狭山事件: OTくんの目撃証言 その6

毎日新聞 昭和38年5月6日付夕刊毎日新聞 昭和38年5月6日付夕刊(再掲)

今回の記事は、以前に掲載したものと同じ部分です。

この記事に掲載された写真でOTくんが被害者に会ったとされている場所は、道が大きく曲がっています。当時の地図現在の地図を見る限り、これはこの場所ではないかと思われます。

もう一つ、この記事を再読してわかるのは、当初OTくんが被害者を見かけたのは3時頃と報道されていたことです。被害者は2時30分の授業終了後に学校を出てガード下や沢地区まで移動し、そのあといったん学校に戻り、再度3時23分に学校を出るところを目撃されたのではないかという仮説とほぼ合致しています。

いずれにしても、当初の報道が最も作為が少ないと考えると、午後3時前後にOTくんが沢近辺で被害者に会ったという仮説は、それなりに高い信憑性を持っているのではないかと思います。

3 thoughts on “狭山事件: OTくんの目撃証言 その6”

  1. 第二ガードを線路沿いに行き右に曲がると沢でその先が関口自転車店なわけでしょう。今126号があるようだけど、私の持ってる1984年の地図だと、この道は新狭山小の前を通り加佐志を抜け堀兼中学に辿りつくように思われます。高低差の激しい狭山台ルートもあるようですが、存命なら62才くらいのOTさんは堀兼中方面からどちらかの道を来て、よしえさんと擦れ違ったのだから、堀兼付近に住む人が現狭山市駅の西側に出る為によく使ってたということでしょう。よしえさんもこの北の道を通って帰ることが幾度かあったのではないでしょうか。5月1日以前に幾度か。だからOTさんが来た道をまさに逆に辿り堀兼中方面か、もしくは自宅に帰ろうとしていたのかもしれない。よしえさんの通学路というのも最初は南のやけん坂のほうだったのかもしれないが、段々に北の道を使うようになってった可能性があるのではないでしょうか。

  2. 善枝さんは堀兼中学に通っていて、運動部にも所属していましたから、試合の際などに
    加佐志街道経由で他中学に出かけたことは何度もあったはずです。ですから、少なくと
    も北側の道も十分知っていたのは確かでしょう。
    ただ、入間川分校に通いだしてからその道を使っていたことはなかったようです。
    中学3年時の担任教諭は卒業の際、善枝さんに「分校に通うときは(人家がなく危険な
    ので)、薬研坂を避けて北側の道を行くように」と指導したものの、本人は「先生、大
    丈夫だよ」と言ってこれを聞こうとしなかった、と語っていますし、同級生の1人も
    「善枝さんはいつも薬研坂を通って通学していると言っていました」「事件前日は一緒
    に(北側の道を通って)帰る人がいなかったので、中田さんと薬研坂を通って帰宅しま
    した」と証言しています。
    善枝さんにとっては薬研坂経由が最短経路だったのですから、特別な理由がない限り、
    わざわざ北側の道を通って帰宅することはなかったはずです。

  3. 伊吹氏のコメントから、ではこの日、通学路を変更するに至った特別な何かがあったのではと推察できますね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です