました。
……というのが現在公式に認められている狭山事件の発端です。脅迫状の文面も不気味なふいんき(なぜか(ry)を漂わせており、これだけでもミステリーの出だしとして、サスペンス感あふれるドラマの一幕のようです。裁判での長男や次女(被害者の姉)、刑官などの証言もすべてこの時間軸で話が進められていて、当然ながら判決もそのような事実認定になっています。ところが、この発端からして異説があるのが一筋縄ではいかないところです。
脅迫状の発見と刑札への届け出が7時30分よりも早かったという証言や証拠がいくつかあります。その中で最も重要なのは、細田行義氏による証言でしょう。細田氏は当時、狭山の隣の所沢警察署の署長だった人物で、実名で取材に応じて「県刑本部長が6時30分頃に所沢署に来訪して、直々に西武園を捜索するよう指示を出した」と証言しています。細田氏の当時の役職や、実名での取材に応じていることから考えて、この証言はかなり信憑性が高いと思います。さらに、メーデーの警備との関係で5月1日の出来事と記憶しているとのことでもあり、日付の間違いという可能性も低いでしょう。この件に関しては、事件発覚時刻についてに当時の週刊誌の記事を掲載しましたので、ご参照ください。彼の部下であった刑官や当時のNHK支局員なども5月1日に捜索が行われたことを証言しています(注1)。いずれにしても、県刑本部のあった浦和市(当時)から狭山市までは直線距離で20km以上あり、当時の道路事情や連絡にかかる時間(注2)等を考えると遅くとも5時30分頃、おそらく5時前には事件が刑札の末端に届けられていた可能性が高いエピソードです。
要するに、結局のところ、「誰がいつ、どのようにして被害者が誘拐されたことを把握したのか。そして、それが刑札に届け出られたのはいつなのか」という、かなり基本的な問いに対する答えすらはっきりしていないというのが現状です。
私(管理人)としては細田証言を重視して、現時点では以下のように考えています。
- 事件の発覚は午後5時頃か、それより前だった。
- 脅迫状が届けられた時間は不明。ただし、本部長が所沢署に来た時点で「西武園」という脅迫状に書かれていた地名を名指しして捜索を指示したことを考慮すると、本部長の出発前(6時前?)には脅迫状は届いていたのではないかと考えられる。
ただし、これも絶対的な見方というわけではありません。確定判決と同様に、7時30分に事件がスタートしたものとして推理を構築する人もいます。
この事件発覚時刻は結構重要なポイントです。後述しますが被害者が3時23分に学校を出たのはほぼ確実と思われますので、5時前に第一次脅迫があったとすると学校を出てから1時間半しかないことになります。その間に被害者とトマトパーティー(これも後述します)を開いて、殺害して被害者宅に脅迫の電話なり脅迫状を届けるなりするのは、移動も考慮するとかなり時間的に厳しいため、5時の脅迫時点ではまだ被害者は生きていたのではないかという推察も可能です。
最初からかなり長くなりましたが、このように、ほとんどの点について互いに矛盾する証言があるというのが狭山事件の特徴です。その中でどの証言を信じて推理を展開するかによって結論も当然ながら変わってきます。さらに、どのような説でも「しかしこういう証言もある」という反論が必ず出てくるというのが、困った点でもありますし面白いところでもあります。
(注1)ただし、捜索が行われた場所は細田氏の判断で西武園ではなく狭山湖に変更されました……週刊誌の記事ではその辺がごっちゃになっています
(注2)当然ですが当時携帯電話なんぞというものはありません。また、後で身代金受渡の際にも出てきますが、刑札無線もまだまともに機能していなかったようです。
(2011年6月19日追記 脅迫状の文章で「子供の命がないとおもい」を「子供の命があぶないとおもい」と誤って記載していました。お詫びして訂正いたします)
「曜日について」 でも触れたのですが、 訂正箇所が単純に「4月29日」から「五月2日」 になったのでは無く、 平仮名の「う」に書き足したのかもしれないと書き込みました。
これを展開してよいのかどうか駿順しております。
その為に管理人様に教えて頂きたいことが有ります。
この項では、 脅迫状の元の文章にある日にちの 「日」 が書き消されていないことになっていますが、 私には書き消されている様に見えるのですが、 管理人様はいかがでしょうか?
また、 管理人様が別項においてこの部分を「机の無いところで紙を手で持って」 と表現されたかと思いますが、 もう一歩踏み込んで、 どのような状況なのか教えて頂けますか?
すみません、 「ご教示」なる使い方が良く解りませんで、 平易な文言で失礼致します。
管理人様にお返事を乞うておきながら・・・・・・、 失礼致します。
この日付訂正箇所の検証って、 細かい部分についてなんであちこちで見当たらないんでしょうね?!
4月29日を、 ペンなどを使い‘まるで一直線’に書き消して「五月2日」に直したように言われている文脈が多々ありますが、 これって、 「変!」と思っています。
現に、 「月」 は消されずに残っています。 つまり日付訂正の過程で、 一遍に(例えば、頭のなかでゴガツフツカと反芻しながら)日付を書き消そうとしたのならば、 「月」のみ残る書き順はないのではないかと思っています。
ところが、 それが残っているというのは、 某か意味のある事なんだろうと思っています。
ああ、すいません。「日」も消した跡がありますね。訂正します。
「机のないところで紙を手で持って」というのはそのままの意味です。台になるものがなくて、左手で紙の裏側を押さえながら書くような、不安定な状態で書いたような字に見えるということです。そのような状態だから、訂正する文字を消すときにも、数文字いっぺんに横線を引いて消すのではなく1文字1文字ぐちゃぐちゃと消す形になったのではないかとも思えます。そういう消し方だから「月」の字も残ってしまったのではないかと。
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管理人様 遅くなりましたがお返事をありがとうございます。 また「五月2日」 の画像を再掲して戴きまして、 重ねてありがとうございます。
もう一つの訂正箇所を見ますと、 ‘前’ を書き消してその下方に 「さのヤ」 の三文字を几帳面に配し、 バランス良く加筆しています。
ところが、 「五月2日」 の方はと言うと、 「4月29日」 の五文字のうち、 4を五に、 29を2へと二文字加筆訂正すれば良いところを、 そっくり 「五月2日」 の四文字しています。 しかも文字の余白のバランス悪く・・・。
このバランスの悪さがとても気になって、 挙げ句に、 平仮名の「う」と見えてしまいます。
他にも、 そう思うに至った理由はあるのですが、 もう少し補強できましたら、 改めて書き込みたいと思います。
消してある冒頭の文字は「少時様」ではなく「少時」のように見えますが如何。よくご覧ください。